19.逃避
それから暫くの間、森の中のそれほど幅広くない道を横二列で馬で疾走しながら、エリーシアは自分の能力を全力で出し切る事に集中していた。
「エリー!!」
「ラ・ディアー!!」
「うわぁぁぁっ!!」
今は手袋を外しているエリーシアの両手の指全てに、限界まで短縮化即効化された術式が刻み込まれた指輪が複数本ずつ嵌っていたが、それを一つ抜いて前方に向けつつ短縮した解放呪文彼女が口にすると、それは目の前の敵兵の集団に一直線に飛んで行きながら旋風を巻き起こして、全員を綺麗に跳ね飛ばす。そうして開けた道を、躊躇うこと無く一塊になって駆け抜けながら、アクセスが隣を走っている彼女に軽い調子で告げた。
「相変わらずの腕に惚れるね」
しかし状況が状況だけに、彼女は素っ気なく言い返す。
「惚れて頂いてるのが、魔術の腕で良かったわ」
「本人にも惚れてるが?」
懲りずにアクセスが絡んで来たが、ここで両者は鋭く敵の気配を察知した。
「左、来ます!」
「おう! 右、よろ!」
咄嗟に指示したのは左からは魔力の気配を感じなかった為、アクセスに対応を任せたのだったが、やはりそちらにいたのは弓歩兵だったらしく、バラバラとある程度纏まった矢が飛んできた。
しかし高速で移動している物を、しかも木々の間から狙うのは至難の業の上、予めエリーシアから警告を受けたアクセスや背後の者達は、物ともせずにそれらを剣でなぎ払う。
「ジェ・ファン!」
一方のエリーシアは、右側面からの魔術攻撃を察知し、短く起動呪文を唱えながら先程外しておいた手袋を地面に落とす。するとそれは忽ち細い糸状になって四方八方に広がり、エリーシア達の馬を足止めしようと伸びてきた草や蔓、木の根などに巻き付き、まるで鋼鉄の糸の様に容易く次々に切り落としていった。
首を捻ってチラリと背後を振り返ったアクセスは、エリーシアの術のキレに思わず口笛を吹きそうになってから、すぐに前方に視線を戻して舌打ちした。
「やっぱり向こうは地形と道を熟知してるか。エリー。中に入っても、全員はぐれない様にする手段はあるか?」
いきなりそんな質問をされた彼女は、驚いた視線をアクセスに向けた。
「中って……、まさか木々の間を走り抜ける気!?」
その声を聞き取った後続の何人かはギョッとした顔になったが、続く指揮官の台詞に表情を引き締める。
「とんでもない障害物競争だがな。幸い、俺が選抜した奴らは、それ位の技量と根性と体力はある。問題は殿下とエリーだが……」
「多分、私は問題無いわ。近くの森で荷馬車の馬で、狼と鬼ごっこをした事もあるし」
懸念しながら問いかけたアクセスだったが、彼女の答えを聞いて思わず苦笑いした。
「例のアーデン殿指導の、非常事態訓練か? どんだけだよ……。まあ、いい。それなら助かるし、エリーが一緒なんだから、あのアホ殿下も根性見せるだろ。頼む」
「分かったわ。少し待ってて」
頷いたエリーシアは手綱から手を離し、足だけで身体を支えつつ、腰にくくりつけていた刃渡りが手のひら程の小刀を鞘から抜いた。そしてそれを首筋に持っていき、左手で一つに括ってあった銀の髪を掴んだと思ったら、束ねた上の辺りを内側から小刀を滑らせ、一気に切り離す。
「おい! エリー!」
予告無しの暴挙にさすがにアクセスが顔色を変えたが、彼女は淡々と自分の仕事をした。
「これが一番、適当な媒体だから。ブリズ・グフィ・リージェス……」
そして髪を片手に呪文を唱え始めて、首を傾げる。
「アッシー、全員で何人だったかしら?」
「86人だ」
「了解。……ジェス・ニーア・タンザル・ヨータ・イル」
するとエリーシアの展開した術式によって、切り取られた髪は綺麗に86等分され、くねくねと曲がって曲線が幾つも重なった物を形作った。それは相変わらず馬で疾走しているエリーの周りを取り囲み、同様のスピードで飛行する。
「これは……、蜂に似せたのか?」
一番形が近いと思われる生物の名前を思わずアクセスが口にすると、エリーシアは苦笑しながら答えた。
「スピード的に違和感無いでしょ? 因みに、一々口頭で説明しなくても、皆これに付いて来てくれるかしら?」
ちょっと心配そうに横三列で続く後続を見やると、アクセスが笑顔で請け負った。
「安心しろ。連中は頭の働きも悪くない」
「良かった。じゃあ一人に一匹、確実に付けます。レート・ユイーズ・テア・ヒィル・アール……」
エリーシアが更に呪文を唱えると同時に、銀色の蜂もどきはスピードを緩め、一人一人にきちんと一匹が付いた。それを魔力で察したエリーシアが頷くと、それを認めたアクセスが背後を振り返りながら大声で叫ぶ。
「行くぞ、おめぇら! しっかり付いて来い!!」
そう言うやいなや、アクセスは勢い良く左側の木々の間の空間に走り込み、エリーシアもそれに倣った。
「はい!」
「大丈夫です!」
「いけます!」
アクセスが率いている近衛兵達も、思い思いの木立の合間から生い茂る森の中に馬を突っ込ませ、最後尾のサイラスが追いすがる敵兵の目を誤魔化す為、予め術式を仕込んでおいた腕当てを解いて後方に放り投げながら、鋭く起動呪文を唱えた。
「ガゥル・ビーア!」
すると彼らの周囲の馬の嘶きや蹄の音が聞こえなくなり、少しして追い付いたレストン国の部隊は、アクセス達が横に逸れた事に気がつかないまま、その道を駆け抜けて行ったのだった。
その日、何度か危ない場面に遭遇しながらも、夕暮れ前には何とか開けた場所を確保できたアクセス達は、周囲を索敵してみても異常は無かった事から、取り敢えず休息を取る事にした。
「何とか、振り切れたみたいですね」
「何とか、な。だがどう考えても、ここはレストン国側だろ。山の方に一時上がったから、途中で越えた小川が、ランゼーム川の源流だろうなぁ」
馬から下りて苦笑いしているアクセスに、歩み寄ってきたサイラスが声をかける。
「本当に、洒落になりませんね。ところで全員の点呼を取ったら、負傷者の治療に当たりたいのですが」
真顔で申し出たサイラスに、アクセスは我に返った様な顔付きになり、軽く頭を下げる。
「ああ、サイラスすまん。俺とした事がうっかりしていた。取り敢えず負傷している奴に、治癒魔法だけでも頼む」
この場に医師はおらず、十分な量の薬品も持ち合わせていない為、アクセスはそう言ったのだが、それに対してサイラスがあっさり告げた。
「あ、治療薬なら一応持って来ましたので、一緒に処置します」
「私も持ってるわよ? 鎮痛剤に化膿止めに止血剤に整腸剤に。後は塩とハーブ」
エリーシアまでそんな事を言い始めた為、アクセスは唖然としたが、サイラスは怪訝な顔で突っ込みを入れた。
「俺も塩は持って来たが、どうしてハーブ?」
「味気ない食事は、気力体力を削ぐからに決まってるでしょ?」
「実に明快な解説をどうも」
胸を張ったエリーシアにサイラスが溜め息を吐いたところで、気を取り直したアクセスが、慌てて彼女の出で立ちと馬を見ながら問いかけた。
「ちょっと待て、エリー。どこにそんな物を持ってるんだ? 今日は糧食なんかも、まともに持ってないだろ?」
「うっふっふ~。実はここです」
そこで彼女が余裕の笑みで身に付けているマントの縁を掴んで横に広げた為、アクセスは軽く目を見開いた。
「マントの裏? まさか……、そのモザイク模様」
「おい、エリー。取り敢えず止血剤と化膿止め。何色だ?」
そこで事務的に会話に割り込んだサイラスに、エリーシアは冷静に答える。
「止血剤が緑で、化膿止めが黄。裾の方から使って」
「分かった」
頷いたサイラスがナイフを手にし、エリーシアのマントの裾を持ち上げて該当する色の縁を慎重に裂く。そして中から油紙の包みを幾つか取り出し、それを一緒に付いて来た兵士に手渡す。更に同じ事を繰り返す同僚に、立ったままのエリーシアが声をかけた。
「自分のから使ったら?」
「自分のマントを着たままだと、切り裂き難いんだよ」
「確かにそうね」
「じゃあ、貰って行くぞ」
そして足早に去っていくサイラス達を見送ってから、アクセスは呆れ気味に彼女に問いかけた。
「何でそんな所に入れてたんだ?」
それにエリーシアが肩を竦めて答える。
「だって纏めて袋詰めしたら目立つし、最初からそんな非常事態を想定した装備をしてるのを見つかったら、プライドの高い近衛兵さん達に『俺達がそんなに不甲斐ないとでも言うつもりか!?』って、難癖付けられません?」
その問い掛けに、アクセスは苦笑しながら同意した。
「……確かにな。じゃあエリー。あの馬鹿を馬から引きずり降ろして正気にさせたら、負傷者の手当てを頼む」
「あの馬鹿?」
そこで一団の中から、魔術で気絶している人間を括り付けられた馬を、近衛兵の一人が自分達の方に引いて来るのを認めた為、朝から目まぐるしく状況が変化して、すっかり忘れていた存在の事を思い出して頷いた。
「了解しました」
「よし。ガスパール! ミラン! 大丈夫なら、ちょっとこっちに来てくれ!」
そしてアクセスは、まとめ役である兵士の名前を呼び、とんだ裏切り者である男への尋問を開始する為の準備を始めた。