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(二)

「ちょっと、失礼」
 私にそう言って立ち上がると、フョードルは暖炉に薪をくべた。
 それは十分に乾いていなかったらしく、パチリと爆ぜる。彼が火箸で薪を少しいじると小さく二、三度撥ね、先程より大きく静かに燃え始めた。それを見つめるフョードルの顔は橙色に照らされて、顔に刻まれた深い皺がはっきりとしている。
 ひゅるひゅると音を立てる隙間風はあまりにも冷たくて、この部屋が簡単に暖まるのを許しはしない。フョードル爺は白い息を吐いて、僅かに震えている。彼は髭を掴み撫でて、一息吐いた。それから、火に掛けられた鍋を軽く混ぜ、近くのマグを手に取った。鍋からミルクをよそって、そして、私の前へ置く。
「こんな物しかないで、申し訳ないですな。勇者殿」
 嗄れた声でフョードルはそう言う。
 私はその言葉を否定して、ついでにホットミルクは好きだと伝える。それは良かったと言って目を細めた。フョードルは簡素なテーブルを挟んだ私の前の椅子に座る。
 北国の冬はあまりにも寒かった。
 勇者は空腹や寒暑、不眠で身体機能が低下することはない。それでも外を歩けば肌が凍てついて、ピリピリと痛んだ。
これでも本格的な冬はまだだという。
 私はホットミルクに口をつける。ほんのりとした甘さ、そして温かさが体に染みるようだった。
 一ヶ月半前、王に謁見したあの日から私は都に度々顔を出すようになった。あの独特な雰囲気を私が気に入ったからだ。大きな街への憧れのような気持ちを満たしてくれるし、この平和を私が守っているのだと思えば自分が勇者であるということに多少の誇りも持てた。
 そして数日前に都で、十二貴族、フョードル・ビエルイの使者だと名乗る男から「着いてきて欲しい」と言われた。特にしなければならないこともなかった私は彼に着いて行って、この状況である
 息を小さく吐く。すると、暖炉の炎が大きく揺らめいて、壁に映る影も釣られて動いた。
「では、本題ですが」
 そう言ってフョードルは何故私を呼んだのかを語った。
 約一ヶ月前、ワイバーンが最北の街サダリアを襲い、そして街全体を縄張りとした。幸い死者はあまり出なかったが、人々は住み慣れた街から追い出された。ワイバーンは縄張りとした場所にネズミ一匹だろうと入れることを許さない。だから一先ず、サダリアの住人である約五千人は、フョードルの名の下にサダリアから南方二十五キロメートルにあるこの村の近くに簡素な小屋を建てて住むことになった。
 しかし、そんな粗末な小屋ではこの冬は超え越えられない。それに加えて食料問題。今は村の食料の備蓄を分けてはいるが、このままでは村の人共々飢えるだろう。どう考えても、冬を越す食料には足りなかった。
「ということで、そのワイバーンを勇者殿に討ってもらいたいのです」
 楽な依頼だと思った。
 ワイバーンとは黒い竜だ。空を飛び、火炎を吐く。素早いだけのゴブリンや剛力だけオークに比べて厄介な相手だが、倒した経験も何度かある。そう難しくはない。
 しかし、一つだけ思うところがあった。
「フョードルさん、その依頼を受けるのは構いません。しかし、聖剣の力を振るうのには生贄がいります」
 この老爺には多を救うために一を犠牲とする、命を天秤に掛ける覚悟があるのか。自らの名を以って相手に死ねという覚悟が。
「聖剣の贄、ですね。神との約束だ。分かって、います」
 私が皆まで言う前に、目の前の老爺は私の瞳を見ながら、いや私の瞳を通り抜けた遥か彼方を見ながら静かに、同時に、力強くそう言った。そして、ゆっくりと目を瞑り、白い髭に包まれた口を動かす。
「レフよ、入りなさい」
 その言葉を合図に部屋へ入ってきたのは、私と同じくらいの年の少年だった。背は年の平均より少し小さい印象を受けたが、目鼻立ちは整っている。高くすらっとした鼻と切れ長の目、薄い唇。瞳も髪も黒で肌は透けるような白色。少し細身で北国の人の割には手足が長かった。本当に秀麗な顔の人には遠く及ばないが、端正な顔立ちだった。
 けれど、それ以上に彼の顔がやつれていることが気になった。隈のせいで落ち窪んでいる。頬は削げて、肌の白さは血が通っていないからであるように思えた。最も気になったのは目。酷く底冷えた、氷のような瞳だった。
「本当に彼が今回の聖剣の贄ですか」
 勿論、話の流れからレフと呼ばれた彼が贄なのは間違いない。しかし、それでも十五、六歳程度の者が緊急的でもないのに贄に選ばれるとは考え難かった。贄は普通、老人や回復の見込みのない病人などの中から選ばれる。残酷だが、そうなのだ。
 しかし、彼はどう見ても十五、六歳。顔色こそ悪いものの何か生命に関わる病に侵されているようには見えなかった。
「私もこのような若者を贄として差し出すことは心苦しいのですが。彼の家族、ワイバーンの殺られましてな」
 フョードルは言う。
「彼自身に生きる気力がないのです。ここの冬は厳しい。今回の襲撃で備蓄も相当減りました。残念ながら生きる気力がない者に与えられる物は……」
 目の前の老爺はゆっくりと息を吸い込み、そして容赦のない言葉を突き出した。
「何も無いのです」
 パチリと薪が撥ねる。レフに目をやると、何も聞こえていないかのようにただ虚空を見つめている。
 私はその言葉を聞いて納得する。最小の犠牲で多くが救えるなら、絶対にそうするべきなのは間違いのないことだった。
「分かりました。では早速儀式を」
「お待ち下さい、勇者殿。一つ了承してもらわなければならないことがあります。レフよ、自らの口で伝えなさい」
「はい、ビエルイ様」
 そうフョードルに促されたレフが口を開いた。小さいが澄んでいて落ち着いた声だった。私の鼓膜を静かに揺らす。
 レフは私の目をまっすぐに見つめて、ゆっくりと言った。
「勇者様、一つだけ、お願いがあります。どうか、アウレルを、ワイバーンの襲撃で死んだ家族を僕の手で埋葬させては頂けないでしょうか」
 静かにレフは言ったが、そこには確実に彼の感情が込められていた。私も三年と幾か月前のことを、父と母が死んだあの日のことが脳裏によぎる。
「何かあればワイバーンを討つのを優先するけど、なるべく、協力する」
「ありがとうございます、勇者様」
 縄張りを定めたワイバーンが数ヶ月で移動するとは到底考えられなかった。別に急ぐ必要もない。どうせワイバーンを討つのも寝ている昼だ。街へ入って遺体を埋めるくらいの時間は取れるだろう。その前にワイバーンが目覚めてしまったら反故することになるが、仕方ない。
「今夜は吹雪きます。出立は明日にして、今夜はゆっくりお休みください」
 フョードルのその言葉に私は頷く。確かに風の音は先程から増している。
 少し冷えた指先をホットミルクのマグを持つことで温める。いつの間にか膜が張っていたそれに波紋は立たない。軽く息を吹きかけると皺が寄って重くなり、浮力を超えたそれはひそやかに、しかし、波紋を立てて底へと沈んでいく。
 それを見ながら私は、彼と行くなら二十五キロメートルの距離も大分掛かるな、と思った。

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