臨時休校
タクトにとって、自らが呪詛の対象になるとは考えもしなかったし、自分に呪詛がかけられそうになっているという実感もなかった。相手の見当がつかないというのも原因ではあるけれども、一番の原因はアヤメにあった。家に帰ってからというもの、アヤメはひたすらに厚焼き卵の素晴らしさを語った。色合いの鮮やかさから味わいのやさしさなど、社で言葉にした感想をまたもや並べ立てて、卵料理について根掘り葉掘り尋ねてきた。卵料理はどれだけあるのか、どういったものがあるのか。大概の人間であればたやすくこたえられる類だらけだった。
だがどうしてだろう、アヤメがいなくなってひとりベッドで横になっていると、たちまち気味の悪い胸騒ぎが頭をもたげてくる。ほとんどなにも見えない夜闇の中で、今か今かと呪いに励んでいるだれかがいるのかもしれない。あるいは、この瞬間、タクトと同じように布団に入ってなにか考えごとをしているかもしれない。そしてタクトに呪詛がもたらされることを待ち望んでいるのだ。少なくとも、だれかがタクトの不幸を願っていて、タクトが吸っている空気と同じものを吸っている。
ただ、呪詛の水を渡された晩のような強迫観念とそれに反する感情はなかった。呪詛が願われてしまうかもしれないとは思っていたけれども、タクトは神代であって、執行を拒める以上、害の及ぶことはないと知っていた。そのような微妙な均衡、呪詛が害を及ぼさないという安全とわが身に迫ってくる呪詛への不安に近い恐怖とのバランスが、タクトから睡眠を奪ったのである。
目をつぶるだけつぶって、ときどき目を開けて、そうして夜が更けていった。弁当を作って、朝食を食べて、歯を磨いて、顔を洗う。不思議と眠気はなかったけれども、すがすがしさとは程遠い感覚だった。なんだかきまりが悪かった。不安と怖さがない交ぜになった気持ちがずっとタクトをつんつんとつついていた。
家を出なければならない時間まではまだ余裕があったけれども、どうも落ち着かなくて早々と出ることにした。ここにアヤメが現れてくれれば、とタクトはあたりを見渡してみた。すっとアヤメがそばを歩いているのを期待したけれども、アヤメの姿は現れなかった。
アヤメはどこに行ったのだろうか。タクトは急に心細さを感じて、もう一度辺りを見回した。今度は脚を止めて。それでもやはり周りにアヤメが現れることはなく、それどころか、人間の姿がどこにもなかった。あたかもこの地域に自分だけしか生きていないかのような寂しさに包みこまれた。いつもとは違う感覚はタクト自身も自覚していたけれども、それは単にいつもより早い時間に出たからだと、そしてタクトを眠らせなかった微妙な感覚がタクトにそう感じさせているのだと、自らに言い聞かせて学校へ向かった。
内心そわそわしながら歩く中、学校に来るまでに事件の類はなにもなかったし、様子もまたいつもと変わらなかった。住宅街に入ってからは同じ制服を着た人を何人か見かけたし、タクトとは反対方向に進む自転車もあった。車も何台か通った。
問題が起きたのは学校の門をくぐってからだった。校門から校舎までは平坦な道一直線で、奥に昇降口が見えるのだが、昇降口をふさぐような形でパトカーが停まっていた。さらにその手前には先生が立ち話をしているようだった。ただし談笑はしていない、校門からはどのような表情をしているかまでは分からなかったけれども、少なくとも笑っていないのは確かだった。
校門をくぐって、先生たちに一歩、一歩と近づいてゆく。次第に表情も明らかになってきて、タクトの不安をかきたてた。ただでさえ奇妙な感覚で心がおかしくなりそうなのに、目の前の光景は心をつっつきまわる。パトカーはもちろんながら、一向に校舎に入ろうとしない先生たちの真剣な目はなにかただならぬことを予感させた。
先生が立っているそばで女の先生―隣のクラスHR担任がしゃがみこんで、その隣で保健の先生が介抱していた。青白くなった顔はあからさまに血の気が引いている。ショック症状の出るようなことがあるだろうか?
ヨシワラ。
水。
トモを殺せ。
不愉快な気持ちとは別に姿を現したイメージはタクトの脚を止めた。三つのシンプルで印象的な言葉は先生の目よりもはるかにすばやく、かつ大胆に心を叩きまくった。特に三つ目の要素は叩きまくるというよりも刺しまくっている。刺したことによってできる穴からひとつの訴えを押しこんできた。ヨシワラはトモを殺した。
先生の一団からひとり、タクトが立ち尽くしているのに気づいて小走りで駆けだした。あの真剣なまなざしと目が合って、きまりの悪くなったタクトは目を逸らした。校庭と道とを隔てる樹々の緑が目に入って、さらに樹々の隙間から、小さな警察官が歩いているのが見えた。
今日は臨時休校だよ。連絡が回ってなかったのかな。先生の言葉は先生らしい生徒に優しく投げかけるような口調だったが、目の奥には優しさとは程遠いこわばりが感じられた。少しだけ体を右手の樹の方へ回りこんで、警察官がいた方をすっかり塞いでしまった。不安がらせるものを見せたくはないという気持ちの表れだ。先生は依然としてそれを隠したまま、今後の連絡は改めてするから、今日はひとまず帰りなさい、と諭すように言った。
殺したわけがない。タクトが帰路で考えていたのはもっぱらそのことだった。タクトは相手が死なないよう、ちゃんと水を薄めてヨシワラに渡した。水に含まれている力は間違いなく弱まっているだろうし、たとえ全部飲んだとしても、意識を失って倒れるのがせいぜいのところだとタクトは踏んでいた。だから、ヨシワラがなにかをしてペットボトル全部の水を飲ませたとも思っていたし、実際タクトが思っていた通りに卒倒したのだろう。ただ倒れた場所が学校だったのは予想していたわけでなかったけれども。
家に帰ったタクトは荷物を集めた。水を入れたポリタンク、ジョウロ、そしてアヤメのはいった植木鉢を六つ。家で育てていたものが増えて花壇に収まりきらなくなっていたのを植木鉢に移していたのだった。これらすべてはアヤメの社の花壇に植えつけるために持ってゆくのだった。まだ若くて花が出るほどのものではないけれども、狭い植木鉢よりも広い花壇に植えた方がアヤメたちのためだと考えていたし、なにより、家にいたくなかった。
ポリタンクを背負子にくくりつけてそれを担ぎ、残りは台車にのせて社へ向かった。道路の隅でポリタンクを背負って台車を押している姿は滑稽なところがあったけれども、タクトは必死だった。台車の中にあるのは前に運んだ砂利の類ではない。タクトが今までずっと、何代も育ててきた、いわば子供たちだ。道路のちょっとしたうねりや穴、くぼみに気を配りながら、道を選んでゆくのは当然の流れといえよう。もちろん。長い長い下り参道もである。砂利のときは車輪をガンガン鳴らせながら乱暴に引きずり下ろしたのだが、アヤメたちについてはひとつひとつを抱えて、慎重に運んでいった。黒鳥居に台車を止めて、まずは踊り場の大岩まで下ろして、そうしてからさらに境内まで下ろした。
一番下の段に、女子生徒が座りこんでいた。後ろから見る髪の毛の感じは間違いなくヨシワラで、上から眺めていてもタクトにはよく分かった。ただひとつ、よく分からなかったのは、ヨシワラの真ん前にアヤメがたたずんで、ヨシワラの姿を見下ろしていた点だった。アヤメが社にいたという発見とともに、どうしてヨシワラを見下ろしているのか、奇妙に思えた。
タクトが境内に下りれば、アヤメはタクトに視線を移して、一方ヨシワラは下を向いてタクトを見るけはいさえなかった。アヤメになにがあったのか尋ねてみれば、呪詛が成就したのを感じ取って、様子を見に移ってみれば、階段で呪詛の主が座りこんでいたそうだ。
タクトはアヤメに――ついに着物がはだけていた――説明の礼を口にしてから、鉢植えを石畳において、ヨシワラと向き合った。まず目についたのはひざの擦り傷の痛々しい赤だった。次に、ひざの奥でケータイが震えている様子だった。バイブが震えているのではない、携帯電話を持つ手が震えていた。携帯電話を抱きしめる手はアルコールかなにか薬物の依存に陥ったのではないかと思わせるほどの震えで、あからさまに普通ではなかった。ヨシワラは気が動転している、タクトにはそう見えた。
ヨシワラの肩に手をのせてみれば、肩までもが痙攣しているような震えに感染していた。どうしてそんなに怯えているんだ、ヨシワラの願いはかなえられたんじゃないのか? タクトの問いかけにヨシワラは答えなかった。
ヨシワラは力のない声でタクトの名前を呼んだ。かろうじて言葉になっているといった具合で、気力もすっかりそがれてしまっているようだった。まるで口が惰性で動いているように、ずっと同じ名前をつぶやき続けた。タクト、タクト、タクト――『タクト』だけしかしゃべれない簡単なおもちゃのようであったけれども、そのようなのんきな言葉で言い表せるような姿ではなかった。
手で頭を挟んで顔をあげさせれば、ヨシワラの状態の悪さを如実に表していた。力のない目元にはクマが現れており、顔色だってよくなかった。明らかに憔悴しきっていて、いつ倒れてしまってもおかしくはなかった。
「呪詛は成就したんだろ? だったらなにもビクビクすることもないじゃないか」
「タクト、だって、だって、あんな恐ろしいことを、私はしてしまった」
「おそろしいことだって? せいぜい気を失って倒れる程度じゃなかったのか?」
「刺したの」
思わず、え? と聞き返した。心は聞き返しても、体は素直で、背筋が凍る感覚に陥った。ヨシワラは飲ませるだけでよい、水を飲みさえすれば水の中の薄まった呪詛が働く。だからヨシワラには飲ませる以外のアクションはいらない。なのに刺した、とは。ヨシワラは自分で恐ろしい行為をおこしてしまった。ヨシワラが相手を刺した。けれども、タクトの理解は、ヨシワラの更なる言葉で思いっきりひっくり返されてしまった。
トモが、自分で、自分を、刺したの。何度も、血だらけになりながら。地面に倒れても、ずっと自分の体を刺し続けた。
自分自身がした勘違いに安堵する暇さえなかった。呪詛が与えられた相手は自らを刺し続けた。想像するだけでおぞましい光景だった。刃物を逆手にとって、自分自身に何度も突き立ててゆく。立っている力がなくなっても、地面に倒れて体を刺しまくる。
ヨシワラは虫の声で言葉を紡いだ。学校からの帰り際、トモと会って、一緒に帰ることとなった。途中でトモはのどが渇いたとヨシワラにも漏らし、飲み物を持っていないか尋ねる。ヨシワラは好機を逃さないよう、そこでタクトから渡されたペットボトルを渡した。そのときはなにも起きなくて、タクトの言葉が嘘だと思っていたら、夜にトモから電話がかかってきた。鼻声で、ときおり鼻をすすりながら、ヨシワラを学校に呼び出した。
いわれるがまま学校に行けば、トモは体育館近くの明かりの下にいて、ヨシワラが近づくなり土下座で謝った。ヨシワラがつきあっているのは知っていたのに、カレのことを拒否できなかった、と。無理矢理ヤられて、それからお前と付き合ってやるなんて言われて、どうしたらいいのか分からなかった。
ヨシワラは当然恨むべき相手が嘘をついてこの問題を終わらせてしまおうとしていると決めてかかった。ヨシワラのトモに対する信頼はホコリよりも小さかった。でも、トモが差し出した携帯電話には、かすかな信頼でも事実を認めないといけない証拠が残っていた。カレシからの、トモへのメールだった。セックスの強要を求めるものや、デートとその後の事柄を暗示させる約束のメール、そしてヨシワラとの関係に関するもの。すべてが『証拠』と名前のつけられたフォルダに収められていた。
ヨシワラとカレが付き合っているのを知っていたから、本当ならすぐに別れるよう言うつもりだった、とトモは言った。でもそのあとカレシがひどい振り方をしたのを知って、言うにも言い出せなくなった。ヨシワラはトモのせいで別れてしまった、そう考えられてもおかしくなかったから。早くヨシワラに教えればよかったのに、それをしなかったのはただただ自分の意志が弱かっただけだ、トモは地面に頭をつけるほどの土下座をして、おもむろに立ち上がった。土や砂利のこびりついた額をさらして、手に持ったのは包丁だった。
「それで、トモは刺したの、自分のおなかとか、胸とか、何度も、ひっきりなしに。どんどん体が赤くなっていってもトモは、ごめんなさい、ごめんなさい、ってずっと謝ってた。地面に倒れてもずっと同じ、体を刺しながら同じ言葉を。ついに動かなくなって、怖くなって、ここに逃げてきた」
ヨシワラは言葉を吐き出すと、体力の全てを使い果たしたようにぐったりと頭を落として動かなくなった。すっかり押し黙ってしまったけれども、相変わらず体の震えは止まっていなかった。
タクトはヨシワラの告白に身動きがとれなくなっていた。ヨシワラが呪った相手は自らを何度も刺した。これでは大けがで全治数週間となるわけがない、相手が死んでしまうのは避けられない。しかも、ヨシワラが刺したわけではなく、自分自身で刺したのだから、呪詛の水が原因となっているのもまた間違いない。とすれば、タクトが企てていた抵抗、つまり薄めれば何とかなるという考えが否定されてしまった。薄めた水を以てしてでも呪詛の成就をねじ曲げられなかった。
タクトはヨシワラの相手――トモを殺してしまった。人を殺してしまった。
体の中の血という血から体温が奪われ、体の芯まで冷たくなってしまった。タクトは最も避けたかった事柄を引き起こしてしまったのだ。タクトは自分の手のひらを見下ろして、感覚が薄れているのに気づいた。さらにおぞましいことに、タクトにはその手に真っ赤な鮮血がこびりついているように見えた。
どうして薄めても相手は死んでしまったのか、タクトはアヤメに確かめずにはいられなかった。
「タクト様、そのようなことをなさったのですか」
「だってしょうがないでしょう。どうやっても人が死んでしまうなら、人が死なないよう程度を弱めてやるしかないじゃないですか」
「あの水は毒水の類とは異なります。込められているのは呪詛そのもの、水を足したところで呪詛に影響は全くありませぬ」
「じゃあ、俺のしたことは全くの無駄だったというのですか」
「さようでございます。これでひとつ呪詛が成就したのであります」
アヤメはいたって普通の調子の言葉で、それがタクトへのダメージをより助長させる結果となった。平然とタクトの望まぬ結果を突きつける言葉が、タクトの体じゅうから力を吸い取った。膝がたちまち大爆笑したかと思えば、まるでひざの裏を蹴られるなり殴られるなりしたかのようにカックンと折れてその場にしゃがみ込んだ。足だけでは体を支えられなくて、腕を突き立てて体を支えた。
俺は、人殺しをした。幾度となく口にしてきた言葉を、でも決定的に意味の違う言葉を石畳に垂らした。アヤメは対して、幾度となく口にしてきた返事をした。意味に違いのない、いつも通りの返事だった。人殺しではない、いったい何度申せばよいのか。
なんら変わらない調子に、タクトは声を荒げた。
「その呪詛は人の道に反してます。呪詛を成就させるのがアヤメ様の役目かも知れませんが、人を正しい道に導くのは神社の役目でしょう」
「わたくしには呪詛を成就させることしかできませぬ」
「アヤメ様にはそれしかできないでしょうけれど、俺にはそれ以外のことなら不可能ではありません。ヨシワラが抱えている問題をうまく扱って、解決できたかもしれないんです。なのに、できなかった」
そして、相手が死んでしまった。まったくお門違いの呪詛を受けて! 全てが起きてしまった今になって、タクトはようやくひとつの道筋を見つけた。ヨシワラの話で完結させるのではなく、相手であるトモにも話を聞けばよかったのだ。もうひとりの当事者から事情を引き出せてさえいれば、真相とその証拠が明らかになったに違いない。どうしてこのアイディアと筋道がアヤメから水を受け取ったときに気づかなかったのか。こんな簡単なことを、どうして。