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第四章 動き出す長崎

❀1❀

「鍬次郎、何か来んで。長崎港に変な船がおる」
「そんな暇あるかい。爆発した理由、徹底的に調べなあかん。外ぉ見てる暇あったらな!」
 実験中に小さな爆発があった。怒ったヨハネス軍医(ぐんい)は原因が分かるまで、立ち入り禁止を言い渡している。
 ――上級舎(じょうきゅうせ)密学(いみがく)を甘く見ていた。鍬(くわ)次郎(じろう)は心が折れる日々を送っていた。今は、同じく心が折れた彦(ひこ)馬(ま)と、理由を探り出している。反省文と考察。舎密学での失敗は許されない。失態は徹底的に原因を探らねばならない。ボロ船みて喜ぶ暇はないというのに。長崎の鬼は暢気(のんき)だ。
「和蘭陀(オランダ)船とちゃうか?」鍬次郎は筆を投げ出した。
「ほんまや……え? まさか、ベル? 己に会いに……」
「大概しつこい男よか。おまえさん、結構ねちっこいとこ、あるもんな。その上夢見過ぎ」
 彦馬のからかいなどに構っていられない。反省文も後回しだ。鍬次郎は奉行屋敷を飛び出した。はあはあ走りながら、港沿いを見詰めると、ぽつねんと見えた船は、帆先が見え、やがて帆が見えた。
(間違いない! 和蘭陀船や! まさか、まさかやけど!)
 溢れる唾を飲み込んで、呼吸を整えて、途切れ途切れに腹を動かす。足腰がギシギシと悲鳴を上げた。「遅い、遅いで!」ドビューンと彦馬が追い越していった。

 ❀❀❀

 ――あの野郎。逃げ足の速さをこんなとこで発揮すな!
(も、もうあかん……歩こ……)ハアハアゼイゼイの鞴の如く呼吸を繰り返した鍬次郎の前で、彦馬は埠頭に立っていた。
「どんな足しとるんや。ハァハァゼェゼェ…何でも、ひょいとこなしよって」
「一緒に怒られたやん。鍬、ベルやないわ。男や。ヨハネスと、カレフがおんで」
 彦馬の告げた通り、船から下りてきたは確かに男の旅人の様子だ。
 がっかりして、鍬次郎は項垂(うなだ)れた。下手に彦馬にからかいの材料を与えただけだと彦馬を窺ったが彦馬は、からかいはせず、じっと男を睨んでいた。成人間近の横顔は、いつしか幼さを抜け出ていた。
(はん。遊郭なんぞに出入りして、さっさと大人になって老けりゃ良い)
 いちいち悔しがる己をしかって、鍬次郎も横に並んだ。
「何やろな。和蘭陀人……伝習の関連か。お、奉行所の連中。相変わらず、ひだるか」
「暇やないやろ。仕事や。あ、駿河守(するがかみ)樣がいる」
 和蘭陀人はしきりに頭を下げながら、身振り手振りで何かを訴えていた。
「間違い入港や。つまらん。戻って考察の続きや。でないと、一生舎密できんで。ヨハネス軍医のいけずをぎゃふんと言わせておこか」
 ……気になるな。後で、奉行所で聞いてみよう。鍬次郎はもう一度振り返った。

❀2❀

「伝習生用の軍医が不正入港したってよ。ヨハネス軍医の旧知の仲っちゅーことで、お咎めはなしやて。明日辺り、伝習所で逢えるんやないか。鍬次郎、味噌は後にし!」
 ぼんやりと味噌を溶いていた手を止めた。
 夕刻の奉行所。妻子を和蘭陀に帰した八沢(やざわ)蒼(そう)眞(ま)は、奉行所の一角で暮らしている。通常の仕事が来ないので、おさんどん役になった。男所帯の奉行所には、たまに夕食当番が回ってくる。トトトトトトトの包丁の音に混じって、当番の鍬次郎は息を吐いた。
「ベルなわけ、ないわな。……己、何を焦ってたんやろ……」
「おまえは遊郭とか、行かへんな。沸騰(ふっとう)しとるで!」
「興味が沸かん。なんで金を払ってバカ騒ぎせなあかん。っと、火、上げすぎた」
 考えごとを抱えての火の扱いは最も危険だ。しかし、頭から失態はなくならない。
(ヨハネス軍医は厳しい。失態の考察ができない以上、実験をさせない。上級舎密学とは、危険もまた、上級になる。湿板と乾板に使用する薬品も、調合次第では、人を殺す毒薬になる)
 鍬次郎は味噌を溶きながら、ぼんやりと実験時を思い返し始めた。実験は一人では進められないものが多い。几帳面な鍬次郎と、大雑把で度胸が友達の彦馬は常に担当を決めていた。
『今日は物質の沸騰と分離についての原理を説明します』……うん、ヨハネス軍医の指示は守っていた。
(そうや。火の通りが悪いのか、なかなか沸騰しないままで……)
「あ! おまえ~。味噌煮立てよったな! まっずい味噌汁になってまうやろが! 駿河守がこっそり残す。あのおっさん味付けにやぐらかしい」
 ――あ。鍬次郎の脳裏に、今日の実験の失態が浮かんだ。
「温度や温度! 彦馬が「もうちょっと上げてええんちゃう?」なんて言って、こっそり温度上げよった! あの野郎、原因が分かって、すっとぼけて遊郭か!」
 鍬次郎はいよいよ、味噌汁の〝おたま〟を放り出した。
「こら、鍬次郎! 俺に一人で料理さすな!」
「悪い! 八沢さん! 大切な考察、纏めなあかんて! 味噌汁、すまんこって!」
 扉に飛びついて、中座を詫びた。割烹(かっぽう)着(ぎ)の八沢が杓文字を振った。

❀❀❀

「いいでしょう。鍬次郎、二度と温度を謀(はか)ってはならない。今度、同じ失態したら、切腹ですよ。腹切りと、首切り」
 侍用の最大の脅しを貰い、しょんぼりしたところで、廊下に軽やかな足音が響いた。
 生徒ではない。浮かれた足取り。ヨハネスが無言で席を立った。
「ピエール・ジョセフ・ロシエ! ここは、和蘭陀ではない。踊るな!」
「舎密学をやっていると聞けば、そりゃ、飛んで来たくもなるでしょ。何というのか? 急がば回れ?」
「きみには〝急いては事をし損じる〟で良いかと思う。鍬次郎。紹介します。写真家の、ピエール・ジョセフ・ロシエ。舎密学の第一人者で」
 金髪のフワフワ髪は好き勝手な方向を向き、眼は薄い青色で、まるで硝子細工。唇は異人らしく色素が薄く、背はヨハネス軍医よりも高い。口元が誰かに似ている。
「侍! 侍……! 長崎に、侍が残っていた。一枚、一枚」
「ロシエ。そう、はしゃがれても」
 ロシエは大きく腕を振り、「ひこま?」と発音した。
(よりにもよって、彦馬だと?……ええと、和蘭陀語でこんにちは――は、そうだ。アイラブヤだったな、確か。彦馬に差をつけてやろう)
「アイラブヤ」ヨハネスが固まった。ロシエは「OK」とにっこり笑い、両手を広げた。
 馬鹿力でむぎゅっと抱かれた! 
(ひいっ)とハァハァゼェゼェ腕を振り払った。
「期待に応えたまでだよ。侍は、そういう趣味があるのかな?」
 ヨハネスは心の底から済まなそうに「愛している」ときみは言ったのです」と告げた。
 ――誰か教えろやぁ! 何年その言葉を抱いた思っとんの!
(いや、最初に教わったは、和泉守樣からやった。あの、悪戯大人! 大砲で砲弾ぶち込むで、ほんまに、勘弁してや!)
 珍しくヨハネス軍医が肩を震わせている前で、ロシエが壁に視線を向けた。
 数々の写真が貼ってある。ベルの時から、遙かに成長した。壁には七枚の写真が飾ってあったが、どれもこれも、彦馬が現像したものばかり。鍬次郎の写真は、微かに分かる、ベルとの別れの和蘭陀船だけだ。
「これは……祖国の船……」唯一の鍬次郎の写真の前に、ロシエは移動した。
(おお、さすがは、第一人者や)と嬉しさから、鍬次郎も歩み寄った。
「長崎を最後にした、和蘭陀の船です、己の初めての湿板での撮影で」
「良く撮れているが……どうも、ここに写っている人物に見覚えがあるな」
 ロシエは首を捻った。「zus(妹)?」と呟き、ヨハネスの頷きを確認した。無言で、立ち尽くした。今度はフフッフッフと笑い始めた。
(どうも、彦馬と言動が……。何を考えて、突っ立っとんのや? だんまり決め込んで)
「どっちや……」津の国言葉が和蘭陀人から飛び出した。和蘭陀人ロシエは泣いていた。
「ある日、世界の写真旅行から戻って来たら、『兄貴やん。どや? おひゅさしぶりやん。ウチな、日本戻ったで』……妹に、変な言葉教えた日本人誰! 俺の気持ちが分かるか、言うとんのやん!」
 ――げぇっ……。鍬次郎が今度は立ち尽くした。
(誰かに似ておる……じゃねえ! ベルや、ベルの口元にそっくりなんや! しかも、同じく、津の言葉と長崎弁ごっちゃにして!)
 涙目でヨハネス軍医に救難(きゅうなん)信号(しんごう)を送った。
「紹介しましょう。……和蘭陀から来た、写真家ピエール・ジョセフ・ロシエ。かの商館長の息子で、上級舎密学の軍医として呼んだ、いえ、勝手に来たのですが」
「ひこま、それとも、くわ?」
 間違いない。ベルの兄貴だ。鍬次郎はげっそりしながら、手を差し出した。
「堀江鍬次郎です。すんません……妹のベルが覚えてった言葉、己の御国言葉です」
 ピエールはじろりと鍬次郎を睨んでいたが、握手を返してくれた。
「宜しく。素質はありそうだ。ちょっくら構ってやってもいい。覚悟したまえ」
 真っ赤になった手を擦りながら、鍬次郎は運命と、冷や汗を感じていた。

❀4❀

「侍、侍、一枚、一枚」
 鍬次郎はのっそりと立ち上がった。ピエールにとって、どうやら侍の格好の鍬次郎は珍しいらしい。写真に収めたいと言って来た。
 長崎奉行所・西屋敷。上級者向けに新たに作られた屋敷だ。撮るはあっても、撮られる経験はない。緊張して丁寧に髪を直すも、ボサ頭のまま、鍬次郎は仁王立ちしていた。
「何か足りないな」少し片言の日本語で、ピエール・ロシエは続けた。
「刀や。刀がないやんか。侍っちゅーたら刀やろ、な? 刀どこさいったねん」
 どこの国の言葉か、もはや分からないごちゃ混ぜ具合も構わず、詰め寄った。
 異人の迫力ある顔を近づけられて、鍬次郎は飛び退いた。
(目ん玉ぁ青いで! ベルより青い! 妖怪の目して、己、見んな! こわ!)
「くわ。刀が欲しい。刀差せ」
 鍬次郎はしぶしぶ刀を机の下から取り出した。彦馬がオンボロにしたが、帯刀はしている。しかし、引き抜くと牛臭いので、飾り刀にするしかない。
(あの、長崎の鬼! 大切な刀を! 見る度、こう、腹が沸々と……)
 ピエールに事情を話すつもりはない。知らんぷりして、腰に差した。
 ところで、鬼こと彦馬が苛々しながらやって来た。
「やっとれん。蘭学蘭学蘭学……やかましか!」いつもの愚痴を引っさげて扉が開いた。
(鬼と妖怪が揃いよったで……)
「オーゥ。アイラブヤ~」とニヤニヤ声で挨拶して、抱擁(ほうよう)を「NO!」と断った後、「何しとるん?」と首を傾げて見せた。
「……おまえ知ってて黙っとったな! アイラブヤは封印や、封印!」
「ええやん。だっこされとけ。あ、それ、おなごに使ってみぃや。叩かれるで~」
 見知らぬ異人でも、彦馬は気にしない性質だ。元々長崎育ちの彦馬に、恐れるモノはない。唐人屋敷に通い詰めては頬に手形をつけて、平然と帰る。あほんだらである。
「写真の先生が勝手に来たとヨハネスに聞いた。おまえさんがそうか?」
「おまえさんがひこか」ピエールがつられた。
「せや。ひこ。ひこまや。なんやハタ大会で負けてもた。彦ではなく「HIKOMA」にしたんがあかんかったわ」
 全く関係のない話をして、どかっと椅子に座った。
「おまえさん、有名な写真家やて? で、鍬次郎。おまえさんは何をしとる」
「一枚撮らせて貰おうと思ってね。刀がないねって話を」
 彦馬は「ほんまやなぁ」とまじまじ見て、「あ」と視線をどこかへやった。
「鍬、吾返したやん。刀」
「ボロボロにしよってな! 牛臭くて抜けるか!……なあ、それ、何ですか」
 実は気になっていた。ピエールの持ち出した写真機は見た覚えがなかった。まず、銀板を入れる場所がない。並べられた薬品も小振りの物ばかりで、缶ではなく、瓶だ。
「湿板でも、乾板でもなさそうな……己ら、湿板と乾板の研究しとって。あ、ええと。『感光材料の一種で、ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布した無色透明のガラス板を硝酸銀溶液に浸したものである。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガを得る』同じとは思えないですが」
 ピエールは大きく頷いた。
「よく学んでいるが、きみは〝頭でっかち丸〟だ。規則も、方法も大切だが、効率が悪い。コロジオン湿板は、すぐに消えてしまう。……そこのひこ、は分かっているようだが」
 ……あたまでっかち丸……鍬次郎は食いついた。
「同じ薬品、同じ写真機を使ってて」
「それが良くない。写真は生きる。現在を未来に生かすために世界の研究者が、指先を荒らして、日々考えている。では、きみはどうしてベルを遺せた?」
 ピエールは厳しい目になった。後で素早くにんまりした。
「心だ。ハートだよ。遺したいと思う気持ちが写真を美しく」
「つまり、薬品の漬け方やろ。あんま、吾の友人苛めンといてや。軍医。短期だと聞いた。徹底的に教えてや。吾の試験は合格やん。鍬次郎に簡単に教える軍医、面白くなか。でも、気乗りせん。明日からにしよ。吾(おれ)、帰る。朱里が待っとるしな」
 彦馬はするりと部屋を出て行った。
「まるで凧のようだ。凧少年や」呟いて、ヨダレが出そうなほど、写真機を見詰めている鍬次郎に気付いた。
「鍬次郎と言ったか。この写真機を使ってみたい?」
(ピカピカやぁ……シンプルで……銀板、要らんのか、ふうん)
「だが、駄目だ。これは僕の恋人で、僕にしか扱えない。大切な機具とはそういう物だ。大切な機具を持ってして、大切な何かを撮る。まずは、そこから見直したほうがいい。ベルは良く撮れていたよ」
 ――ピエールの言葉は一風変わっていて、大切、の語句が多い。
(そや。ベルん時は、もの凄く撮りたくて、おまえがここにいたと証明したくて、がむしゃらやった。ヨハネスの機具を己の色に染めんとあかん。そう言いたいのか?)
 己だけの写真機……無理やろ。和蘭陀の実験用具の値段は、目が飛び出ると聞く。
 でも、己、舎密やりたい。願ってるのに、あかんのか?
 しょんぼりとして、奉行所に戻った。

❀❀❀

 鍬次郎に手紙が届いていた。部屋の畳に洗濯物と一緒に置いてあった。
「手紙……誰やろ」
 お母ちゃんの季節便はもう届いている。親父からの言葉はなかったが、津の皆で応援しとると書かれていた。ついでに油を無駄にするなと。
 でかい字で「鍬次郎へ告ぐ! 緊急!」よくもこんな宛名で届くものだと、鍬次郎は小刀を手に、机に向かった。
(この字……和泉守様からや! 緊急やて? なんや。誰かおっ死んだか、離縁か)
 折られた糊付け部分を切ると、屏風(びょうぶ)折(おり)になっていた手紙が開いた。
『鍬次郎へ。あほんだら。おねだりは、武士らしく膝をついてやれ! どうしてもと言うなら、津国の地ィ踏んでもええ。高いモンねだりよって! 元気か?』
 以上。――なんだ、これ。ゴミか。ごみやな。
 鍬次郎は首を傾げて、廊下の屑籠に捨てた。畳に落ち着くと、おばさんが「またゴミ増やしよって!」とぷりぷりしながら籠を持ち上げている音。
 ガサガサと籠から箱にゴミを移している音が響く。
(ん? おねだり? 己、何かねだったか? ……油は届いておるし、支援金も貰った。母ちゃんからの着物も……)
 畳に寝転んで、「あれ、欲しいわ~」とピエールに燦々(さんさん)見せびらかされた写真機を思い浮かべた。彦馬は手にできる気がする。長崎蘭学のお医者様の息子だ。
 ――己、誰より勉強したい。環境を整えてからやて? これだから和蘭陀人は。
 廊下でおばさんがゴミ回収のための箱を開けている。
 なにか忘れておる。畳に引っ繰り返ったまま、腕を伸ばして、文箱を引き寄せた。んーと起き上がって胡座になって、腕を組んで眉をしかめた。
(何やっけ? ……おねだり、の言葉が引っかかる)
『ここは、津のお金持ちに、頼ろう。己の兵器の知識と引き替えだ――。
(津の国は先進文化に理解がある。和泉守樣も、きっと工面して貰えるだろう。あの津のおっさんが面白がりそうな話ではある)』
「あああああああ! ばあさん! それ、それ捨てんといて!」
 廊下のマクワウリのようなケツを見せたばあさんが、「何じゃね」と振り返った。
「鍬次郎! あんな! 散らかされると片付かん! 特に奉行所の面々は男ばかりで」
「説教は聞きます! その手紙! え? 濡れてもた? いいです! すいません!」
(お、己、既におねだり文面書いてほったらかしとった! どうしても新しい機具が欲しくて。上級に上がるんやしと! そんでほかしておったって? 今頃返事くれる和泉守様も和泉守様だ。でも、これは神様が寄越した好機やんか!)
 ――和泉守様、おねだりは、武士らしく膝をついてやれ? 今すぐ土下座したるで!
 喧嘩調子の手紙をひっつかんで、冷たい廊下を走り抜けた。「お?」と洗濯物を抱えた八沢を突き飛ばし、長崎奉行所の奥座敷に飛び込んだ。
 毅然(きぜん)と背筋を伸ばし、仕事をしていた駿河守の鋭い眦(まなじり)が向いた。
「……堀江鍬次郎。そなたはどうしても、田舎の山の追いかけっこ癖が抜けない。ヨハネスも言っているぞ。上級舎密室を猿のようにかけずり回る」
「津国への、帰国許可を! ハァハァゼェゼェ……ちゃんと、伝習には戻り……ハァハァゼェゼェ……」
 駿河守は無言で水を差し出した。喉を鳴らして、まだゼイゼイする胸を押さえた。
「何だ、不幸か何かか。友が酒の飲み過ぎで、コロリにでも罹ったか」
「どうしても、欲しいもんがあるんです! 多分、膝をつかないと許してもらえない」
「異国人との婚姻は認められん。和蘭陀人は難しい。諦めろ」
(ちゃうわ! あほんだら!)と怒鳴りたい気持ちと、焦りが鍬次郎を交互に襲った。
「己、舎密やっとるの、知ってますよね? どうしても、どぅぉしても欲しいモンがあるんです。和泉守様から返事が来たんですが、『何考えてるんや! 欲しいモンはこっち来て言え!』という腐れ文面で」
「上級舎密を学んだ男が雲隠れ。そなたは自分の情報量を甘く見ている。我が国の、中央ですら知らん技術を手にしている。おのれ、兵器学も取っていたな」
「つまり、己は生きた情報の爆弾っちゅーことですか」
 駿河守はゆっくりと立ち上がった。
「津には今不穏(ふおん)な動きがある。和泉守殿の縁(ゆかり)だから、おまえを長崎に遺せると思った。最新兵器の情報を渡せば作れてしまう者も出る。国によっては、逆らう面々もおるだろう。それでは、中央の公儀(こうぎ)様(さま)に刃向かうきっかけを長崎は作ったという話になるまいか?」
 長崎に来て、二年。駿河守の本心を初めて聞いた。
(でも、己は写真機が欲しい。薬品も。和泉守様に会えさえすれば)
「危険は冒(おか)せん。奉行所で用立ててもよいぞ」
「では、写真機と、コロジオン薬品に、鶏卵紙(うらんし)、それから」
 高級なおねだりの数々に、駿河守の目が弾けんばかりになった。
 綺麗な足袋の足裏が見えた。(お)と思うより早く、部屋を蹴り出された。
 障子を閉める前に、駿河守はばしっと言い殴った。
「津の飲んだくれに相談しろ! ただし、ヨハネス軍医に許可を得て、ちゃんと書類も書く! 尚、和泉守に逢うまでに、情報の機密(きみつ)漏洩(ろうえい)をすれば、中央に送る。伝習生と吹聴するな。それから、上野彦馬と行動を共にする。以上を護れ!」
 ピシャンと仕舞った障子に鍬次郎は深く頭を下げた。
 津に行きさえすれば、新しい機具を買って貰える。ついでに、友人の……うん、友人の彦馬に、育った地を見せてやれる。山と海に囲まれた津国を思い返すと、郷愁の懐かしさが胸に広がり始める。彦馬は何と言うだろう?
 ――己はふんぞり返って、機具を貸してあげるんや。で、彦馬は「へへえ」と跪く。有り得ないが、己の宝物、彦馬には見せてもええ。
 津国は、もうすぐ染井吉野が満開の季節だ。大好きな津の春に間に合うだろうか。
 紋白蝶が飛び回り、へ、蛇も顔を出しよる春。
(だから、和泉守神様。大明神様。買うてや、全部な。蛇、要らん!)
 その晩、鍬次郎は興奮からか、なかなか眠れなかった。

❀5❀

「奉行所から聞いていますよ。故郷が恋しくなった、と。心配は要らないでしょう」
 話の根が違っているが、駿河守様は根回しをしてくれた様子だった。
 鍬次郎はヨハネス軍医をきちんと見詰めた。いつだって恩師には背筋を伸ばして向かい合いたい。無力や無知識は補えばいい。心がぐっと育った気がする。
 ヨハネス軍医は、鍬次郎を全面的に信用してくれている。それは和泉守とは違う容だが、これもまた信頼だ。
「必ず、戻って来ます。あの、彦馬は」
「考察を放り出してどこか行きましたよ。あちらはあちらで、悩んでいるようです」
(彦馬が、悩み?)鍬次郎は一瞬ちらっと抱いた疑問を、噛み締めた。
 見れば実験したらしい用具と薬品が置かれたままだ。それも、やり始めようとした散らかしぶり。ほら、好物の饅頭を一口齧っている。
「探してきなさい。一人では気が進まないでしょう」
 ヨハネスの言葉は鍬次郎の背中を押した。

❀❀❀

(探してきなさい。強い口調で言いよる。全く何で己が迷子捜し)
 とは言え、鍬次郎も彦馬には重大な用事がある。津への帰郷の薦(すす)めだ。それも彦馬と一緒であれば帰れる。しかし、こういう時に限って、いつもの場所にいない。
(まさか、唐人屋敷の入れ込んでいる遊女のお付きの娘っこの場所か)
 呆れて歩くうちに、伝習所の裏側まで来てしまった。
 掘っ立て小屋が並んでいる。長屋の印象の強い藁葺き(わらぶき)屋根(やね)は、全部で七つ。藁が積んであり、これ以上は進めない。
 ――ここには、おらんやろな。首を突き出して、無人を確認するも、引き返した。
(やはり気になる。しかし……うへぇ。藁の山、くっさ。なんでこんな場所)
 もわぁと匂い立つ藁の山を越えると、見慣れたふわふわ髪が揺れていた。 彦馬は数年、髪型を変えていない。多すぎる髪を適当に縛り上げている長髪の類いだ。「彦馬!」と声を掛けると、先っぽが藁(わら)箒(ほうき)のように揺れた。
(本当に、おった……己の鼻、犬じゃなかろか)
横顔が見える。涙をじんわり浮かべている。
「……鍬」気がついた彦馬は、ぼんやりと鍬次郎の名を呼んだ。
 彦馬は伝習所の裏庭の掘っ立て小屋の倉庫の前で寄り掛かって、夕陽を見上げていた。
「ひつ(腹)まし(へ)か(った)。戻ろか」と、いつもの口調になった。
 さわさわと、夕暮れの風。影になる彦馬の隣に並んだ。
「一緒に、津国に来んか?」
 彦馬は今までで一番驚いた表情をした後で眉を、つ、と下げた。
(何や、蛇でも見つけたようなカオしよって。己、変なこと言うた?)
「おまえさん、吾と結婚しとると?」
(なんでそんな話に……)脱力している場合ではない。鍬次郎は歓喜で溢れそうな心に、しっかり蓋をした。
「己な、機具を買ってくれと、国の……あー、藤堂の殿様に頭ぁ下げに行くんや。で、おまえもどうかと…思ぅて……」
 声が小さくなった。彦馬の顔が強張っている。理由は分からなかった。
「なんだかんだで、もう二年の付き合いや。ヨハネスから聞いた。悩みって」
「鍬、吾の話、面白くなかと思うよ。でも、聞いてくれんかい。親ンことや。面白い話やないわ」
 言い置いてから、彦馬は目を潤ませ、一気に打ち明けた。
「蘭学やれ強く言われておる。舎密学なんざ必要はないと。写真なんざ、おまえがやらんでも、もっとええ結果を出す人間がおる。だから蘭学やれ。長崎の名士の息子や。世間の目もある。おまえは自由にはなれん……ってな」
「そんなん……」言い返せなかった。
(己も、親父と言い合いして飛び出した口や。己には和泉守様がおったが……彦馬は一人で戦っとる……)
 親の大きさは、鍬次郎も知っている。子にとって、親は神で現実だ。玩具で遊んでいると「しまいなさい」と来る。それでも遊んでいると「貸しなさい」。見つけようとすると隠されてしまう。そのうち、子供は玩具があった事実も忘れて、「これで遊びなさい」と興味のない玩具を無気力に弄くり回すしかなくなる。
 はふ、と息を吐いた彦馬の横顔は、胸を打った。
「己、何を見てたんやろな。長崎生まれはラクでいいと思ってた。すまん、彦馬。己、恥ずかしい人間やな……すまん」
 意味のわからない謝罪を口にして、唇を閉めた。
「ええよ」と彦馬はいつになく愁傷(しゅうしょう)に答えた。
 長崎ののんびりとした夜が迫ってくる。竜胆(りんどう)が足元を擽った。
 会話もなく、時間を見送っているうち、夜がやって来た。
「津って船で行くんかい。ちゃんと走るんやろね」
「己、ここまで船で来た。揺れるで。頭ぐわんぐわんや。飯なんぞ食えんで」
 差し障りのない会話で、なんとか笑顔を引き出そうと試みる。しかし彦馬は口端は上げても、目は哀しそうな陰影を宿したまま。
「ええで。結婚したるわ」と彦馬流の〝せびらか(からか)し(い)〟が出た時、鍬次郎は、どこかほっとして目を綻ばせるようになっていた。

❀❀❀

 津に戻ると決めると、日々は、あっという間に過ぎて行った。
「ちまちま薬品を足すからやろ。こんくらい、入れてまえ」
「おまえ! またヨハネスに怒鳴られるやろが! え? でも、こんくらいで丁度ええ?」
「ほれ見ィ。饅頭貰うで~」
 彦馬にはあの日の影は見当たらず、伝習の内容も知らずと高度化していた。ピエールに合格点を貰い、ようやく帰郷許可が下りた時には、今年最初の蝦蟇(がま)を見かけた。
「ええ被写体や。蝦蟇撮っと、蝦蟇! しっとりした紫陽花も一緒に撮っと!」
 雨季の季節が訪れるは津より早い。津では恐らく春の終わりを迎えるところである。

しおり