6:シートベルトをお締めください
旅客機の振動で目を覚ましたアデラは、アイマスクを外すより早く、瞬時に状況を把握していた。
周囲の声。爆音。そして哀れにも神に祈る声。
その声はもしかすれば、神の御元に届かないのかも知れない。けれども――アデラは固く〝そう〟信じている――神は必ず、正しい者を見捨てないと。
「手伝えることはありますか!?」
近くに居た兵士の、袖に縋るように問う。兵士は、まずアデラの異形の目を見てギョッとした顔になり、それから、〝理解の及ばぬ奇妙な生物〟を見てしまったような苦々しい顔で視線を逸らした。彼は機関室へと走って行ってしまう。
「だ――誰か、何かお手伝いできることは……!」
「アデュー!」
虚しく空回りする言葉を、イリーナの鋭い声が遮る。イリーナはアデラの腕を掴み、自分の座席へ引き寄せると、残る二人の同行者――シェイマス・ダッドリーとソフィー・リーに視線をやり、手招きした。
「あ!? どうなってんだこりゃァよ!? 燃えてるじゃねえか――落ちてるじゃねえかァ!?」
ソフィー、赤毛の少女は、窓ガラスに鼻を押し付けて外の景色を見る。旅客機は確かに、急角度とは言わないが、高度を落とし続けている。
「おいおい、マジかよ……飛行機の翼って自然に折れるもんか!?」
色黒の少年、シェイマス。冷静に状況を観察しているようでもあるが、然し動揺ははっきりと見て取れる。
無理もない――と言うより、それが当然だ。地上3000mを飛ぶ飛行機で爆発事故が起こったら、怯えるのが普通なのだ。
だが、この機内にたった一人、冷や汗の一筋も流さない者がいる。
「アデュー、座ってましょう。シェイマス、ソフィー、貴方達も。私達が焦っても役には立てないわ」
イリーナは座席に深々と腰を下ろして、紅茶の入ったペットボトルの蓋を開け、一口、喉を湿らせる程度にそれを飲んだ。蓋の閉じられない飲み物は、全て床にぶちまけられてしまったからだ。
「……お嬢様、たいそう落ち着いてらっしゃいますねえ。あのねえ、今の状況分かってんの?」
「そ、そうだ! 私ら、落ちたら死ぬんだぞ……死んじまうんだぞ!? ちくしょう、ちょっと運が回って来たと思ったら……!」
皮肉気に言うシェイマスと、泣きそうな顔をするソフィー。このリアクションでようやく、イリーナは、自分の認識の誤りを理解した。
「ああ――二人とも、知りませんでしたのね?」
冷静さを取り戻したイリーナの口調は、普段の〝猫をかぶった〟ものに変わっている。
「私達は死にません。いえ、もう死ねませんのよ」
そう告げた時、シェイマスとソフィーは静かに顔を見合わせた。言葉は交わさぬが、意思の疎通は行えている様子。おそらく二人の間では、〝こいつは頭がおかしくなった〟という共通認識が完成したのだろう。
その認識とは裏腹に、イリーナの思考は鮮明であった。
床に散らばった豪勢な食事の中から、砕けた皿の破片を取り上げる。切っ先を喉へ向けると、アデラが青い顔をして叫んだ。
「駄目っ!」
それを意に介さず、イリーナは、己の喉を、皿の破片で切り裂いた。
「げえっ……!?」
シェイマスが呻いた。イリーナの白い喉から、赤々とした鮮血が吹き出し、絨毯敷きの床を濡らす。
治安の悪い街で育ったシェイマスとソフィーには、出血が致死量に達していることが感覚的に理解できた。
しかし、次の瞬間発生した出来事に、二人は目を疑う。十数秒で動脈から吹き出す血が止まり、肉色の断面を晒していた喉の傷も、皮膚が這い伸びて裂け目を覆うように塞がったのである。
「いかがかしら?」
己の血で濡れた皿の破片を投げ捨て、イリーナは言う。その指からは未だ乾かぬ血が、たつ、たつと、絨毯の上に滴り落ちていた。
「貴方達――いいえ、私達に施されたのは〈瞬間の永続化〉。全てを手に入れた教国が、唯一自由に出来ていない〝時間〟を意のままにする為の〝実験〟の産物よ」
狂気的な光景を見せつけて、次は言葉。冷え切った声を耳にして、ソフィーが身震いする。
「あ、あんた、デマカセじゃねえだろうな。訳の分からない話で煙に巻いて騙そうってんじゃ――」
「……いいやソフィー、マジモンだぜこりゃあ」
食ってかかろうと前のめりになったソフィーの肩を、シェイマスが押し留め、そして自らはイリーナの座席の前に、彼女を見下ろすように立つ。
「見覚えのある顔だと思ってたんだ。あんた、時々テレビに映ってたろう。枢機卿のユーリヤ・ミハイロブナの近くにいたガキだ」
「あら、お見知り頂き光栄ですわ。案外政治に興味がおありなのね――」
「トボけんじゃねえっ!」
シェイマスの手が、イリーナの胸倉を掴む。
「そうかよ、そういうやり口か!」
「……? 何を言ってるのか、さっぱり分からないわ」
「あのハンバーガー男は言ってたんだ! 〝枢機卿の一人が、娘さんへの贈り物を探していらっしゃる〟ってな!」
イリーナの眉がぴくんと跳ね上がる。彼女の知る限り、教国の枢機卿で娘――というより子供がいる者は、死亡したユーリヤ・ミハイロブナだけだ。娘とはイリーナ本人である。
枢機卿とは公人であり、家庭構成に関しては秘されていない。シェイマスがテレビや週刊誌経由でそれを知っていても、なんら不思議は無いのだ。
「ああ、くそ、やけに簡単だと思ったんだよ、途中まではな! お目当のお宝を手に入れた瞬間、ぞろぞろ衛兵が出て来て取っ捕まった! なんのことはない、全部仕組んでやがったんだな――欲しかったのはお宝なんかじゃねえ、どう扱っても文句が出ない実験体だったって訳だ!」
腕に力を込め、イリーナを強引に立たせ、睨み付けて吠えるシェイマス。怒りに目を細めれば、その顔からは人の良さそうな気配が完全に消え去ってしまう。
「離しなさいっ!」
イリーナもまた、黙ってやられる
「つっ――」
皮膚を裂かれて血が滲む。しかしその傷は、ほんの一瞬で塞がってしまう。後に残るのは小さな痛みだけで、それも数秒で薄れていく。その様が、己が人の域を外れたと知らしめる光景がシェイマスの頭に血を昇らせた。
「このっ!!」
「や、待っ、やめっ」
制止を懇願したのはイリーナではなかった。シェイマスが振りかぶった左腕に、ソフィー・リーが跳ねるようにしがみついたのである。
その直後、再びの爆音と衝撃。機体が大きく縦に揺れ、立っていた三人とも、足を床から打ち上げられて転倒した。仰向けに倒れたシェイマスは、しかしすぐにも起き上がってイリーナへ掴みかかろうとする――そのシェイマスを押し倒し、腹の上にソフィーがどすんと腰を落とした。
「ぐえっ!?」
「ゴロ撒いてる場合かよシェイマス、
「し、知る訳ねえだろ! 重いなクソっ!」
「あァ!? 無駄に物知りなくせに、大事な時に役立たねぇなこのっ!!」
「だっ、わっ、馬鹿、やっ、めっ」
相当な無茶を言っているのだが、混乱の極致にあるソフィーは気付かない。シェイマスの腹に跨ったまま両襟を掴み、泣き顔になりながら彼の頭を揺さぶる。がくん、がくんと頭蓋が揺れ、シェイマスが細切れに喚く。
その間にイリーナは立ち上がって、気付く。
「アデュー……?」
二度目の爆音の直前までは近くにいた筈の、アデラの姿が見えないのだ。
嫌な予感がした。
嫌な予感が、ひどく、した。