夢なら醒めてよ
氷室は、執務室のソファにどかりと腰掛けて
物憂げなため息をついた。
曽祖父の代から続く、自営企業の次期後継者候補。
エビスコーポレーションは紙媒体のデザインから
空間デザイン、パーティーのトータル
コーディネート等も手掛ける
総従業員数:1***名程の会社だ。
先々月までは、ニューヨーク支社に籍を置き
幹部研修を受けていた。
今週からは父の下で経験を積むため、
部長としてこの本社へやって来た。
昨夜は、こちらでの初仕事となる屋外型の
パーティーイベントを開催するためその会場の
下見に訪れた。
ひと通りの下見と関係各所への挨拶回りを終え、
馴染みのバーで少しだけ呑んで帰ろうと
思ったら……今度、見合いをする予定の相手が
カウンター席で飲んだくれていた。
釣り書に添えられていた写真はかなり前に
撮影したモノだったのか?
はたまた、かなり編集が加えられたモノ
だったのか?
実際に見た彼女は ――、
顔立ちもスタイルも、正直言って地味でパッと
しないタイプ。
けれども、丁寧にアイロンがけされたブラウスと、
きちんと磨かれたパンプスを履いているところには
好感が持てた。
化粧で飾り立てることばかりに気をとられて、
そういう身だしなみをきちんと出来ていない
女性も、最近は多いように感じる。
男は案外、そういう細かな所を見ているものだ。
そして、彼女のそういうところに魅力を感じる奴も
きっとどこかにいるんじゃないかと思う。
「やっぱり、ワンナイト・ラブで終わらせたのは
惜しかったかなぁ……」
頭のうしろで腕を組み、大きく伸びをひとつ。
昨夜の彼女のエロティックな醜態を思い出すと、
知らず知らずに笑いが込み上げる。
自分の思いに正直で直球で、そういう相手は
話していて面白い。
言いたい事があるのにグズグズ腹に溜め込まれる
のは、こちらにとってもストレスだし嫌いだ。
――それに何と言っても、ひと皮剥けば妙に
艶めかしかった。
「外見と中身の、ギャップにやられる男も少なくはない
か……」
彼女の痴態を思い出すと、
不覚にもムラムラしてしまう自分が少し悔しい。
「あぁ、くそっ ―― 今は仕事だ」
邪念を振り払うように声に出し、
気持ちを切り替える。
腕時計の大きなフェイスを覗き、
時刻を確認する。
あと数分で、お呼びがかかる頃だった。
執務机の向いにある応接用ソファにかけていた
ジャケットを羽織る。
シャツの襟をきちんと正して、ネクタイを締め直す
「統括、そろそろお時間です」
ほら、秘書の香月がお呼びだ。
これから新任の挨拶が待っている。
「今、行く」
さぁ、いっちょかましてやっか。
*** *** ***
新任挨拶と言っても全従業員の前で直接するのでは
なく、放送室で撮影したものをライブで流す。
この様子はイントラネットを通じて全国各地の
支社へも流される。
うちは末端で働く者も含めれば2000人を超える
従業員を抱える会社。
本社だけとは言え、就業時間中に全員を一か所に
集める事は不可能に近い。
皆には、各部署の会議室のテレビで挨拶を
聞いてもらうことになっている。
ほどなく放送室に到着し、総務の社員達が氷室に
ピンマイクをつけたり ―― 粛々と放送の準備を
進めていった。
そして、放送開始 ―― マイクに向かって
口を開く。
*** *** ***
―― 非常に、マズい事になった。
私はアルバイト用の島のデスクでパソコンの
キーボードを凝視しながら、止めどもなく流れる
冷や汗を拭う事も忘れていた。
いつもの私なら、アルバイト風情の自分が統括部長
なんて幹部さんと関わる事はないから適当に
聞き流しているんだけど……その人物の顔を見て、
目玉が零れ落ちるほど驚いた。
何故ならその人物は週末お見合いをした相手で、
しかも数日前、馴染みのバーでエッチぃ事を
してしまった小父さんだったから。
―― マズい。ヤバい。
同じ会社の人ってだけでもマズいのに、
あろうことか彼はこの会社社長の御曹司。
つまりは、次期後継者の最有力候補者サマ……
んな事、釣り書には書いてなかったよぉ~。
あの日は予想外に気持ちよくエッチ出来たし、
おまけに相手はなかなかのイケメンで、
あっちのテクもなかなかだった。
私の人生ツイてる♪と、喜んでいたのに!
正に、天国から地獄。
私の人生終わったも同然だ。
……いや、待てよ。
さっき自分は彼の顔を見たけれど、
それは画面越しの一方的なもの。
彼は私の顔を見ていないのだし、この会社の
従業員数を考えれば気づかれない可能性だって
ありそう。
それでしばらく経てば ―― 行きずりエッチの
相手なんて忘れるに違いない。
そうだそうだ、その作戦でいこう!
冷静さを取り戻し、大きくひとつ深呼吸する。
「ねぇ、新しい統括部長って超イケメンやし、何だか
おもろそうな人やね」
向かいの席から、先輩アルバイターの”かすみん”
こと、相田風澄がクスクス笑いながら
声をかけてきた。
ぱっちり大きな瞳と、
すっと通った小ぶりな鼻を持つ彼女は、
十人が十人、口を揃えて美人と言うだろう。
さらっさらのロングヘアも、
色白で華奢な彼女によく似合っている。
上品な雰囲気をまとい、いつも穏やかで優しい
かすみん。
偶然実家がご近所だって縁で仲良くなり、
プライベートでも遊びに出かけたりしている。
年は1才下だけど、彼女は私の憧れの存在だ。
そんな彼女が、こんな風にはしゃぐのは珍しい。
それだけ彼に、興味を惹かれているって事かも
しれない。
「え、あ。そ、かな……」
一緒に盛り上がりたいところだが、そんな気分に
まったくなれない。
顔を上げてかすみんを見て、ぎこちなく笑う。
「あら、気のない返事。統括の執務室って、うちらと
同じフロアよね。これからちょくちょく顔を合わせる
事になるのかな。ちょっと楽しみ」
―― !!!
そうだった。
私の所属する企画課と統括部長殿の執務室は、
同じ10階フロアにあるのだ。
普段訪れる機会がないから、すっかり頭から
抜け落ちていたけど、よく考えたら場所も
目と鼻の先。
……はい、終了ー。
絶対バレますわ、これ。
私の素性を知ったら、部長はどう思うだろうか。
昨夜の事は、お互い一応同意の上だったし、
即刻クビなんて事にはならないだろうけど……
――それともうひとつ懸案事項がある。
お見合いの件は、かすみんやノンを含め
会社の皆には内緒にしている。
かすみん達は大丈夫だと思うけど。
見合いの相手が……だなんて、知れ渡ったが最後、
部長親衛隊のお局様達からどんな嫌がらせを
受ける事やら……うぅっ ―― 想像しただけで
胃が痛くなってきた。
このふたつの事柄がダブルでバレたりしたら……
う~ん、今のうち、新しいバイト先見付けて
おいた方がええんかなぁ。
頭に浮かんだ最悪のシナリオを振り払いたくて、
ブンブンと頭を振った。
「どうしたのよ、凪。具合でも悪いの?」
かすみんが心配して声をかけてくれたけれど、
元気に振る舞う気力が湧いてこない。
「なんでもない」と言い置いて、フラフラと
フロアを出る。
―― こうなったら、先手必勝。
とにかく数々の非礼を詫びてこよう。
鉛でもつけたようにズシーンと重い足を引きずって
私は部長の執務室へと向かった。
私としては悲壮なくらいの覚悟を決めて
部長の元へ行ったのだけど。
幸運な事に ―― いや、生憎部長はタッチの差で
外出してしまったそう。
だけど、次の日……