4.魔女と蛙
それからは“惨劇”であった。先頭を歩いていた仲間が、次々と喉を搔きむしり始めたかと思うと、地面に突っ伏してゆくのである。
――この“空気”そのものが“魔法”だ
遠のいてゆく意識の中で、ランバーは初めて気づいた。
煙に混じっていたのか、空気そのものを変化させるのか……。いずれにせよ、そこ含まれた“猛毒”を吸い込み、仲間が倒れてゆくのを見守ることしか出来ない。
“毒”はランバー自身も吸い込んでいる。マスクのおかげで防げているが、それも完全には防げてはおらず、倒れるのは時間の問題であった。
格子門に近かったのが不幸中の幸い。ぐらりと揺れる視界の中で、ランバーは初めて“盗賊の勘”に従ったのである。
――アイリーン
彼は山中を駆けている最中、アイリーンの顔が脳裏を掠めた。
愛したから思い出しただけではなく、彼女は自分だけにマスクを渡したのだ。それも、中途半端にしか“毒”を防げぬ布きれに近い物を。
(ぐっ……くそっ……これじゃまるで……)
彼はどこかで聞いた『ハブの解毒剤は、馬の血から作られる』と言う言葉を思い出した。
馬の血にハブの毒を流し、その“毒を殺す血”を作る――馬が死んでしまっては意味がないため、毒は薄められたのを使用する。まさに今の状況と酷似していた。
大樹の根本で、彼はどさり……と腰を下ろした。休憩ではなく、もう身体が言う事を聞かなくなっているのだ。
“毒”が回り、手足の感覚が失われてゆく中……恐ろしい考えが浮かぶ。どうして今まで気づかなかったのか、と彼は自分自身を責めた。
身体が濡れている。そこで小雨が降っていた事に初めて気づいた。
動かない身体から、じわりじわりと体温が下がってゆくのが分かる……。
顔に張り付く髪を掻き分けられず、正面から歩み寄って来るぼんやりとした“影の姿”がよく見えなかった。
「――あらあら、ふふふ。やっぱりやられましたね」
「ぐ、ぅぅ……き、きさ、ま……は、ハメやが……」
「あらあら、
私の身体を堪能し、孕ませたのですから――むしろ感謝して欲しいぐらいですよ」
「がっ……ごふっごふっ……」
「少し早めに来て正解でした。流石は
微量の“
ランバーの鎧を外しながら、先が鋭く尖ったナイフを懐から取り出した。
彼は目を大きく見開き、手を動かそうとするがもはや小刻みに震えるばかりである。
「あの“毒”は我々でも非常に厄介で、対処するには“抗体”を作るしかない――。
それには“毒”を吸わさねばならないのですが、大体は人間の身体が持たず、先に死ぬので意味がないのですが、すぐに“蘇生”させればそれは意味を成します」
彼女はランバーの手を自身の腹に当て、彼の胸にそっと彼女の左手を添えた。
手と胸から、共に眠った時の優しく心地よい温もりがそこから伝わってくる。
――が、刃を握った彼女の右手は冷たかった。
「蘇生には“命”が必要――荒療治になりますが、それまで死なれては困るのです」
「――――!!」
ランバーは酸欠になった金魚のように、口をパクパクとし始めた。
ずぶり……と左胸に刃が突き刺され、血が流れ続けているのが分かる――激痛が走っているのに、彼の意識は途絶えず、死ぬことすらも許されていない。
ただ、肉を引き心臓がえぐり出されている感覚を味わされ続けている――。
「……さて、これがアナタの心臓ですよ。
図体の大きさに見合わず、毛が生えていない小さな心臓ですね、ふふふ……」
ランバーは死んだ。そのはずであるのに、目や耳からの情報・言葉を理解し、痛みがある。
冷たいはずの雨粒でさえ温かく感じた。全ての身体の機能が停止しているのに、意識や感覚だけがハッキリと存在しているのだ。
ぽっかりと開かれた胸の中にそれが流れ込み、
アイリーンは手慣れた様子で、びちゃり……と濡れた地面の上に纏っていたローブの脱ぎ落とした。
ランバーの目は動かないが、露わにされた彼女の腹に衝撃を受けた。もう見て分かるほどに、ぽっこりと膨れているのだ――。
「さあ、アナタの無念は、アナタの子供が仇を取ってくれますわ。
何せ、あのセラフィーナって魔女に“恨み”を持っている男……その子供ですもの。
さあ産まれておいで……そしてパパの胸に……ん゛ん゛ッ――!!」
ランバーは悪夢かと思っていた。産みの苦しみは魔女とてあるようだ、森の中で苦悶の声が響き渡ったかと思うと、女の股ぐらから、ズルり……と赤黒い、手のひらサイズの塊が這い出してきたのである。
へその緒は繋がっていない。産み落とされた“それ”は、人間の赤子ではなく――カエル姿をしている“何か”だった。
「はッ……はぁッ……う、ふふふっ、元気な赤ちゃんね……」
それをどうするか、察しがついていた。
ランバーは『魔女めッ――』と呪うが、“黒い魔女”・アイリーンには賞賛の言葉である。
「私の胎内には、“カエルの卵”が入っていたの。
アナタが孕ませたと思っていたのは、どこかのメスカエルの卵――驚いたかしら?
でも、一応はアナタの子供……しっかりと胸に
空虚の胸に生々しい肉の音が伝わった。
その胸の中に押し込まれた“赤子”が、じわりと溶けたような感覚を覚えている。
血管を通じて、それが“毒”に満たされた身体を巡り始め……胸から手足の先まで、“ランバー”と言う存在が、追い出されてゆくのを感じている――。
「ミラリアの“猛毒”、セラフィーナへの“怨恨”――ヘタレの“灰魔女”に、あの姉妹に私の<フロッギー>が倒せるかしら?
そして私は、あの指輪を頂く……う、ふふふふっ、あっははははははっ!!」
この国を治めるレゴン城は陥落寸前、盗賊の頭は彼女の
着実に計画が進んでいる魔女の高笑いが、ざあざあと降り続ける鬱蒼ととした山の中で響き続けている。
◆ ◆ ◆
それから数時間後……魔女のいる城館では、何やら不穏な空気が漂っていた。
「姉さん、何かヤバいくらい胸騒ぎしてない……?」
「……そうでしょうか?」
真っ先にそれに気づいたのは、ミラリアではなくセラフィーナである。
ミラリア部屋でお説教を聞いていた彼女は、突然感じたそれに背筋を震わせたのだ。
初めはお説教を誤魔化すための詭弁だと思っていたが、恐怖を感じているその目に、ミラリアは急いで城館の周りを確かめ始めた。
「……何も、ありませんよ?」
「え、あ、あれー……?
何でだろう、背中と言うか首の後ろにビシビシ感じるんだけど……」
ついに行動を起こしたか――と思っていたが、庭には盗賊の死体が横たわっているだけである。
そこ漂っていたミラリアの“魔法”は雨で流れてしまうが、セラフィーナが各所に設けた罠がまだ残されている。そう易々と破られるはずがない。
「それは、色で言うと何色ですか?」
「え? う、うーん……黒、いや黒ってレベルじゃない……。
黒より更にどす黒い、赤が混ざったような――そう、真っ黒な血のような色っ!」
「血の……」
それを聞くや、ミラリアの顔が切迫した表情に変わった。
「フィーちゃんッ! 急いでここを離れるのですッ!」
「えっ、ちょ、ちょっとどうしたの急に――」
ミラリアは、妹が“魔女の勘”を会得しそうだと喜んだのもつかの間……とんでもない“色”を言い放ったのだ。
「“血の色”は、魔女にとっての“死”の色なのです――ッ!! 早くここを――」
見た事もない姉の剣幕に、セラフィーナは理解できないまま頷いた瞬間……ブラードの、とんでもない声量の吠え声が城館内に響いたのである。
ミラリアはそこで初めて、迫りくる存在に気づいたようだ。
「くっ……もうそこまで……。
迂闊でした……私の“魔法”に耐性をつけた人体で錬成するなんて……」
「じ、人体でって……もしかして、“魔女の禁忌”――」
「フィーちゃん――」
「は、はいっ!」
ミラリアの張り詰めた声は、とてつもなく恐ろしかった。
怒っている時の声音ではない。
「――私が合図をしたら入口まで駆け、一気に城に向かってください」
「え……?」
「どうしてマスクをしていたのか、どうして<ラビットフット>をつけていたのか。
どうしてこんな少数でやって来ていたのか……気付かなかった私の責任です。
私がこの城館内に留めておきますので、テロちゃんに保護してもらい、兵隊に討伐してもらうのですよ」
「そ、そんな……そんな事、私にできるわけないじゃないっ!」
「出来る出来ないじゃありませんッ! やるしかないのですッ!」
「――ッ!?」
初めて聞く姉の強い怒声に、妹は思わず身を縮めてしまっていた。
何かあれば姉を頼り、困らせた事もあったが……このように強く言われたのは初めてである。
「……よ」
「え?」
「姉さんばっかズルいよッ! 私だって……私だってやれるんだからッ!」
「あっ! フィーちゃんッ、いけません――ッ!」
ぐっと腕を掴まれたが、思い切り振りほどいてしまう。
姉の制止の声は聞かなかった――思えばいつも姉が解決してくれている……何も出来ない、自分の不甲斐なさが悔しくて堪らなかったのだ。
通路から玄関ホールに向かうほど、セラフィーナが感じる“血の色”が更に鮮明に、どす黒いものとなってゆく。