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鳴かぬなら……

 時は平成38年。平成生まれの首相が誕生した。彼の名は喜多川信隆。古くは織田幕府に繋がる名家であり明治維新の時に、大政奉還を成し遂げた原動力となった、尾張藩織田弾正忠家に時の明治天皇は喜多川精を授けた。宰相の家系として、常に政治の中心にあり、父の信秀の後を継いで総理となった。

 国会議事堂はざわめいていた。弱冠35歳にして、この国の最高権力者の座に就いた青年は注目の的であった。静かに壇上に上がる。議事堂はしわぶき一つない、異常な緊張感に包まれていた。史上最年少の総理は厳かに口を開いた。その第一声は……

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

 国会議事堂は阿鼻叫喚の巷となった。喜多川信隆内閣、最初の支持率は7%であった。

 俺の名は喜多川信隆。物心ついたときから不思議な記憶があった。時には馬を駆って敵陣を打ち破り、鉄砲隊を指揮して敵兵をなぎ倒していた。
 そのシーンについていろいろと記憶の断片を繋げると、いろいろと物騒な地名が出てきた。曰く桶狭間。姉川。しまいには根白坂とか。しかもこの戦いは信長は参戦していないとされていた。
 彼の弟の秀隆が総指揮をとり、島津を完膚なきまでに破った戦いとされている。島津勢が坂の頂点に達した、否引きずり込まれた攻勢限界点を見切って、秀隆の養子であった井伊直政が馬廻を率いて突撃し、島津軍の潰走を引き起こしたというのが、現在の定説である。
 なのだが、俺の記憶にはその直政と思われる武者、緋縅の具足に赤い兜をかぶっていた、を引き連れて島津に先陣を切って突っ込むシーンがありありと浮かびあがる。リアルすぎて吐いたくらいだ。
 うん、どうやら俺にはご先祖様、織田信長の記憶があるらしい。もともと激しい気性で先祖返りとか言われていたが、文字通りその通りだったとかもういっそ笑えてきた。
 しかも、事故で意識を失っていた弟の秀隆が目覚めたら……意識だけが戦国トリップして戻ってきたとかどこの娯楽小説かという事態が起きている。
 兄さんと呼びかけてきた秀隆が目を覚ますなり兄上だ。なんかあったと思うの普通だろう。だが、ここで決定的なことが起きた。俺は無意識にニヤリとした笑みを浮かべたのである。
 意識が浮上する。なんというかゆっくりと目覚める感覚。そして目が開いた。
「知らない天井だ」
「秀隆、目覚めたか!」
「え…兄上?」
「お前どんな夢を見ていたんだ。まるで時代劇だぞ?」
「いや…戦国時代で、織田信長の弟になってたんだ」
「なんだ、覚えていたか」
 そう言って笑みを見せた兄の顔は、まるっきりどっかの戦国の魔王だった。
「んなああああああああああああああああ!?」
 秀隆の意識が飛ぶ前には日ノ本は今とは別の道をたどっていたようだ。だが、この世は異なった歩みである。大東亜共栄圏は幾度となく攻め入ってくる欧州の勢力を跳ね返していた。そしてはるか東のアメリカ大陸でも、日ノ本の民が入植し、いまや同盟国となっており東西に分かれて欧州の手先と戦っている。
 以下に織田家と日ノ本の歩みを記す。

 織田氏。越前織田の荘を発祥とする一族。織田剣神社の神主の家系。斯波氏に付き従い一族の一部が尾張に土着、斯波家の重臣となる。のちに守護代として、伊勢守家と大和守家に分かれる。大和守家の家老織田弾正忠家が津島を支配して勢力を伸ばし、そのあとで信秀は主家をしのぐ勢いを得た。今川家、斎藤家との抗争を行うも勝敗はつかず、信長の代には一族は分裂状態となる。
 信長の有力な味方として、叔父の信光と、信光死後には弟の秀隆があげられる。特に秀隆は優秀な手腕を発揮し、一族の取りまとめと内政にその才を振るった。織田弾正忠家を真っ二つに割ることとなった稲生の戦いは信長の采配で勝利を得たが、その策を授けたのは秀隆と言われる。その後、信勝を信長の指揮下に入れることに成功し、織田伊勢守家の撃破に成功。ほぼ同時に犬山信清と盟約を結ぶ。
 桶狭間合戦において今川義元を討ち取り、尾張統一を果たし、美濃を攻めとった。のち上洛を果たし天下布武を宣言する。その後も統一事業を進め、見事統一に成功する。その後は海外勢力の攻勢をはねのけ、薩摩沖でイスパニアの大艦隊を破る。このころには次代の信忠に政権は移譲されており、信忠は征夷大将軍に任命された。
 その後も国内の混乱はあったが、信忠を筆頭に、秀隆の嫡子信秀が尽力して国内に静謐をもたらした。外地へ進出し、琉球征伐、台湾の冊封、南海進出、蝦夷地進出、沿海州進出など、拡大事業に乗り出す。そのころには若き人材が育ち、大谷吉継は現地の民より正室を迎え、民族統合の先駆けとなった。
 このころ信長死去するも国内はまとまっており混乱はなかった。織田の創成期を支えた重臣らが次々と亡くなるが次世代がしっかり育っており、これも混乱には至らず。人材育成を早い段階で推し進めた秀隆の功績とされる。
 信忠次代の信隆の代には今のオーストラリアに進出。アボリジニと盟を結び、冊封下に置く。その後50年かけてニュージーランドまでの開拓に成功した。
 このころ、後金が明の北部を制圧し、清の建国を宣言していた。ヌルハチの後を継いだホンタイジは日本に正式な使者を出し、対等の同盟を結ぶ。ヌルハチと信長の間には交流があったとされる。李氏朝鮮経由で日本の思想が浸透してゆき、大和魂は至上の道徳とされた。
 その後幕府は大過なく日本と周辺国を治めていたが、18世紀に入り外部との抗争が再び始まった。100年前に次郎衛門と呼ばれる海賊の末裔が太平洋を渡りアメリカ大陸にたどり着いていた。彼は現地住民と交流し、指導者的立場を得た。彼の名をもじって指導者としてジェロニモと呼ばれるようになったという説もある。
 次郎衛門がまとめ上げた西アメリカは蓬莱国を名乗り、決死の航海を経て日本との交流を開始する。その理由は、大陸東部を支配していたイスパニア勢力とぶつかり合うこととなったためである。蓬莱国の武装は銃や火砲を装備したイギリス王国に抗しうるものではなく、徐々にその勢力は削り取られてゆく。オーストラリアから兵を出し、蓬莱国の援軍に駆け付けたのは大谷吉継の子孫である大谷吉信であった。彼は敵兵を狭隘地に誘い込み、一気に包囲殲滅することに成功した。これによってイギリスの大将を討ち取り、講和に成功した。そしてその背後では苛烈な植民地支配に不満が高まり、イギリスよりの独立戦争を始めた一派があった。吉信はこれを支援し、フランスからの援軍とともにイギリス正規軍を撃破し、独立を勝ち取った。蓬莱国は西アメリカ王国として成立し、東アメリカ合衆国と同盟を結んだ。
 西ではポルトガル、スペイン連合艦隊がマラッカを落とすべく進撃していた。南方艦隊を指揮するは藤堂秀虎提督。戦術としては旧来よりのやり方を踏襲したものである。海峡に誘い込み火砲陣地による砲撃で撃破する。だがこのときはスマトラ島の反対側を別動隊が回り込んでおり、背後を衝かれそうになっていた。ジャカルタ総督石田忠成はシレゴンに火砲陣地を構築し、火をつけた船を流してぶつけることで足止めした。これによって挟撃をする時期を致命的に逸したポルトガル艦隊は退却することとなった。
 東西で戦端が開かれたことにより、体制の変革の圧力がかかり始めていた。各地の公方、探題職が半ば独自性を持って動き始めており、指揮系統の統一を図るため、ときの将軍、織田秀孝は天皇家に権力を奉還し、天皇をトップに据えた一元的な権力構造に変革した。織田秀孝はそのまま太政大臣、関白として権力の座にあり、全軍の掌握を行った後、イギリスの議会政治を参考にした共和制への移行を始めた。
 同時進行で冊封国の独立化を進め、日ノ本を盟主とした同盟、共同体構築に変化させてゆく。清も長い平和で体制が老朽化し、北から迫るロシアの脅威が変革を迫っていた。沿海王伊達秀宗と共同で撃退してはいるが、定期的に侵攻してくるコサックに頭を悩ませていたのである。
 事ここに及び、日本を参考に議会を制定し、分裂の兆しを見せ始めていた軍閥をいったん統合する。そのうえで彼らの代表者を中央政治に参画させることによって国を再度まとめることに成功した。皇帝は君臨すれども統治せずとの宣言を出し、日本の天皇制に近い政治体制が作られた。
 こうして混乱の兆しが見えた日本周辺は一度平穏を取り戻した。将軍に大政奉還を進言した織田の一門である尾張国主弾正忠家は、分家し喜多川姓を下賜された。

 この内容を聞いた秀隆は惚けていた。そして俺の内心を焦がす野心にも気づいたようだ。
「兄上は天下を目指されるか?」
「信長の血を引くものがそれを望まぬわけがなかろう!」
「そうですか、ならば今世でも兄上をお助けしましょう。前世よりの縁に従って」
「おぬし、腐れ縁と言いたいのではないか?」
「ふん、何をいまさら」
「「あっはっはっはっは!」」
 病室に駆け込んできた看護師の女性に、病室で騒ぐなとしこたま叱られた。のちの天下人に対して無礼な。だが儂は寛容ゆえに、そのような無礼も許してやったのである。

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