総理への道
大学を卒業した信隆は一流と呼ばれる企業に就職した。そこで5年という短期間で、管理職の端への昇進につながるほどの業績を上げてのけたのである。そしてそこで信隆はすっぱりと退職し、弟の秀隆と共に父である信秀の秘書となった。
秀隆の経歴は更に異色である。大卒で自衛隊に入隊したのである。そこで参謀コースに進み、陸上自衛隊の幹部コースに乗ろうとしていた。後方支援のスペシャリストとしての名声をいとも簡単になげうち、兄とともに政界に身を投じたのである。
秀隆は29歳で初めての当選を果たした。自衛隊とのパイプを生かし、元軍人や自衛官を取り込んでゆく。来る兄の内閣では外国にも物申すことになる。経済力だけではなく軍事力の担保がなければ何を言っても戯言にしかならない。そのため、足場固めをするにあたり、真っ先に抑えたのだ。
信隆は着々と父の地盤を引き継いでゆく。父の盟友として協力体制のある、佐久間氏、柴田氏、林氏などとパイプをつなぎ、同時に若手の中から自らの派閥を作り上げる。
織田弾正忠家のころの本貫の地たる清州市で、弾正塾なる勉強会を開き、政治家志望の若者や官僚の卵、場合によっては学生なども加入させ、信隆の理想たる国家像を広める。
民権党の場当たり的な政治と外交は近隣諸国の不信を招いた。彼の信長公の時代に築かれた大東亜共栄圏は四分五裂の有様である。蓬莱国(西アメリカ)との関係も冷え込んだ。できもしない約束をしたうえで「トラストミー!」とだけ言って、結局それを反故にしたのである。国家の外交をなんだと思っているのだろうか?
朝鮮の地はさらにひどい。北半分をキリスト教原理主義のテロリストに制圧されており、瀬戸際外交に振り回されっ続けてきた。ミサイル打ち込まれたくなかったら食料を出せという要求に、援助を行ってしまったのである。彼らの言い分はこうであった。
「話せばわかる」
そして分かってもらえなかった。と言うか舐められたのである。沖縄に展開する海軍の規模も縮小してしまった。東南アジア諸国に侵略されるとの誤解を与えないためだそうだ。そもそも日本は彼らの宗主国である。彼らを守る義務を負う。マラッカ駐留艦隊の規模が縮小される前で本当に良かったと胸をなでおろしたくらいだ。
さて、それから3年後、平成37年末。事態は大きく動いた。喜多川信秀が遊説先で倒れたのである。内閣は大混乱に陥った。そんな混乱を信隆の一喝が沈めたのである。
「おたおたするでない! 貴様らは修羅場をくぐった歴戦の猛者ではなかったのか!!」
「官房長官、まずは衆議院の解散を、おそらくですが父はもう……そして弔い選挙として兄を出馬させます。そのまま総裁選もやりましょうか」
そこに秀隆が口を挟む。
「秀隆さん、なにを!?」
「脳卒中です。命は助かったとしても政治家としては致命的です」
「ですがそんな情のない……」
「そんなわけがあるか! 尊敬する父が倒れて心が動いていないわけがあるか! だがな、今この状況を座視すればまた国が混乱する。それを父が望んでいるとでもいうのか?」
「信隆さん……いえ、御館様。我らはみなついて行きますぞ!」
古くからの習慣で、喜多川家に連なる者は喜多川家当主を御館様と呼んでいる。今この時、信隆は父の勢力を名実ともに掌握したのである。
そこからの3か月ほどは信隆も秀隆も日々の記憶があいまいになるほどの多忙を極めた。衆議院選挙を勝ち抜いたところで、信秀は意識を取り戻さないままにこの世を去った。
愛知県名古屋市大須、万松寺。
織田家、ひいては喜多川家代々の菩提寺である。沢彦和尚が紫衣を纏い熱心に読経を上げる。かの和尚は信秀の幼少時からの友人であった。
喪主として神妙な顔つきであいさつをする信隆。そしてそんな兄をいやな予感がするとジト目で見る秀隆。そしてやらかした。
焼香を求められ、すっと祭壇の前に立つ。抹香をわしづかみにすると思い切り祭壇に向け叩きつけたのだ。周囲がざわめくが、先例があることでそこまでの驚きはなかった。
そんな周囲を置き去りにして信隆が大声を上げる。
「親父、早すぎるぞ、早すぎるぞ! 馬鹿野郎! うわあああああああああああああああああ!」
双眸から滂沱の涙を流し、父の死を悼む。ひとしきり声を上げたのち、顔をハンカチで拭う。
「御見苦しいものをお見せしました。父は、男が泣いていいのは親の死に目だけだとよくいいきかされてきました。今まさにその言葉がよみがえり、感情を抑えきれなくなったようです。申し訳ありません」
座席からはもらい泣きをする声が聞こえる。
「別に先祖のひそみに倣ったつもりはありませんが、彼の信長公も、父上の早すぎる死の無念を感じ取り、感情が溢れ出たのではと思います。
そして、いま私はこの場を借りて父に誓いをたてようと思います。父の理想とした日本を取り戻すことで、いつかあの世に行ったとき、また子供のころのように頭をガシガシと撫でてもらえると。
そして皆様にもお願いしたい。どうか私に力を貸していただきたい。父に比べれば若輩ですが、同じ理想を掲げております。皆で、この日本を、美しい日本を取り戻しましょう!」
万雷の拍手が降り注いだ。そしてこれは秀隆の仕込みであるが、死した後も公人であるとの名分を使いワイドショーとかを含む、TV局の取材を受け入れていたのだ。
信隆の演説は日本全国に流れた。父を失い、真っ赤な目を見開き、それでも前に進もうとする若きリーダーの姿を見たのである。
お辞儀をする信隆と秀隆の顔はしてやったりと笑みを浮かべていた。使えるものならば父の死すら利用する。マキャベリズムの初歩であるが、目標をしっかりと見据え、時には手段を選ばない。為政者としての強さは戦国時代仕込みであった。
信秀の葬儀から1か月後、党総裁選挙が行われ、喜多川信隆が圧倒的多数の得票をもって党総裁に任じられた。それは自動的に政権与党において総理大臣の椅子を約束するものである。
喜多川信隆は若干35歳で総理の座を射止めたのである。