10.モチモチ
セラフィーナの不安は的中していた。<ウィングブーツ>を履いたテロールは、階段の仕掛けを発動させる事なく、スーっと階段を上がってきたのである。
その上にある、“振り子”や“スピア”すらも発動しなかったのを見るや、セラフィーナは躊躇わず、通路の奥に向かって駆けた。
「逃げるとは卑怯ですわっ! 上がれたら戦うと仰ったでしょう!」
「私は『考える』って言っただけよ!」
頭だけを返しながらそう叫んだ。
対魔女用の剣・<マジックイーター>を持つ相手に対し、どうあっても彼女には勝ち目なぞない――斬られれば最後、その時点で魔力を吸いつくされてしまうのである。
「ふふっ、何処に逃げても無駄ですわ!」
ドタドタと駆けるセラフィーナに対し、テロールはまるでスケートをするかのように地表を滑る。
その速度は早く、姿を見失うのは曲がり角に隠れた時ぐらいであった。
「ターンが少し難しいですわね……あら?
これは素敵な絵ですわね――討伐し終えたら、これも頂くことにしますわ」
テロールは壁に掲げられている、“家の絵”に気付いた。
明るい森の中、花に囲まれた庭に黒犬が眠る白い扉の家――何とも落ち着きのある絵が気に入ったようだ。腕を組みながら、これは誰の絵か、部屋にどこに置こうかと思案に耽っている。
そんな絵画鑑賞をしているテロールのすぐ近くの物置では、どっ……どっ……心臓の音を響かせる女、セラフィーナがいた。
入口すぐ横の壁に背をつけた彼女の両手には、“魔法”を込めた新型の<マジック・スフィア>と、旧型に改良を施した<マジック・スフィア>が握られている。
(これが効かなかったら、もうお終いね……)
剣か足、そのどちらかを止められれば、彼女にも勝機がある。
テロールが扉を通過する瞬間が勝負であった。いつからか、ミラリアからの信号が途絶えている。
(きっと侵入者を撃退するのに、一時的に切ったのね……きっと……)
今は『やられた』とは考えたくないようだ。
足音が聞こえないため、声と息遣い……そして、“
背中を這う、ぞわぞわとした感覚に身を委ねる。ゆっくりと近づいてくるそれに、タイミングを見計らい、ぐっと足に力をこめた瞬間――
――フィーちゃんっ、まだです!
突然響いたミラリアの声に、セラフィーナはその足をぐっと踏み留めた。
(姉さんっ……無事だったのね……!)
一瞬の“接続”であったが、確かに姉は無事だった。
セラフィーナは驚きよりも先に、それに胸をなで下ろし、安堵の息を吐いていた。
姉から送られて来た位置情報では、テロールは扉のあるすぐ手前で足を止めている。もしあのまま飛び出していれば、真正面から鉢合わせし、彼女の剣に胸を突き刺されていたことだろう――。
しかし、彼女の“勘”は正しかった。ではどうして急に足を止めたのか? それは、壁越しに聞こえて来た悪態から理解する事ができる。
『ああもうっ、脚が痒くて堪りませんわっ!!』
古いブーツのせいで
(だけど、これで勝機を見出したわよッ! 覚悟なさい、縦ロールッ!)
壁越しにぞわぞわとした感覚が、右から左へ移動してゆくのが分かる。
それが扉を越えた瞬間――セラフィーナは身を翻し、扉から勢いよく飛び出した。
「な、なんですの――ひッ!?」
「隙ありッ!」
テロールは突然の物音に身体をビクりと震わせ、目の前に飛んで来た球体に、反射的に防御姿勢を取ってしまっていた。
だが、は何も起こらない。右手に握られた<マジックイーター>に、水晶玉に込められた“魔法”が吸収されてしまい、力を失ってしまっていたのである。
「痛だ――ッ!?」
重い水晶玉は、テロールの頭にガッとぶつかり、彼女は大きく仰け反った。
“魔法”が効かぬのであれば、物理で殴ればいい。セラフィーナは最初から、<スフィア>に込められた“魔法”が吸収される事を想定していた。
剣に“
仰け反った勢いで、宙に浮いているテロールはバランスを崩してしまい、
「わっ、わわわ、ば、バランスがっ……きゃあぁっ!」
そのまま後ろに、ズデンッと石畳に尻餅をついてしまった。
まともに尻から落ちたせいで、痛そうに顔をしかめている。
「あ痛たた……い、痛いですわ……」
「ふふふ、イイ格好ね〜」
「はっ!? ま、待って、ふぇ、フェアじゃないですわ!」
「待て、と言われて待つ魔女は居ないわよ!」
「ちょ、やめッ……!」
セラフィーナはそう言い放つと、テロールの足下に向けてもう一つの、旧式の<マジック・スフィア>を投げつけた。
テロールは反射的に剣先を向けるも、今度は“魔法”を吸収する素振りも見せず、そのまま彼女の足下で、パリンッと音を立てて割れた。
すると、水の入ったグラスを落としたかのように、その割れた<スフィア>から“白い何か”が大量に飛び散ったのである。
「な、何ですの……っ、べ、ベタベタして……え、」
「ふふふふっ……これで、もう動けないわねぇ。
さぁて、捕まえた“小鳥ちゃん”を、どう料理してあげようかしら」
「あ、足がっ、足が上がりませんわ、ちょ、ちょっとこれ何ですの!?」
「あらあら、お姫様は“トリモチ”をご存じないようね」
「と、“トリモチ”って何ですの!? んっ、んんっー!」
「文字通り、鳥を捕まえる餅状の物よ。あ、お尻動かしたら……」
靴から、膝……顔にまでベッタリと、ネバついた“トリモチ”がテロールに張り付いていた。
それは、モチノキと呼ばれる植物から作られる粘着性の物質であり、鳥や昆虫などを捕える時に使われるものである。
物質を必要とする旧型の<スフィア>の中には、その“トリモチ”が大量に封入されていた。しかも、セラフィーナは旧型を改良しており、新型の様に威力を――“魔法”によって、一人では外せぬほど強力な“粘着性”を持っている。
どうやら<マジックイーター>を持ってしても、物質に込められた“効果の増幅”は吸えないようだ。
そして、もがいた際それが尻の下に流れ込んだらしい。テロールの尻は、完全に地面とくっついてしまっている。
「お、お尻がっ、お尻が離れませんわ!? んんーっ……!」
「あーあ、外そうともがくから……これが本当の、“尻もち”をつくってね。
ちなみにそれ多分、アンタ一人じゃ外せないわよ? どうする?」
どれだけ起き上がろうとしても、足と腰を固定されてしまっては成す術がない。
特にテロールには筋力があまりないため、下半身の力が弱く、ちょっと踏ん張った程度ではビクともしないのである。
その様子に、セラフィーナはイタズラな“魔女の笑み”を浮かべ、足を数歩前に進めた。
「ちょ、ちょっと! 近づいたら、この剣で突き殺しますわよッ!」
「おー怖い怖い。じゃあ近づかないでア・ゲ・ル。
けど、この状況でアンタを助けられるのは私だけ……これがどう言う意味か分かるわよね?」
「ぐっ、わ、わたくしは屈しませんわっ! このようなもの――自力で抜け出してやりますわ!」
「靴と服を脱げば抜け出せるわよ。でも、この廊下には“罠”が仕掛けられてるの。
場所を教えておいてあげるわ、私の後ろと、アンタの後ろにある敷石ね。
一度見たから分かるでしょうけど、あれ人を感知したら『ボンッ』ってなるわ」
「え……?」
テロールは
靴を脱ぐと言う事は、空中闊歩のように楽して歩む事ができず、
それはつまり、どうあっても罠を踏んでしまう――進むも退くもできず、立ち往生するしか道が残されていないのだ。
「その剣を渡して、降伏してくれるなら助けてあげるわよ」
「だ、誰がっ! <メイジマッシャ―>の末裔の私が、“魔女”に屈するなぞ――」
「……<メイジマッシャ―>の末裔? まぁ、別に降伏しなくてもいいわよ。
剣を渡してくれれば、出口までの罠は作動しないようにしてあげる」
「ぐっ……で、ですが……」
「ああ、靴と服は残念だけど置いて行ってね? 助けられる方法はそれしかないから。
でも換えはないから、アンタは下着姿で帰ってちょーだい」
「んなっ!? そのようなこと、わたくしが出来るはずがないですわ!?」
今日は確か少しボロい……と、無意識にそちらの心配をしていた。
「そーでしょうね。仮にも王女さまが、下着姿で森を徘徊していた……なんて噂になったら困るわよね。
しかも、森には盗賊団の下っ端が偵察に来たりしている。捕まったら即縛り首って分かっているならず者に見つかったら、ああ、王女さまは連れ去られてしまった。
まだ見ぬ王子サマのためにとっておいた“初めて”を、薄汚い男に奪われ、人買いに売られ、幸せだったあの頃は夢だった……と、思うような末路が待っているからね」
「なっ!? そ、そんなの――」
芝居じみたセラフィーナの言葉に、テロールは動揺を隠せなかった。
この場所を知ったのは盗賊からの情報であり、その盗賊はこの姉妹に執着している。
……と、すれば、偵察に一人や二人居てもおかしくはない状況だ。
そんな者たち下着姿の女を見れば、それがこの国の王女だと知ればどうなるか――結果は一目瞭然である。
彼女の中である言葉が浮かびあがり、それが広がり始めていた。
「――さて、私は姉さんの様子を見てくるけど、その間じっくり考えなさいな」
セラフィーナはそう告げると、テロールに背を向けながら手をひらひらと振った。
そのテロールの目には、明らかな制止を求める気持ちが浮かんでいる。
どれだけの時間を、こんな場所で待たなければならないのか……そう思うだけで、彼女の胸は“不安”で一杯になった。
「――って」
「ん?」
「待って……」
セラフィーナはゆっくりと振り返ると、テロールは頭を落とし、ガックリとうなだれていた。
「――助けて」
「降伏? 逃げる? ちゃんとその旨を伝えてね。あと剣と」
「う、うぅぅ……こ、降伏しま……すわ。だ、だから助けて……くださいまし……」
完全に心が折れてしまったテロールは、剣の柄を差出しながら降伏を宣言した。