8.黒い影
レゴンの王女が撤退――わずかな供回りと共に、王女が魔女の館から引き返してゆく光景を、じっと物陰から覗いていた者がいた。
フッ……と微笑むや、その者は旧街道を抜け、廃坑道にある“盗賊の隠れ家”に足を踏み入れてゆく。
たいまつが掲げられた坑道は明るいが、光の届かぬ脇道などは、まるで何も見えぬ闇が広がる。その闇の中で、薄汚れた“獣”たちが息を潜めていた。
――物好きな奴だ
“獣”たちの好色の眼を背に、衣擦れの音を立てながら歩み続ける。
次第に道幅が広く、
「おおっ、〔アイリーン〕! やぁっと戻ったか!」
その者の姿にランバーは声を弾ませ、思わず腰を浮かせてしまっていた。
アイリーンと呼ばれた者は、ローブのから細い腕を覗かせながら、焦らすようにゆっくりと、目深に被ったフードをわずかにズラす。
ランバーにはその仕草がたまらない。もう
「ふふっ、そんなに鼻息を荒くしなくても――」
「お前を見て息を荒くしねぇ男はいめぇよ。……で、王女サマは?」
「何も出来ず、すごすごと撤退……。ですが、あの様子ではまたすぐに向かうでしょうね」
「よし、その前に俺たちも向かうぞッ!」
「お待ち下さい。王女は、魔女達をそこまで疲弊させられておりません。
兵を整え、再び……内部の様子を伺ってから挑むべきでございます」
「む、ならそうするか。もうあんな小娘なんざ興味ねぇが……金になるならな」
アイリーンに傍によるよう手を差し伸べると、女は男の膝に腰かけその分厚い胸板に身体を預ける――。ランバーはもう彼女にご執着であった。
その肉付きの良い身体、絹のように滑らかな肌、妖艶に絡みつく舌……どれもが彼の、男が持つ欲望と言う欲望を満足させる。
同時に、セラフィーナへの興味は薄れ、今では金が取れる高級娼婦としか見えていない。
「だが、できんのか? 情けねぇ話だが、俺達でもどうにもならなかったんだぞ」
「問題ありませんわ。あの者たちは魔女の“天敵”を所持しています。
それを上手く使わせてやれば良い――使い方はもう教えてありますから」
「……なるほどな。恐ろしい女だな、魔女ってやつぁ」
「そんな恐ろしい女をその気にさせたのはアナタ、ですよ……ふふっ」
アイリーンはランバーの唇を求め、妖しい笑みを浮かべた。
身体を重ね合わせ、彼女に欲望をぶちまけるたびに男は虜にされてゆく。頭では分かっていても、ランバーにはこの麻薬のような口づけ、女の蜜壺に抗う事はできないでいた。
◆ ◆ ◆
その頃、逃げ帰ったレゴン城では――。
テロールは、灯りの落ちた自室のベッドの上で膝を抱えていた。
“恐怖”はまだ残っているものの、目の前で見た“死”は夢であったかのような、曖昧な物となっている。
今の彼女にあるのは“劣等感”や“怒り”、“羞恥心”である。
(確かにわたくにも落ち度がありますが、あんな言い方をしなくても……)
それは、王である父親に討伐失敗を告げに行った時であった――。
顔を合わせるなり、父はわなわなと怒りで顔を歪めながら、
『お前は一体何を考えているッ!
レゴンの恥を晒し、よくものこのこと帰って来られたものだなッ!』
と、人前にも関わらず、娘をひどく罵り始めたのである。
それまるで、若者のようで、言葉を選べない感情が勝った喋りだった。これまでに見た事もない王の姿に、誰もが目を丸くし、大臣がなだめすかしに必死になるほどである。
確かにそうなってもおかしくはないが、言ってくれるだろうと思っていた『大丈夫だったか』との一言すら言って貰えなかったことに、彼女は酷くショックを受けていた。
そんな鬱々とした気持ちの中で、父のある言葉がずっと繰り返された。
『そのような事だからお前はダメなのだ!
エリックが居て良かった。お前だけでは、この国は任せられん!』
最も聞きたくなかった言葉である。
その言葉が深く突き刺さり、テロールをより追い詰めた。
ただ父親に反抗しているわけではない。年頃になった彼女は、この国の王女としての不安と憂い、焦りが気持ちを荒立たせていたのである。
それを隠そうとすればするほど、己の虚栄心が膨れ上がってゆく――。
(しかし、わたくしも何という失態を犯したのでしょう……)
落ち度は自分にある。思えば、魔女が恥じらいも無く胸を見せた時からだ。
予想にも出来なかった行動に動揺し、後ろに控える男たちの鼻息が、まるで手のつけられない獣のように感じられた。
それが胸の中で燻り続けた事で、その先にもあるだろう罠が、誰も助けてくれないかもしれない思いが、恐ろしくなったのである。
いつか取り返す――と強い意志が芽生えるものの、もう兵士は与えて貰えないだろう。
はぁ……と深いため息を吐くと、着ていたドレスに手をかけスルリと脱いでゆく。
(わたくしも、自信はないわけではありませんが……)
苦労知らず身体を鏡に映す。ハリのある乳房に手をやり、手からこぼれるほどのそれをぐっと持ち上げてみる。
大きさなら圧勝である。が――彼女はどこかに敗北感を抱いていた。
(はぁ……ですが、お父様は一体どうなさったのでしょう。
まるで別人、いやそれを言うならお母様もですわ……若作りも良いですが、もう少し年齢を考えていただかなければ)
母親の部屋を訪ねたテロールは、そのいでたちに目を剥いた。
露出度の高いドレスを着、どこか上気した表情の母は、まるで舞踏会で王子にアピールするかのような姿をしていたのだ。
父親は母親の部屋に籠りっきり、年の離れた弟か妹が出来てもおかしくないような状況である。
――どこかおかしい
テロールはそう感じていた。父母だけでなく、城中の男と女が色めき合っている。
戻って来てからも無事なのは、リュクぐらいである。その辺りの知識がまだ持ち得ていないせいだろう。
彼女は彼に何が起ったのか探らせてみたのだが、
「シントンからやって来た女神官。
そんな人、聞いた事もないですが……」
この日あった事と言えば、彼女が出発してからすぐ、兄の婚約者・ソフィアの国から女神官が使者としてやって来ただけのようだ。
魔女の話をしていたため、確かにシントンからのそれと見て間違いはないだろう。
その女神官は、テロールが持つ小剣の使い方と、何やらブーツを置いて行ったと言う。
もう少しリュクに探らせておきたいが、女の香に惑わされる日も遠くはない。
「ま、わたくしはあの女さえ倒せれば、それでいいですわ」
目にもの見せてやる――そう心に決め、ベッドの上に身体を投げ出した。