第三十六話
レヨンの港町において、それほどまでに重要で発言力のある人物であったのか。
あるいは、依頼人であるからこそなのか。
宿のおかみさん兼ギルド長のアイラさんが中心になって、魔女討伐を目的とした船は、思っていたより穏やかな海……運河を進む。
海と言っていいだろうと思えるくらいに距離はあるが。
水平線を縫うようにして、なだらかな緑の大地の輪郭が見える。
おそらく、それがイレイズ国の土地なのだろう。
率先して先頭に立つアイラさんによると、今いる運河の広がる、本格的に海へと続く地点で、船の沈没、男の船員の行方不明が相次いでいるのだという。
その場所では、変に濃い霧が発生したり、巨大な海の魔物の影を見たなどと言う証言があるらしいが、真相の程ははっきりしない。
続きアイラさんによれば、そんな噂の出所すら不透明で、これは実際行ってみなければという思いを強くさせた、とのことだが。
(なんて言えばいいのか、とにかく穏やかなんだよなぁ)
涼やかな潮風。
強すぎず、絶妙なぬくぬく加減の太陽。
じっと海の向こうを、ごしゅじんと一緒に、ごしゅじんに包まれ見つめつつぼぅとしていると、あっという間に眠りの海の底に落ちていきそうな、そんな陽気である。
霧や靄がかかるような様子も全くなさそうで。
おれっちのできる限り、警戒の範囲を広げてみても、水辺に暮らすような魔物の気配は感じられない。
逆に不自然なくらいに、むしろ不穏な……きな臭い匂いは、むしろ船の中から匂ってきているような気がして。
「おーい、ティカさーん、お昼だって。一緒に食べない?」
時期良くごしゅじんの背にかかるは、そんなレンちゃんの声だった。
ちなみに、同じパーティと言うことで、彼女たちと一緒の四人部屋を、この依頼中の寝床として与えられている。
おれっちにとってみても、みんなと過ごすの吝かではないのだが。
迂闊にごしゅじんと会話できないのが玉に瑕ではある。
だがこの機会は、ごしゅじんにとってプラスに働くのは確かだろう。
彼女たちともっと打ち解けるために、でしゃばるべきではないのは身に沁みていて。
おれっちは敢えて、一計を案じる。
「んじゃ、おれっちは散歩してくる。ご飯はどっかで調達するから」
「……気をつけて、おしゃ」
「みゃおぅ」
小声で首元で呟くと、しぶしぶといった感じに腕の力が緩む。
さっきまで頑なに放そうとしなかったのに、こうもあっさりしているのは、やっぱりごしゅじんはおれっちの事を理解してくれているからなんだと思う。
ずっと同じ場所にいること嫌う、猫の散歩が孤独なものであることを。
まぁ、実際はごしゅじんの使い魔として、情報収集が必要だからなんだけど。
そんなこんなで、ごしゅじんと離れたおれっちは。
猫の七つ技の一つ、『猫の隠れ家』を駆使し、存在を薄くし大気に溶け込むようにしつつ、船の中を歩き回る。
目的は、出会い頭のもふもふとともに施しを受けること。
当然の如く、依頼を受けここにいる冒険者はもとより、船員さんも女性であるので、おれっちのか弱い可愛さをもってすれば簡単な任務であろう。
その際、愛玩の生ものを相手に口を滑らせてくれたりすれば、もうけものだ。
まぁ、知っている人の場合、ある程度おれっちに警戒している子もいるだろうし、基本は姿を隠しながらではあるが。
とは言え何故、こんな情報収集が必要であるのか。
それは、豪華な観覧船のごとき船内に、きな臭い匂い……嘘の匂いをいくつも感じ取ったからだ。
誰にだって隠し事の一つや二つあるだろうし、現にごしゅじんもおれっちに何か隠し事をしている。
それは生き物であるからして、当然のことと言えばそうなのかもしれない。
でも、何かあんまりいい気分じゃない。
ズキズキする身体の痛みに押されるようにして、おれっちは愚かにもそれを暴こうと耳をそばだてる。
好奇心がおれっちの襲うことないように最新の注意を払いながら。
そうして手始めに辿り着いたのは、客室の一つ。
ウェルノさんたち三人に宛がわれた部屋だった。
そして、ごめんと一つ謝った後、存在を薄くさせ耳を立てる。
どうやら、そこにいるのはクリム君とベリィちゃんらしい。
ウェルノさんの気配がないので、別のところにいるのだろう。
あの人手強そうと言うか、目ざとくて敏感そうだから、しめた今のうちとばかりに、もう少し声の聞こえるところまでそろそろと近付いた。
「ああ……もう。熱いし、うざいし。もうヤメルぞっ!」
途端聞こえてきたのは、正しくも男らしいクリム君の叫び声。
やっぱり本意ではなかったか。
しかも、緑一点が目的での変身、変心ではなかったらしい。
その、聞き耳立てる必要もないくらい大きな声に、さてどうしたものかと二の足を踏んでいると、追随するみたいにベリィちゃんの声が聞こえてくる。
「何言ってんのよ。だったら来なければよかったのよ。私とウェルノ様だけで十分だったのに」
「……って、イヤだね。お前は少しでも目ぇ離せば何するか分かったもんじゃねぇからな」
「そう思うなら、最後までクリムちゃんでいればいいでしょ。どんな方法で海の男たちがいなくなったのかも分からないってのに!」
「……っ」
「……」
言い合いをしたかと思ったら、お互いに無言。
こりゃあ、あれだ。
傍からすれば背筋が痒くなるほどの二人の世界ってやつだな。
お互い素直になれずいつも喧嘩越しだが、その実お互いを深く愛している。
何組かいたなぁ、こういう面倒くさい恋人たちが、ウチの仲間にも。
たぶん、そこから一層深く二人の世界に入っていくに違いない。
周りのがやがいなければ、お互いの距離を縮められると言うならば。
かなり年期の入ったつれあいなのだろう。
そんな、二人の盛り上がってる空間に素足で入り込むのも無粋と言うものだ。
ベリィちゃんの言葉遣いから判断するに、ウェルノさんはそれなりの地位があり、いろいろ知ってそうだから。
おれっちは、踵返しその場を後にしようとする。
「しっかし、イレイズ国のヤツラ、彼女の正体に気付いてるのか?」
「どうかしら。少なくとも従者の一人は、何か思うところがあるみたいだったけど」
「まさか、討伐の船に堂々と乗り込んでいるとは思わない……か」
が、その瞬間聞こえてきた二人の会話に、はっとなる。
彼女? 堂々と乗り込む? 誰の事を言っている?
まさか、ごしゅじんのことか?
いや、確かに髪の色も変え翼を隠してはいるが。
はたして、ごしゅじんが魔人族であるということが、この世界にとって隠さなければならないものかどうかは、断定できなかった。
だが、むしろごしゅじんは、あの覆滅の魔法器を使ってでも自らを主張し隠そうとしなかったくらいだ。
おそらく、二人の会話に出てきた彼女とは、ごしゅじんのことではないのだろう。
とするなら今挙がるべき人物は……海の魔女、か?
それならば、まさかという言葉にも納得がいく。
つまり海の魔女は、この船に乗っているということになり。
それを分かっている上で、そのままにしていると言うことになる。
となると、ベリィちゃんたちの目的は、そもそも海の魔女討伐ではない、ということになるわけで。
「ま、いずれにせよ、彼女に誰かしらついていれば問題ない、か」
「うまく尻尾を出してくれればいいんだけど……」
そんなやり取りは、少なくともおれっちたちと同じように、魔女を討伐するつもりでないことは明白で。
なれば、彼女たちの掴みたい尻尾とは誰のものか。
それは必然と、イレイズ国の三人娘、ということになるわけで。
出発前の挨拶も、作られていたように。
やはり二国の間には、何か確執があるらしい。
あるいはもしかしたら、船の男達の失踪の件ですら、魔女ではなく相手を……イレイズ国を疑っているのかもしれない。
一見するに、そんな悪事を働くような子たちには見えなかったけれど。
だからこそ、猫に怪しまれようと言うもので。
そうであるならばと。
おれっちは踵返し、ごしゅじんとイレイズ国の三人組に宛がわれたその場所へと、戻っていくのだった……。
(第三十七話につづく)