【新しい生活への第一歩 Ⅱ】
「見損ないましたぞ、ベゼル様ッ!」
がらんとした室内に突如として老人の怒鳴り声が響き渡り、真白はびくんと身を竦ませる。
昨夜は結局、レヴィに案内された来客用の寝室で、あれこれ思い悩んでいるうちに眠ってしまっていた。
とてもじゃないが眠れないだろうと思っていたのだが、許容範囲を超えると人間、身体が勝手に休息を要求するものらしい。朝食の用意が出来たといってレヴィが迎えに来るまで、真白は夢も見ないで熟睡していた。
ベゼル曰く、精神に負荷がかかりすぎて、自己防衛本能が働いたんだろう、とのことだ。
とはいえ、ぐずぐずと泣きながら眠ってしまった真白の顔は、かなり酷いことになっている。
大泣きしたところから見られているレヴィとベゼルだけならまだしも、突然現れた見知らぬ人にまで、泣き腫らした顔を見られたくはない。
反射的に俯こうとした真白だったが、老人の大喝には、それを許さないだけの迫力があった。
いきなりの大声に驚いた後。真白は俯くどころかぎょっとして、思わず声の発生源――食堂の入り口で仁王立ちしている老人へと目を向けてしまったのだ。
白髪を綺麗に後ろに撫でつけ、上品な黒のスーツを身に纏った、どちらかといえば小柄な老人だった。
とても大声をあげるような人には見えなかったが、老人はどういうわけだか真白を見て表情をなくし、怒りもあらわに震えている。
(えっと……)
どう反応していいものやらわからず、真白は左右にいる男たちへと困惑した視線を向ける。
立派な屋敷に相応しい、やたらと広い食堂の一角。部屋の広さに見合った大きなテーブルの片隅で、真白は猛烈な勢いで朝食を平らげてゆく男たちに挟まれ、ちまちまとパンを口に運んでいた。
本来なら、一応は来客の立場である真白を、家人が挟んで食事をすることなどありえない。
だが現在。諸事情あってこの屋敷にはレヴィとベゼルしか住んでおらず、朝は食事を用意するのも片付けるのも、彼らの仕事だという。
いろいろと楽だから。
そんな理由からふたりはマナーよりも効率を重視したいと真白に告げ、特に拒絶する理由もなかった真白は、だだっ広いテーブルの一角で、男ふたりに挟まれて食事を摂ることになった。
表面をカリッと焼いた、肉汁の滴る厚切りのベーコン。
齧ればパリッと音のする熱々のソーセージ。
どちらも食べると口いっぱいにうま味が広がり、幸せな気分にさせてくれる。
パンだってそうだ。少し固いが噛めば噛むほど甘味が増し、小麦の素朴な味わいが、とめどなく次のひとくちを誘う。
混ざりもののない、純粋な蜂蜜のふくよかな花の香りは甘く――……。
次から次へと食べきれない量を皿に取り分けられたこともあり、結果として真白は、普段よりかなり多めの朝食を摂っていた。
それでもまだちまちまとパンを口に運んでいたのは、自分たちの胃袋を基準にしている男たちによって、遠慮するなと押しつけられたからだ。
自分の右側で、我関せずとばかにベーコン肉の塊に齧りついているレヴィを見て。
反対隣りで素知らぬ顔をして大振りなソーセージに食らいついているベゼルを見て。
真白はそっと、手に持っていたパンを皿に戻す。
ふたりともに何事もなかったような態度で食事を続けているということは、この老人は彼らにとって、気心の知れた人物なのだろう。
だが、真白にしてみれば初対面の、見ず知らずの人である。
なぜか怒り心頭に発しているらしい老人を前にしてのんびりと食事を続けていられるほど、真白の神経は太くない。
名指しで怒鳴られたにもかかわらず、平然と食事を続けている方がどうかしているのだ。
知らん顔していていいの? と。
真白は問うような視線をベゼルへと向ける。
しばらくじっと見つめていれば、ようよう気がついたのだろう。
「え、なに? ボク?」
ソーセージと格闘していたベゼルが、何事かと顔をあげる。
キョトンとした表情は真白と同じく状況を把握してはおらず――というよりも。
いまはじめて、老人の存在に気がついたかのようである。