第五章 津へ、江戸へ
❀1❀
『鍬次郎! 嫁はん貰ろたって聞いたでぇ! めでたいなぁ!』
(何やて! 今何と言った! 帰って来てこれかい!)
彦馬を連れ、津に辿り着いた直後。鍬次郎は聞こえた声に、卒倒しそうになった。
どやどやと押し寄せる津の三婆は、懐かしさや、久しぶり、などの言葉を出させてくれず、隣できょろきょろしながら歩いている彦馬に一斉に視線を向けて大騒ぎした。
「どいつもこいつも! 彦馬は己より背が高い男やで。どこ見たら、嫁なんや!」
しかし、当の彦馬は、ひらひらと手を振って、また男の色気を振り撒いている。前で、三婆がスススと一塊になった。聞こえてきた言葉に眩暈がした。
「男でも、嫁か?」「誰や、ホラ吹きよったん。鍬に嫁なんぞ、あるわけなかろ。こりこり竹削っとる一人遊び上手なお猿やお猿!」「わし、帰ぇるわ。和泉の顔ぉ見とうない」
(全部、聞こえておるわ!、彦馬もにやにやすな! 怒ると船酔いが……)
げっそりしている場合ではないと、鍬次郎は手短に紹介を始めた。
「……彦馬。これが、俺の津の婆様たちや。左から、清水(しみず)婆(ばあ)、ゑつ(えつ)婆(ばあ)、靜婆(しずかばあ)。で、こっちが、友人の! 上野彦馬。長崎育ちやから奇抜な格好しとるが、人間やで」
彦馬は「ふむ、確かにね」と小さく頷き、「婆様、こんちは」と船酔いなど微塵もない罪な笑顔を向けた。婆様たちがそわそわする中、聳える山と、唸る海を見比べた。
「海と山が両方あるんやね。面白いな、おまえさんの故郷。欲張りで大いによかやん」
頷きながら、鍬次郎は久方ぶりの故郷を愛でた。頬に桜の花びらが舞い降りた。
(染井吉野に間に合ぅた。葉桜やけど、ほっとする……)桜に和んでいる場合ではない。
「婆様たち。すまん。藤堂本邸に行きたいんやけど、和泉守様は」
「あんれまぁ! 鍬、そげな男な声しちょったかいな!」「背ぇも伸びたんやないの!」「油ばっかり売りよって。勉学どした。えろう油が出てくでぇ」
……ピーチクパーチク。話が進まないので、女なら何でもござれの彦馬をダシに置き去りにし、鍬次郎は本邸への道を急いだ。
青々とした竹藪を超え、躑躅(つつじ)を横目に歩くと、小さな赤い橋。ちょろちょろ流れる小川を渡ったところに、衣紋の入った上着を肩掛けにした藤堂高猷の姿があった。
「なんや、のこのこ猿が山帰りかい」ギヌロ、と鋭い眼を向けられて、鍬次郎は(ヒィ)と首を竦めた。
「すいません、和泉守様、猿の堀江鍬次郎、のこのこ戻りやした……ご機嫌宜しゅう」
「ちゃうやろ、鍬」険しい横顔にビクリとしながらも、鍬次郎は照れ笑顔を作った。
「ただいま、和泉守様」
「よぅ戻った! 今日は、宴会やな。成人祝いしよか」と藤堂高猷は、勇ましく笑った。
――いつしか鍬次郎は元服を迎えていた。
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彦馬は津の食事にまず度肝(どぎも)を抜かれた様子だ。お膳が運ばれてくるなり、じ、と膳を見詰めている。気付いた藤堂高猷の奥方様が凛々しく微笑みかけた。
「悪いねえ。田舎料理やけんど、そこそこ、ええ食材揃えたったで。鍬の友人やもんね」
「奥。俺の膳の御菜(おかず)が足りんで……」
奥方はにっこり笑って通り過ぎた。また喧嘩かと思う前で、彦馬が耳打ちしてきた。
「一枚、撮らせてくれんかいな。構わへんよね。ええ乳やな」
「アホ。黙って飯ぃ食え。……何でもかんでも、女性なら被写体か! 待ってても出て来ないで。質素かも知れんが、これが侍の精進(しょうじん)料理(りょうり)と言うて」
「違う。吾のモノなんだよな……これ、全部ええんやね? みんなで取り合いせんでも。ええと、ご主人。余所(よそ)モンがすまんこってす」
「ええねん。鍬の友人やろ。友人連れてくるとは思わん。偏屈で、真面目で、面白みもありゃしねえ。だが、真剣に真面目をやる〝あほんだら〟や。おおきにな」
「たしかに〝あほんだら〟やね。遊郭一つ行きもしない。真面目くさって教本と見つめ合いや。象、元気か心配ばい」
「鍬次郎の象は、一生起き上がらんのかも知れん。おう、心配やな」
彦馬と下世話な話が合うらしい。(似ておるもんな、こやつら)と箸の先にイモをぶっ刺して、鍬次郎はもくもくと料理を口に運んだ。
麦飯はふんわりと美味しく、五穀(ごこく)の祭りにしか出ない祝い米だ。魚も、野菜も、豊穣(ほうじょう)の色をした素晴らしいものばかり。大根には摺った百合(ゆり)根(ね)がかかっているし、甘藷(かんしょ)の甘煮もある。ご馳走に舌鼓を打っていると、彦馬がつん、と肘で鍬次郎を突いてきた。
「な、頼み込んで貰えへん? あの勇ましい奥方様に」
(まだ言うとる。己のイモの邪魔すな)
「そんなん、自分で言えよ。ずうずうしい性格が売りやろ」
「言い寄るねぇ。おまえさん、故郷に戻ると〝横柄(おうへい)〟なんやな。ええよ、なら言うたる。奥方様、三味線を構えて一枚! できたら着物はだけさせてくれたらよかやん!」
シーンとなった。夫の高猷が、ぬっと動いた。
(ば、馬鹿!)と睨む前で、高猷の野太い指が伸びて、彦馬の頭をわしゃっとやった。
「ええなあ! その勢い! おう、奥。どーんと磨き抜いた乳、見せたれや。たまにええモン見ンと、男の部分が腐るでぇ。鍬次郎、おまえも見倣(みなら)ってみたらどや!」
(余計なお世話だ。何なんや、さっきから。悪ガキ二人が助平な面並べよって!)
煙管(きせる)を銜えていた奥方が煙管を高猷に飛ばし、にっこり笑った。さっと高猷の膳を動かした。高猷の箸がすかっと滑る前で、天女の微笑みを浮かばせた。
「写真、やっとるんやてね。鍬次郎、魂消るなんて話には、ならんな? 奥座敷に三味線置いてあるんや。一奏、聞かせたろか、おいで」
さばさばと歩いて行った。彦馬もひょいひょい、従いていった。奥方様は相変わらず高猷より潔い。しかも彦馬の膳は綺麗に平らげられていて、米粒一つ遺していない。
「すまん。あいつ、ずうずうしくて、女に目がないんや」
高猷がせせら笑った。
「ずうずうしいは、津の小猿やろ。どんだけ油の金の工面(くめん)に苦労したと思う。奥は元芸妓や。心配は要らん。さぁて、男同士の話しよか。手紙でちまちま書くな、あほんだら!」
最もな言葉に頭を下げた。
「でも、己。舎密本格的にやりたいんよ。機具が要る。必ず、結果は出すから」
「三百五十万石の領地で、やっと賄える額や。おまえは藤堂家の財産を食い潰す気か」
「いけず領主!」「無謀小猿が!」倍の大声でやられて、しゅんとなった。高猷は胡座を掻いたまま、囲炉裏を見やった。津の三婆たちの姿がない状況を確認して、声を潜めた。
「お前が夢を追っている間に、状勢は変化しとるんや。藤堂の指示に従わない侍も多い。まあ、中央を知らん奴らは、元々反抗的や。婆様たちには聞かせられん話や」
「割れているという話か」「平たく言えば」と高猷は平明に答えた。
「桑名の奴らとの小競り合いがな。後には攘夷(じょうい)志士(しし)がおんで。中央のご公儀を倒そう動きがある。俺は、参勤(さんきん)で江戸へ上がらなければならんくてな。戦いも覚悟せんとあかん」
三味線の音が聞こえてきた。彦馬は巧い具合に奥方様に構って貰えた様子だ。
「津の藤堂家は江戸のご公儀と一蓮托生や。馬に鞍が要るように、我らは蹄となり、鞍となり、上様を次の時代に運ぶが役目。今やれる任務は文化や。上級に上がれた聞いて、ほんま、ほっとしたで。長崎の蘭学の息子殿と並べた。おまえの力は証明されるやろな」
(へへ)と鼻の下を人差し指で擦った。高猷は額に指を当てて瞼を下ろしていたが、かっと見開いて明るく告げた。
「江戸に行くか! 江戸に行って、おまえらの実力、試して見よか!」
「船は嫌や!」喚いた前で、大慌ての彦馬が飛び込んで来た。
泣く子も黙る藤堂本邸だが、長崎の鬼には関係ないらしく、あわあわと荷物を解き、ズルズルと機具を運び始めた。
「剥き出すん、今だけやて! 鍬、手伝えェ。乳見せ三味線美女! 歴史に遺す!」
助平な台詞に背中を押され、面倒臭い準備を始める辺りが、彦馬らしい。
「畳を傷つけんな! 最高級の藺草やんから! わ、おまえ、また銀板突っ込みよって!」
大騒ぎの末、奥座敷で『乳見せ三味線美女』の撮影となった。
奥方様は片方の着物を若手衆の奥方の迫力で抜き、麗しい乳の間に三味線を構えた。男だてらに胡座で愛おしそうに三味線を掻き鳴らす。後世に残すに相応しい一枚だ。
女体が神秘的だとは思った経験はなかったが、彦馬が被写体にと騒ぐ理由を少し、鍬次郎は理解した。
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二人で協力して、月の高さを基準に、時間を計った。『三味線乳見せ美女』の現像である。
「乾板(かんぱん)写真(しゃしん)で良かったな。でもな、もっと良くなりそうな気がするんよ」
溶液の付着を待つ間、彦馬は嬉しそうに鍬次郎に己(おのれ)の考えを打ち明けた。
「おまえさんと、本、作ろ思って。舎密のやり方と、撮影の指針。一緒に考えてくれんか」
月夜の下。写真がぼんやりと輪郭を現し始めた。定着液を丁寧に樽に注いで、のべ棒で搔き回す。つんとした薬品の臭い。
「ええよ」短く返答した。あまり喋(しゃべ)ると、嬉しさを見抜かれて、要らん〝つん(ひっかき)つら(まわ)かいちゃ(され)る〟メに遭いそうだ。素直にさせてくれないのは、すべて、彦馬の性格が悪い。
「明日の昼間、出港するそうやで。今の内に、近くの温泉にでも行って来ぃ」
「お気遣い、すんません、奥方様」
奥方様が二人分の着替えを持ってやってきた。樽を見て「ぎゃ! うちがおる!」と逃げて行ったが、また戻って来て、板ごと持って高猷の元へ歩いて行った。
瑠璃色の星空の下で、お湯を揺らしながら、彦馬は安堵の口調になった。
「……やはり吾らは二人で一つやん。結婚みたいなモンやねぇ。星が見事や。撮りたいもんが多すぎる」
「そうやな。……でも、夜空って撮れんのか?」
「やって見よ。板、余ってたやん。やるまえに腰退けるんとな、女逃げるで、ヒヒ」
鍬次郎は問いを無視して、星空を見上げた。
『戦いも覚悟せんとあかん』高猷の話には切迫した何かがあった。緊張感は、知らず、鍬次郎の胸に棲み着いた。暢気な彦馬を連れてきて、良かったと思った。
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「江戸へ行くか!」と(確かに和泉守様は朗らかに告げた! 江戸で実力を試してみさらせ、と! 何で都合良く商(あきな)い船が停泊しとんのやろ)
澄ました表情の鍬次郎だったが、甲板で命綱を結ばれるなり、みっともなくも狼狽(ろうばい)した。心の傷である。長崎に向かったときの船酔いの記憶が、否応(いやおう)なく甦った。
「お、下ろせ――! 己は陸地で行く! や、いやだ! 船酔い、要らん!」
船は津から出港した。早朝の船出で見送りはない。染井吉野が「けけけ」と揺れている。
彦馬が欠伸を噛み殺した。彦馬は寝ていない。何やら一晩ゴソゴソと起きては、外を散策していた。海育ちの彦馬は、どうやら田舎の山、が気に入った風情だ。朝起きたら、現像待ちの板が増えていた。
彦馬が目をうつろにして、海月(くらげ)の真似をして見せた。
「みっともないねえ。鍬、ゆぅらりゆぅらり揺れて、海月になったつもりでフラフラしてれば酔わん。ほーら、ゆうらゆぅら……ゆうぅら……おぉうっ?」
でーんと倒れた彦馬を水主が「へっぴり小僧」とゲラゲラ笑って、奥に引き摺って消えた。不愉快な表情で睨んだ鍬次郎に今度は高猷が気付いた。
「ありゃ、黒潮を遡ったせいや。今度は、さほど揺れん。言うたやろ。まずは飛び込め。随分と飛び込んでるようやな。ええ顔付きんなったよ、鍬次郎」
「そうですか。変わっておらん気がしますが」
「成長は鈍足でええんや。ゆっくり、ゆっくり、気付けば大人になってまう。蜻蛉の羽化のようにな。真っ白い胴体が、いつしか伸びて、羽を広げるもんや」
前はここで大抵頭をくりくり撫でられたものだが、もう鍬次郎は頭を撫でられて喜ぶ年頃ではない。少し、あの頃を懐かしく思いながら、海を見詰めた。
(場所によって、波も違うんやな。西の天草灘の砕け波とは違うわ)
今回、乗船しているは、津の北前(きたまえ)船(ぶね)と呼ばれる対馬(つしま)海流(かいりゅう)を順流し、商いを行う船である。弁才(べんさい)船(せん)に西洋技術を取り入れて改良しているのだが、長崎で和蘭陀の『観光丸』を見慣れている鍬次郎にとっては、どこか田舎くさい。
罐(かま)ではなく、蒸気と電気を併用すれば、船の揺れは収まる。竜骨も、もっとしっかり組めば、嵐にだって耐えられる。造船学では鉄を織り交ぜた機体に圧倒された。もっと異国の勢いを取り入れればいいのに。
潮の難所の伊勢に差し掛かると、水主たちは、てきぱきと波を越えるために動き回り始めた。とは言え、今回は順流だ。確かに、勢いに乗れば、さほど揺れは酷くはない。
遠心力(えんしんりょく)、の仕組みを学んだ。物質には様々な重みと、力が働く。じめっとした空気が、鍬次郎の着物を、しっとりとさせた。
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「和泉守様、お聞きして構わへんですか」
船が伊勢で停泊した好機。錨(いかり)を下ろしてはいるが、波は荒く、満潮の海面は遠慮せずに船を大揺れにした。
「船に、どでかい大砲つける言うてたけど、それ、誰に向けて撃つん? カレフ軍医っちゅー、いけずな軍医の兵器学、己、取ったで。だから知っとる。武器や兵法」
高猷の射貫くような鋭い細目が鍬次郎に向いて、鍬次郎は身を震わせた。
「なあ、何のために設置するん? 考えたないけど……何を焼くために」
「なら、考えんでええ。おまえも年頃や。姉ちゃんのおっぱいや尻を思い浮かべぇ」
「己は真剣に聞いてん! はぐらかしはナシで頼みたい!」
荒波が船腹を叩いた。砕け波の水飛沫(みずしぶき)が頬に降りかかる。夕暮れ間近の海映えの中、高猷は慈(いつく)しむ口調になった。
「焦らんでも。いつか、分かる時が来る。綺麗事だけでは、護れへんてな。積み荷が終わった。また船、動くで、しっかり綱、確認しとけよ」
(何や……軽妙(けいみょう)洒脱(しゃだつ)な和泉守様らしくない。神妙に、言うなや……)
見れば水夫たちが大きな樽を転がし、俵を担いで甲板に上がってくる。積載量を超えないギリギリの荷物を積んだ船は、僅かに沈んだ。
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夜を越え、弁才船はまた動き出した。
紀伊、伊勢、駿河、伊豆――いくつもの岬と停泊許可地を超えて、船は江戸に近づいた。空気が違う。蒸し暑い。
「なんや、これ。べたべたすんで」
「湿気だ。俺はご公儀及び、老中たちにお目通りや。引っ繰り返っている長崎小僧を叩き起こして、江戸の散策でもしていろ。くれぐれも、伝習生や! などと、江戸の破落(ごろつき)戸に絡まないようにせえや」
「絡むか、そんなん」言い切って(短気な彦馬なら喧嘩を買うぞ)と思い直した。
一寸の中に怒りと笑いを二度ほど往復する。猛獣のように唸(うな)っては寝る短気即効型。
「江戸に、藤堂の別邸がある。準備して迎えに行くまで待ってろ。なーに、すぐに忙しくなんぞ。何しろ、新しいモノ好きの維新の皆が、めかしこんで押し寄せらぁ」
「己らが撮るん?」
「知っとるやろ。土佐の船好き、坂本龍馬、薩摩のいけ好かない判事、大久保一蔵に、長州の変装の達人の桂小五郎、奇人の高杉晋作。なんや時代を変えようと蠢く金のムジナ連中や。髭に唾つけて「撮ってくれ」「撮ってくれ」言いよるで。何しろ舎密学や蘭学は西から上がってくる。まだ、知らんのよ。江戸の奴らは。どや? わくわくするか」
高猷の言う『維新の皆』とは、国のために戦う思想学者……らしいが、田舎の侍の一揆だと笑う輩もいる。賛否両論である。
「身を殺して以て仁をなすなり。志士に学べ。ただ撮るでは、勿体ない。映すもんに失礼や。写真か。様々な未来が見えるな」
「どんな未来や」高猷は、また男臭い笑みを浮かべ、ごつい手で鍬次郎の頭を撫でた。
(もう、甘やかされる年頃やないのに、ちょっぴり照れくさいよ)
「和泉守様……己、本気で写真機具欲しい。買うて」素直に言ってみたが、シカトされた。
(諦めんからな! 結果は出てるんや! 前の己とは違う。とことん、食いつくで和泉守様。巻き付いて蜷局(とぐろ)……)
大嫌いな蛇が脳裏にのったくって〝蜷局〟を巻く。鍬次郎は唇をへの字にした。
まだまだ侍が跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)して、ふんぞり返っている武士の匂いのする江戸と、異国文化を花咲かせる長崎は相反しているようで個々の個性を放つ、鍬次郎と彦馬のようだった。
❀3❀
藤堂家所有の別邸である。国主は江戸に屋敷を持っている。藤堂の別邸は江戸城下町に近い、堀の側に、ひっそりと建っていた。
「この別邸も、いつまで持つのやら」縁側を通り過ぎようとして、鍬次郎は足を止めた。
離れの台所で、女中たちがお喋りをしていた。
「津の大国は、そりゃあ上様の覚えもめでたいけんど、先日も桑名の奴らに負けとるやないの、あんた、火ぃ止めて」
(負けた? 和泉守様がか?)
伸びた彦馬のために水を溜めた手洗(てあらい)を強く抱え直す。障子の向こう、夕餉(ゆうげ)の支度しつつ、女衆は噂話に余念がない。
「あれでしょ。結局、ウチの殿様ったら、中央の流れを無視して、長崎に肩入れしちゃったから。通行税だって、庸税だって、誰の意見も聞かずに、軍艦に夢中で」
間違いない。高猷の話である。やがて女衆は雑談を止め、野菜を刻み出した。トトトトトトト。ぐつぐつぐつ。夕餉作りの何気ない、忙(せわ)しなく聞こえる音が怖い。
足元から風が吹いたように、体が冷えた。背中に嫌な汗が伝わった。
(何や、今の話……。そうや。津に戻った時、なんか、皆、余所余所しかった。まるで己らが帰ってきた事実を隠すようにしてた……そや、己、父も母も逢えなかった……)
何かが狂ってきている。人の輪が知らず、まあるい円から棘っこを出している感じだ。
「お友達、座敷に寝かしておきましたえ。布団、嫌がるんどす」京訛りの女将に頭を下げて、鍬次郎は奥座敷に急いだ。足元に再び冷風が吹き、崩れそうな予感が押し寄せた。
――〝お前が夢を追っている間に、状勢は変化しとるんや。藤堂の指示に従わない侍も多い。まあ、中央を知らん奴らは、元々反抗的や〟
中央とは上様、つまりは御公儀。藤堂家は予てより添い遂げる覚悟だと聞いた。藤堂家が中央に寄りそうなら、津も自ずと古風の道の守り刀になる。
――考えたないけど……考えな、あかんな、鍬次郎よ。
彦馬は奥座敷にでーんと引っ繰り返っていた。船酔いの時は無理して体勢を変えると、げぇっと来る。布団が嫌なのか、藺草にヨダレを垂らしていた。
濡れ布巾を敢えて絞らず、彦馬の顔にべしゃりと掛けてやると、彦馬は飛び起きた。
「いつまで寝てるん。とっくに夜や。夕食、食いっぱぐれても、知らんで」
「ここは? 朱里……? 耳掃除頼む……夕餉、残しとき……」
お気に入りの遊女付き少女の名が、こんなところで出て来た。彦馬はすらりと伸びた獣のような足を剥き出しにして、起き上がった。
たった数年。「長崎の鬼」は立派に成長している。元々素質がいいが、素質に乱れた生活習慣が勝っているため、だらしない。
「寝ぼけとるな。ほら、おまえも整備を手伝え」
「整備?」助平な寝ぼけ眼を擦りながら、彦馬は欠伸を噛み殺していたが、びょいんと近寄って来た。
「な、吾(おれ)が言うた話やけんど、考えてくれた?」
「海月のように、ゆらぁりゆらぁりか」
「ちゃう! 遊郭……間違えた。〝おまえさんと、本を作ろ思って。舎密のやり方と、撮影の指針。一緒に考えてくれん〟てほう。いやか?」
(ええな、おまえ、暢気(のんき)で!)言いたい気持ちをグッと抑えた。
――なんで、己だけ。なんで。先ほどの話からの悔しさの芽が生えてきた。
長崎の彦馬は、争いに巻き込まれる理由はない。蘭学の世界が当たり前で、先進的な時代に足を進めて行ける。鍬次郎には足枷がある。「鍬?」と陰を帯びた鍬次郎に勘づいた彦馬が、ぽつりと名前を呼んだ。
藤堂の別邸につむじ風が忍び込んだ。
(大人になった。無我夢中で、「あれやるんや!」と言ってはいけない現実に気付くほど)
舎密学を究めて、国の立役者になる。隣には彦馬がいて、美しい長崎港や、時には女体や、小鳥たちの歌や、カレフやヨハネスの姿も遺してもいい。この時代が如何に素晴らしいかを、遺す〝手伝い〟をする。
(やっと見つけた夢や。竹蜻蛉を削るも忘れて、打ち込める夢……奪わんといて)
涙気分でそっと祈って、雑巾を暢気な顔にぶつけてやった。紐で袖を縛り上げた。
「なんでもない! おまえ、畳拭け。汗染み込ませたら和泉守様にケツ蹴っ飛ばされる。雑巾を硬く絞って、そっちからや! 汗染み全部すっかり落とすで、蛆(うじ)が湧く」
「吾は客やろ」「引っ繰り返ってヨダレ垂らす時点で、客やない。そっちから!」
ぎゅ、ぎゅと彦馬の形に染みた藺草を拭きながら、鍬次郎は唇を軽く噛んだ。
まだ、悲愴な未来だと決まったわけじゃない――。未来のヨゴレは、まだ落とせる。
だから、未来に汚れを染み込ませるような思想は、まだ要らないと。
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彦馬と共に、江戸の濃い味付けの夕餉をさかさかと掻き込んだ。
廊下に衣擦れの音。いつもの段だらの着物と違い、すっきりとした水干姿の凛々しい高猷が、顔を見せ、嬉しそうに藤堂別邸の女将が出迎えた。
「どう見ても、愛人やろね。あの三味線の奥様に告げ口したろか」と余計な部分に気付いた彦馬の頭を叩いて、鍬次郎は茶碗を置いた。
「お帰りなさい。今夜の予定なんですけど」
高猷の目が怪しげに濡れている藺草に向いた。彦馬の汗を拭いた藺草である。
(ヒィ)と思う前で、「写真の用意は?」と質問が飛んできた。
「よし! おまえらの実力、見させてもらおか。長崎の兄ちゃんと、ドデカボサ頭ん、津のそこの猿」
「なんで己だけ酷い言われよう……」
「女に興味ないんやろ? 猿でええ。男になりたきゃ……行くで! 高級遊郭!」
鍬次郎は箸を落とし、彦馬は「おっちゃん素敵や!」と箸を咥えてニヤついていた。
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数時間後――。
(やっぱり、こうなるんやないか! 和泉守様のあほんだらの助平親父め!)
江戸は高級遊郭。時折ご公儀の重鎮(じゅうちん)たちが利用する料亭続きの遊郭は、城下町の森林に隠れるようにして建っていた。
チントンシャン。優雅な芸舞妓が連なってやってくる様を、鍬次郎はぽかんと見送った。
高級な欄間の下、檜(ひのき)で設えた調度品に、絹の座布団。赤い御器(ごうつわ)は恙(つつが)なく磨かれ、上質な和紙をふんだんに使った障子は、穴を空けたら一生奉公であろう高級品。
(お、落ち着かん……なんで銭を払って、カチコチになってお湯を飲まなあかん……)
芸舞妓は高猷に酌をし、鍬次郎には白湯(さゆ)を置いていった。彦馬はすっかり慣れた口振りで芸舞妓を口説いている。
鍬次郎はきちんと座って背筋を伸ばしていたが、二人はすでに足を崩している。足を崩すと忽ち痺れがやってきた。
「そろそろ来るはずやねんけど……鍬、彦馬のあんちゃん。俺は、〝紗(さ)雪(ゆき)〟と〝美麗(びれい)〟と部屋替えや。ささ、二人とも、あっち、いこか」
高猷は別嬪(べっぴん)を二人も連れて、奥座敷への回廊を渡っていった。
(ったく! 助平おっさん!)と、こむらがえった足を撫でていると、「それ、気になってたんだけどさー」と一人の芸子が、つつつ、と寄ってきた。
ちょっと目が大きい。日本人の綺麗な黒檀の瞳が鍬次郎を映している。瞬きの回数の多い瞳に、鍬次郎のポゲとしたアホ面が映っている。
「おまえさん、可愛いねぇ」
(なんやなんや。遊郭って、べたべた、ほっぺ触らせる場所か!)
芸子は写真機具に視線を注いでいる。ベルに似ている積極的な芸子だ。
(ベルか。どうしてるんやろな……ピエール軍医に聞くわけにも行かない。あらぬ疑いをかけられるはご免や。そもそも、御国言葉はベルが喜んで覚えてったわけで)
兄のピエールには、相当ショックだったらしい。ベルは和蘭陀でも田舎弁を使っている様子だった。
ぼさぼさになった頭を直していると、奥で様子を窺っていた姉女郎と目が合った。
「子供と動物は大衆受けするモンよな。さぁさ、お出迎えだよ。そこまでにしな」
姉女郎が三味線を掻き鳴らした。
どたどたと足音が聞こえ、鍬次郎は思考を止めた。数人の男たちが歩いている音だ。遊女たちが、さっと着物を正した。姉女郎が裾を捌いて立ち上がった。
(なんや。急に緊張感を漲(みなぎ)らせよって……誰が来ると言うんや)
「おいでまし、上官の皆様」姉女郎が丁寧に襖を開け、遊女たちも深く頭を下げた。
開け放たれた廊下には刀を差した武士が四人、姿を見せた。それぞれ特徴的な顔と格好をしている。
まず、髷を結っていない着崩した派手な着物の破落戸が二人、対象に袴をきつく縛り上げた男が二人。
「素敵なわし、土佐の坂本を歴史に遺す場所とは、ここかァ!」
「おいどんの美しく凛々しい姿を遺す場所はここか? 大久保と申す者だ」
「俺の勇姿は是非! 夢のような話じゃ! 大砲と一緒に映りたいもんじゃ! 小五郎」
「いやいや諸君。ダマされている事実に気付きたまえ。高杉、大砲を持ち込んで、どうする。異国の悪魔が魂消る悪さをする。僕は、酒を飲むことにする。勝手にやりたまえ」
(維新志士の皆様やないか! 飛んだ大物が!)
男衆はどやどやと押し寄せ、「長崎ン子がいるぜ」と部屋の隅の彦馬に視線を向けた。
彦馬がむっと顔を上げた。「いん(何だよ)やぎー(おまえは)ん」と言わんばかりに男衆に近寄った。好戦的な笑みを浮かべ、指の骨をポキ、と鳴らし、一番着物の派手な男をギンと睨んだ。
(ま、まずい。睨み合い始めよった……彦馬、この男らの正体、知らんのか!)
鍬次郎の背中に汗がツゥと落ちた。土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎、高杉晋作、大久保一蔵と言えば、時の人である。日本の玄関と言えど、長崎は端っこ。独特な文化の陰で維新志士を知っているとは思えない。土佐の坂本龍馬に至っては、〝桂浜の龍神〟とも称される海の豪の者。長崎の小僧が喧嘩を打って良い相手ではない。
「彦馬、あのな、おいこら、喧嘩買うな。相手が悪い」
耳を抓んで囁くも、彦馬は親指を舐め、ニィと笑って見せた。
「吾は売られた喧嘩は買う! そうだな、高値でどかんと買うもよか」
「やめろって。頼むから、問題を起こすな! 目立ったらあかんて」
まだ江戸では主流の着物ではない彦馬は、どこにいても目立つ上、「いんやぎーん」と喧嘩を買う。さっそく眠そうな眦が「いんやぎーん」と訴えている。
「維新志士の皆様。左から、土佐のお方、長州の皆様、中央の方……皆、心待ちにしてた様子ですのよ。和泉守様が吹聴しましたの。維新志士のお兄さんたちにね」
仲裁に入った女郎の言葉に、彦馬と顔を見合わせた。撮れと言う話だろうか?
(また、和泉守様、何も伝えてくれとらんし……)。がっくりする前で、維新志士の男衆は髪を撫でつけたり、咳払いをしたり、髭を唾で伸ばしたり、手に文字を書いたり、どこか落ち着かない。
(あれ? 彦馬どこ行った)と見れば、シュタっとばかりに彦馬は維新志士のお兄さんたちに、すり寄っていた。
さっきの険悪な顔はどこへやら。人の良さそうな、にこやかな笑みを浮かべている。
「はいはいはい。お客さん、順番に並び! 撮っとっと。一枚……こんくらいで、どう?」
手を叩き、堂々と金額を提示した。小判五枚。かなりの高額に、維新志士がざわついた。
(高いやろ。高級な侍相手に何を高額ふっかけとんのや)(ここで稼げと、津のおっちゃんがな。花代を作らな)(聞いてへん……)(鍬に言ったら、目くじら立てるやろって。吾にこっそり耳打ちしてったが、男の耳打ちなんか気色悪か!)
こそこそやる鍬次郎と彦馬の前では男たちは頷き合い、小判を投げた。
「さ、頼む」と着物を半脱ぎした土佐の坂本龍馬から撮影となった。土佐の豪傑だ。その他の面々も〝御国立て直し〟の名だたる英雄の破落戸武士。
(良くわからんが、写真を撮られに来たんは確かやな。失態できへんで)
「これで良いじゃろか」と龍馬は斜め構えになり、きっ、と表情を作っている。
「格好良く頼む。わしという存在を、未来永劫、知らしめるのじゃからな! ハハハ!」
(手に汗吹き出してべたべたや)こっそり飛び出している彦馬のシャツで手を拭いて、喉を鳴らした。龍馬は「ほれ」とばかりに髪を揺らし、笑顔になった。
「撮りますよ」。鍬次郎は慎重に狙いを定めた。彦馬が、光源を調節してくれた。
後世の上野彦馬の代表作となる龍馬の一枚である。龍馬は斜め立ちを一枚と、お気に入りらしい遊女を添えた一枚を収めた後、高杉と桂に押しのけられた。
「次はわしらじゃ。ん? もっと侍(はべ)らすか。ねえちゃん、もっと足ぃ開けや」
「やめてくれ。後世に何を遺すつもりか。……高杉! それは不埒と言うんじゃ。ああもう、頭が痛い。着物もきちんと着てだな……」
どうやらきちんとしたがる桂と鍬次郎は気が合いそうだ。だが、せっかく着た着物も、高杉晋作は大きく引き下ろし、男の胸をさらけ出し、色気満載に遊女を侍らせた。
「俺は遠慮する。眩暈がしてきた。約束が違う。侍の真の姿を遺すと言ったからこそ!」
「わーかった、わーかった。クソ真面目さんヨォ」
桂小五郎と高杉晋作は勝手に、刀を抜いてわざとらしく構える「素敵な格好」をした。
更に「幾(いく)松(まつ)」と、これまた遊女との一枚を収めた。彦馬がいきいきと担当した。
また坂本龍馬が小判を積んだ。彦馬の撮影の合間に、桂小五郎は少し江戸の話と、今の政事の駄目さを力説した。常に最先端の感覚を持つ高杉も、今の日本の海禁が如何に田舎臭い考えかを主張した。
興味深い。鍬次郎は膝を進めた。二人はしきりに彦馬に着目した。
(少年であれば〝彦馬ばかり〟と愚痴たれるところだが、彦馬の持つ人を寄せ付ける何かは、疾(と)うに理解している。何を隠そう、己が一番魅入られているんも知ってるわ)
むしろ最近は〝相棒〟がいる心地よさを噛み締める機会が多かった。
ピエール軍医も、ヨハネス軍医も、彦馬と一緒だからこそ……鍬次郎を見る。
女郎が徳利(とっくり)を手に、華を添え始めた。高杉はお猪口(ちょこ)を置き、徳利から酒を呷った。対する桂はお猪口の汚れを袖で拭いて、くいっと呑んでは「済まない」とお代わりを強請る。
一人、大久保は撮影に参加せず、「鬼に魂消る」と拒否状態だ。
「早急な開国だろうな。……当然、こういった技術も今後は必要になる。兵器も足らん」
「そこの長崎の生意気坊主! おめぇの服も、まだ江戸にねぇ。鬼呼ばわりされても、そりゃ仕方あるめぇ。己ぁ奇抜(きばつ)な服装は大歓迎だ。奇(き)兵隊(へいたい)に入らねぇかい?」
「やめんか。高杉。――で、まんまる頭のきみは? いずれは津へ戻るのだろう? 侍は義理人情無くしては生きて行けん。主君に命を授かり、果たすからこそ、主従なのだから。桑名か藤堂かと言われれば、時代は藤堂に軍配(ぐんばい)を挙げる。しかし、あまりにも和泉守殿には味方が少なすぎる。きみの知識は、津の武器だ。己の国の反乱すら……」
高杉晋作が「おいコラ」と桂を肘で突いた。桂は饒舌(じょうぜつ)だが、うっかり事情を口にしてしまう性質だった。肩越しに、彦馬に巻き上げられ、数枚の撮影を終えた坂本が空になった袋を振って肩を落としている。しかし、そんな光景は、どうでもいい。
(和泉守様が窮地に立たされている?)
「反乱て……和泉守様はそんな話、一つも己にはしませんが」
「しないだろうな。できねぇよ。だが、藤堂の津では、小さな小競り合いが数度起きた。領土争いに負けりゃぁ、お陀仏。国名も、証も、全部を奪われ、血に染まっちまう。武器を手にすりゃ、死体の山。軍艦で戦う作戦? 田舎の平和モンの、だぁれが賛同(さんどう)するか。蘭学や兵器学は一人じゃできめぇ。奇抜な決断には協力者が必要ってこった」
高杉の言葉は、軽妙洒脱ながらも、真理を言い当てていた。
――一人では、何もできない。どんなに素晴らしい理想があろうとも。賛同する他人がいなければ絵空事(えそらごと)になる。津のお側衆も、高猷の先進的な考えについて行けない。だから、鍬次郎を伝習に選んだ――?
(そうだよ。鍬次郎。なんのために長崎に伝習に来た? ……和泉守様のお役に立つためだ。親父を見返して、彦馬と未来を共にする? 違うだろう)
竹蜻蛉(たけとんぼ)は、一人では飛べない。誰かが飛ばさなければ。削り、整え、誰かが大空に向かって手を掲げ、解き放たねば。
「己は」意を決したところで、「わたしも、一枚……」と髭を伸ばした几帳面な男が「魂消る、魂消る」と気弱な風情で撮影を申し出てきた。
ふんぞり返って、髭をお洒落に伸ばして、撮影のための小判を五枚置いた。
「ちゃっと頼む。あのヒゲ、粘着質で一番面倒くせぇの。その癖、自己(じこ)顕示(けんじ)欲(よく)半端ねェ。坂本さん、何枚撮らされた! おまえ、鬼か! やっぱり奇兵隊……」
高杉に頷いて、ぺこりと頭を下げた。維新志士のお兄さんたちは山になった小判を眺め、上機嫌で出て行った。
❀❀❀
有意義な時間の残り香が、部屋に漂っていた。
「嵐やん! 部屋がおっさんクッサ! 戸ォ立っとけ」と彦馬が額の汗を拭い、窓を開け始めた。クックックと笑い出して、鍬次郎も笑った。お互い涙目になった。
「面白か。なんだあれ、維新のおっさんらが子供みたいな顔やん。自分好き好きはええ」
「そうやな。カッコつけて、ふんぞり返っておったな」
彦馬は目を細め、「やっぱ本格的にやって良か」と充足感いっぱいに呟いた。
幾松と呼ばれた姉女郎に笑顔で「花代出しぃ」と言われ、渋々小判を数え始めた。頭を掻き掻き叱られている彦馬をニヤニヤと見やり、鍬次郎は銀板の片付けに入った。
――皆が遺したいものは古今東西、すべて同じ。楽しい今であり、笑顔で在る現在だ。
(撮られる被写体の人々の瞬間の笑顔。見られるは役得かも知れん……己も、もっと舎密学を究めたい。知識は武器になる。ほんまやな)
――悔いのないように。いつかあるべき場所へ胸を張って帰るためにも。
暗黒の言葉を仕舞って、鍬次郎も笑顔になった。
また何も説明をしなかった和泉守様に対しては、制裁が必要だろう。部屋の襖を少ぉし開けて、遊女との遊びの一枚をこっそり撮ることで、溜飲が下りた。
(後で奥方様に)などと意地の悪い策謀を浮かべたところで、高猷がぬっと動いた。
「あほんだら。おまえらの考えくらい読める。買い取るで!」と小判を一枚差し出した。
「言ってくれたらええ。準備したのに。いつもなんも言わんと、驚かせる」
高猷はニヤリと笑い、彦馬、鍬次郎の順に頭を叩いて、袖に腕を突っ込んだ。
「維新の連中との繋ぎができた。これで、いざとなれば、戦艦を並べ、新たな時代へ向かえるだろうさ。ようやったな」
「さては、吾らを利用した? 津のおっちゃん」
「津でウチの飯ぃ食ったやろ。しかも二合も」
高猷は唸ると、「買ぅたるわ、機具」と鍬次郎の頭をぽん、と叩いた。
「魚みたいなまん丸目すな。鍬。機具、買ぅたる。ええ顔付きと、友人ができた祝いやで」
「ほんまですか!」津の御国言葉で思い切り訛って、遊女たちの笑いを買った。顔を上げ、(よっしゃあ)と嬉しさで拳を握った鍬次郎に嫌らしい大人のにやつきが降った。
「遊郭の一室を借り切るから、そこで暫く商いせえ。駿河守殿を通じ、入荷できるやろ。手紙、書くわ。料金も払ってやる。またふんぞり返ったおっさん侍を、がしがし映せ。江戸にいる間、じゃんじゃん稼いでもらわんとな」
「上等だ」と鍬次郎と彦馬は、しっかり拳を打ち合わせ、勝ち気に笑った。
❀4❀
後日、江戸を離れるまで、遊郭には我もと、噂を聞いたかっこつけの侍が押し寄せては、笑顔を撮られて去る話になった。銀板が足りなくなった時には、高猷は手配を引き受けてくれ、横浜から機具や薬品が届いた。彦馬は遊女に数度、振られた。
部屋に積み上がった銀板の前で、鍬次郎は上機嫌(じょうきげん)だった。
「この銀板の数見たら軍医、驚くで! でも、己らが伝習生(でんしゅうせい)だって気付いたやろな」
うつぶせになっていた顔を彦馬は上げたが、またそっぽ向いた。
「どうでもええ。毎日毎日、銀板磨きの日々ウンザリや。もっと効率良くできんもんかい」
「だから考えるんやろ。纏めておいたで。題名、決めなあかん。舎密教本ではつまらんし……なんや、今更。いっつもふられとるやないか。幾松さんは、どうみても桂さんに」
「やぐらしか! 吾もおまえさんのように頭丸くて、目がでっかけりゃ……」
「そりゃ、己への厭味(いやみ)か。おまえはだいたい……」
説教の中、彦馬は失恋のショックを引き摺りながらも、一緒に遊郭の大門を潜った。
眼の前には大きな城、江戸城がある。見廻に見つかると難事なので、数枚収めて、機具を引き摺って別邸に引き上げた。
夜は行燈をつけっぱなしで研究の話に没頭した。数日を経て、決定した本の題名は、蘭学解説書『舎(せ)密局(いみきょく)必携(ひっけい)』。局、は現場である遊郭の部屋の名前から取ったが、歴史には遺すつもりはない。彦馬との共有財産だ。
枕を並べると、彦馬はいつも見えぬ未来に思いを馳せた。
「吾な、蘭学を捨ててでも、写真の店やる。ピエール軍医みたいな放浪でなく、ちゃんと場所構えて、客待つん。素敵やろ……ひつましか……」
寝言を言いながら暴れた手足を蹴っ飛ばして、鳴いた腹を見、鍬次郎は天井を見上げた。
――有限の時間と、肉体。ああ、時間など何故にあるのだろう。長崎に来て、今までどれだけの無自覚に、無関心に時を見送ったかを痛感した。
楽しまな、損。だが楽しければ楽しいほど、終わりを意識する。
(来るべき時は来るんや、彦馬。己は、とっくに覚悟しておる。津の侍やもん――……)
長崎か、藤堂高猷かを選べと言われたら? 桂に言われるまでもない。最初から心は決まっている。藤堂高猷を選ぶ。主君の危機に駆けつけるからこそ、主従は保たれる。
藤堂高猷という竹蜻蛉を大空に飛ばすは鍬次郎しかいない。
寝入ったらしい彦馬の、無造作に縛った髪を突いた。
「おまえに出逢えて、良かった……なあ、月が綺麗やで」
障子の向こうにぽっかり写る月を見ている内、微睡(まどろ)みの妖怪がやってきた。
❀❀❀
ベルの夢を見た。風車を回して遊んでいる様子だ。鍬次郎の前で、笑顔で振り返った。
『すまんな。おまえの笑顔、遺せなかった……一番に遺(のこ)すべきもんなのに』
ベルは無言で鍬次郎の手を取った。そのまま腕を引き寄せて、絣(かすり)木綿(もめん)の着物に頬をぶつけさせた。感覚が麻痺しているのか、何も感じ取れない。
『あったけぇ』と津の国言葉。二人の後の月が、ぐんぐんと光を増して行く。まるでかぐや姫。月光に透けたベルは異国へ帰る。
『月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに』
ベルが口ずさんだ和歌は月が美しいから愛しい人、来て、と暇な天皇が歌ったものだ。
眼が醒めた時、頬に涙の通り道があるが分かった。一度もベルを抱き締めなかった。腕が知らない。ベルはどのくらい温かくて、柔らかかっただろう?
彦馬がずぴー、と鼻を鳴らして寝ている。
(大好きやった、月のような笑顔。おれば良かった。抱擁くらい、してあげるが男やった。……綺麗過ぎて、泥臭い津の丸猿には手が出せんかった……)
「ベル……アイラブヤ……」佳人の名は何だったろうかと鍬次郎は考え続けた。
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ちなみに、二人が稼いだ額についてはは半分を「お手間賃」として津に献上し、残り半分は、江戸での滞在費と、彦馬が入れ込んで振られた遊女への花代に消えた。
――りぃんりぃん。夏の終わりの秋の始まりを知らせる蟋蟀が鳴き始めた。
「もうじき秋が来る。空に羊さん現れた」彦馬と共に空を見上げると、江戸の青で染め抜いた空には、モコモコとした羊雲が浮かんでいた。