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1-2 啓示 Yutar

 オキクルミ、またの名をアイヌラックル、即ち「人間に近い神」。

 知里(ちり)ユキエの神謡(ユカラ)集ではオキキリムイと訳されて、その伝説は無限に近いほどあると言われる、アイヌの英雄。
 その強さは神・魔物・人の間を問わず語り継がれ、憧れられ、同時に畏れられた。

 だが北加伊道王宮に仕える神官によれば、人間を救済に導いた大鹿の霊、ユッコルカムイをカムイモシリの神々に呼応して討伐し、その力をもって人間を堕落させた邪神である、と云われている。
 また一説によればオキクルミは日本帝国人であり、アイヌを崩壊させるために遣わされた者だとも云われている。

 王国が誕生して以来、その神は忌み嫌われる対象となりつつある。
 その理由は、建国の父コロイフキ、そして当代の王カレイフキがユクコロカムイ、即ち「鹿を恵み、護る神」を崇拝しその啓示を受け取る審神者(さにわ)であるからだ。さっき述べた神官の伝承もそのような背景があってのことだろう。



 1月2日。

「オキクルミ?」
 北24条、わたしと村泉ミラルの居の近くに建つ、喫茶店「マグノリア」で、彼の口から思いがけぬ単語を聞いた。
 ミラルはコーヒーを飲んで、背もたれにもたれかかって話す。
 先刻病院から退院させられたらしく、調子はどうかと自宅に電話したところ、「マグノリアで待ち合わせしよう。昨日のことで話したいことがあるんだ」と言われて今、こうして会っている。

「そいつはそう名乗っていた。天窓から差し込む朝日を背に、小さな鳥が屋根に立っていたんだ」

「鳥?」

「そいつが俺のことを呼んだんだ。『村泉の息子よ』、と。『2週間以内にカムイコタンへと参り、私の事業に助力を頼みたい』、と」

「すごいね、鳥が喋ったんだ」

 わたしにとっては動物が何らかの意思を伝え、あるいは今テーブルの上でジャム入りの紅茶を飲んでいるウサギが喋ることに関しては何の不思議もない。
 でもミラルにとっては動物は会話して意思を伝えるようなことはできないもののはずである。実際彼に、テーブルの上に座るウサギは見えていない。

「そう感じただけだ。ただ鳥は嗄れたような声で歌いながら踊っていた。...ように見えた」

「そういう夢でも見ていたんじゃないの?病院で」

「はっきりと覚えてるよ。飛び立った瞬間、俺が後ろ向きに倒れて、谷宮が駆けてきてくれたとこまで。こうとも言っていた、『この鹿の王国が崩壊する前に決断されよ』、とも」

「鹿の王国......つまり北加伊道が? キッパリというのね、預言者みたいに」
 そうわたしは言ったが、テーブルの上でキリトは興味を示したらしく頭を高く上げてミラルを見た。

 呆れたように目を閉じるとミラルは7:3に分けられた長い前髪を、右手でかき上げる。
 その右手のメタルバックルの腕時計の下に巻かれた黒い布はなんなのだろう。以前聞けば、ファッションだよと言ってそれ以上語らなかった。

「この話は谷宮にしか出来ないと思い打ち明けた。馬鹿らしいと思うならもういいか?」

「わたしがちょっと神話神謡(ユカラ)に詳しいからってそんな話聞かされて、わたしにどうしてほしかったの」

「谷宮はアサヒカワの出身だから、カムイコタンの地理は詳しいと思ったんだ。どういうところか教えてくれないか」

「そういう話は後回しにするものなんだっけ。あそこは一度肝試しに行ったぐらいで全然知らないよ。」

「やっぱり出るのか。あそこは」

「信じないとは思うけど、出る・出ないというより、あそこは何かの出口なのよ。悪寒がする空気というか、霊気というか。
 それがどう自殺に絡んでるか知らないけど、それを感じた瞬間寒くなったというか怖くなったというか...... とにかく縮こまって震え上がっちゃって、友達を怖がらせちゃったことがある」


 神居古潭(カムイコタン)はアイヌ語で「神の村、神の居す場所」という意味だ。自殺の名所と国内では結構有名な場所である。
 そこに果たしてオキクルミが居るのかどうかは分からないが、実際は普通のなんてことないイシカリ川の急流を望む景勝地である。

 オトエからアサヒカワにかけてサイクリングロードがずっと続いてて、そこの夜道を歩こうと誘われて嫌々ながらも行ったが、わたしがあまりに怖がるのでみんなそれ以上は進まなくなった。


 あの時はまだトゥイエカムイサラナとも、出会ってはいなかった。だけどわたしの耳に、聞き分けられないほどの記憶の声が流れてきて、あの時ここはやばいと思いそして自分の特異な感覚を実感したんだった。

 聴こえない音が聞こえるという一種の第六感は昔からあって、それを狙われてあいつは取り憑いたのか、それとも昔からあいつ自身はわたしの首の後ろにいたのか、とよく思うことがある。


 目の前の灰色(アッシュグレー)がかった髪の青年に、そういうのがありそうな気はしてもそんな気配は微塵も感じたことがない。



 村泉ミラルは不思議な子だった。

 180cm以上の長駆に長い手足。
 北帝大のキャンパスの木陰でいつも本を読んでいて、誰とつるむでもなくよく一人でいる。そんな根暗そうな性格を見事に表現したような、右目が隠れるほど長い前髪と灰色(アッシュ)の髪。そしてそれと矛盾するような、野性的な薄く褐色(ヴァンダイク)に染まった肌と発達した体躯。脱げばすごい、と同期たちの間では評判である。

 彼が意識してそうしているのか(ある)いは同期が避けているのかは分からない。もしかすると、わたしと同じように、同期であるのに2つも年下であり、それなのに彼ら以上に大人びていることがそうしているか拍車を掛けているかも知れない。

 だが、彼からは何かが “(かお)る”のである。
 『源氏物語』の(かおる)から、不義の子であることを誇示するような薫りが女を引き付けたように、彼には人を引き付けるような、避けさせるような何かが薫るのだ。
 早熟ながらとても端正で、細い線で迷いなく描かれたような顔と容姿、彩度を取り払った髪と琥珀色(アンバー)の目は誰もが魅力的と思う男のはずだ。
 だが、その広い背中の下には何かがおんぶされて、隠れているよう。
 すらりとした首の後側は、削れば鏡となって空を映しそうな、毛が生えれば獣と見まごうかのように野生的で猟奇的な雰囲気がある。

 だからわたしは、彼を知りたいとよく思うのだろうか。
 いや、思ったのだろうか。



「......宮。谷宮。」
「ああごめん、考え事してた」

 ミラルは不思議な目で見ていた。
 そしてテーブルの上のウサギは、そのつぶらな目を細めてニヤニヤしているように見えた。

「俺は思ってるんだ。その声に従って、自分に与えられた使命を果たすべきなのだろうかと」

「その声の主が、何をしようとしているかも分からないのに? あなたはそんな詐欺めいた話に引っかかる人には見えないけど」

「いや、分かるんだ。これは俺に与えられた宿命なんだと。
ずっと、自分がこの歪んだ世界の中で何ができるのだろうかと考えていた。そのために2年飛び級までして北帝大に入った。間違いなくだれかが見ていてくれていたんだ......」

「自分の意味を探してるほど、宗教や危険思想に(ハマ)るって思う。あなたはそんな人間だっけ」

「......谷宮。お前ならわかってくれると思ってる。何かを探してるんだろ? お前は、俺と同じだ」

 琥珀色の、白目に比べ小さな瞳が、白い昼の雲越しの太陽の光をわたしの目へと跳ね返した。
 その視線はどこまでも真っ直ぐだった。わたしはいつかのときのように、なにも言い返せなくなる。

 確かに、このサッポロの街が美しいと感じたことはない。

 赤煉瓦とサイネージ広告で固められ、温室のようなはめ殺しの硬質ガラスのドームで武装したエゴの塊だ。だけど、そこには確かに人間の人間らしい意思がある。
 だが、それ以外も歪んで見えるほど、彼の見ている世界は絶望的なのだろうか。


 確かに、この目の前の青年は、獣のように美しいのに。
 どれだけ苦しんでいたらしくても、どこまでも真っ直ぐで。


「......ごめんな、せっかくの休みなのに。もういいんだ、忘れてくれ」
 そういうと伝票を手に取り、ミラルは席を立った。

「あのさ...... わたしに打ち明けてくれてありがとうね。なんとなくでしか君が苦しんでるってこと、分からなかったから」

「......」

「また、近いうちに話してくれる? わたしをその気にさせてくれればどこへでも連れて行ってあげられるから」

「いいんだ。もう......いいんだ」


 私に背を向けると、黒いチェスターフィールドのコートを着て立ち去っていく。
 わたしになにができるんだろう。一層そう思うようになっていくのだった。

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