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三匹の子豚 分解

 妻の淹れるコーヒーの香りが俺の鼻腔をくすぐる。
 俺はめくれ上がった桃色の鼻面をひくひくと動かしてベッドに身をおこした。
「朝か」
 今日もまた、いつもと変わらぬ一日が始まる。
 一階に下りると、妻は可愛らしい尻尾を見せ付けるようにヒップを揺らしながら、鼻歌まじりに朝食の支度をしている最中だった。
 三歳になる息子のトニオはすでにテーブルについていて、牛乳をかけたコーンシリアルで満たされた朝食用ボウルを小さなスプーンでかき混ぜている。
「食べ物で遊んじゃいかん。ちゃんと食べなさい」
 少し厳しい声を出すが、いつも甘い父親である俺を息子が恐れるわけがない。とがった耳の先を得意げにぴくぴくと動かしてはこちらに笑顔を向けるばかりだ。
 俺は短い腕を精一杯に伸ばして息子の頭をなでてやる。
「幼稚園に遅れるだろう、早く食べちゃいなさい」
「うん、わかった!」
 息子から少し離れた席に座り、灰皿を引き寄せる。目覚めの一服を楽しもうと一本のタバコを口元にくわえれば、妻が慌てたようにパタパタとスリッパを鳴らして駆け寄ってきた。
「ダメよ、あなた、禁煙するんでしょ」
 ぼってりとした唇の間からタバコを取り上げられた俺は、不服を訴えるように鼻をブヒブヒと鳴らす。
「良いじゃないか、な、これを最後の一本にするからさ」
「だ~め、その代わりに、ね」
 柔らかい鼻面を押し付けるように、彼女のキスは俺の唇をふさいだ。こうなってはもう、俺に勝ち目はない。
「分かったよ、じゃあ、もう一服」
 彼女の腰を引き寄せてキスをせがみながら、俺はこの平穏と安寧が永遠に続けば良いと願っていた。

……そう、こんな当たり前の家庭を持つには、俺は少しばかり汚れすぎている。

 産まれが悪かったとしか言いようがない、俺は暗黒街を統括するとある地方マフィアの家に産まれた。
俺が生まれてすぐに父が死んでファミリーの全権は母が執ることになったが、これが大人たちの言うように母の計画の一部だったのか、それとも母が言うように対抗組織とのドンパチによるものなのかは分からない。もっとも当時の俺にとって母は絶対の存在であり、その言葉を疑うことさえ許されていなかったのだから、真相を知りたいとも思わなかったのだが。
俺の上には兄が二人、母は俺たち兄弟に小さいころから特殊な教育を施した。すなわち、人を殺す方法というものを。絵本のかわりに人体の急所図を渡され、子守唄の代わりに銃声を聞いて育った俺たちは、当然のように幼いころから殺しの仕事をさせられた。
 まさか年端も行かない子供が刃物をもって来るとは思わないのだろう、どの殺しもひどく簡単だったことを覚えている。もちろん、こちらの手の内を明かすようなヘマを母がしでかすわけなどなく、殺しの後処理を任された大人がその罪をかぶる。
 だから俺たち兄弟の殺しはいつでも流れ作業のように単純なものであった。
 俺が舌足らずのしゃべりで迷子を演じ、ターゲットに近づく。兄たちは遅れて、弟を探しに来た風を装って現れる。三人が揃ったら、後は隙をみつけたものがターゲットの急所にナイフをそっと差し込むだけ……
 そんな退屈な毎日に転機が訪れたのは十五の時だ。
 兄はすでに十九になっていたのだから、子供であることを利用しての殺しは無理だ。別の仕事を任されるようになっていた。
 そんな兄がある晩、ぎっしりと金のつまったバックを抱えて帰ってきたのだ。
「やっちまった、このままじゃ俺は『マム』に殺される」
 おそらくは取引に使う金を強奪したか、少なくとも人が一人以上死んでいるはずだ。兄が着ている地味な色のパーカーは返り血に染められて真っ赤だった。
「俺はこのまま家を出る。お前たちはどうする?」
 殺しばかりの人生から抜け出すチャンスがあるとしたら、これはこのときをおいて他にはなかっただろう。俺は二つ返事でそれに答え、荷物ももたずに兄たちと家を出た。
 正直に言うなら、殺しが嫌だったわけじゃない。毎日を真っ黒に染めるほどの退屈に耐えかねていただけだ。
 そのころの俺は、ターゲットの急所をうかがい、そこにナイフを刺す、それの繰り返しがこのまま一生続くのだという幻影に悩まされてもいた。
 こうして家を抜け出した後、一番上の兄は持っていた金を綺麗に三等分して俺にもくれた。空港のロビーで短い別れの言葉を交わしたあとは連絡すら取っていない。
 俺は兄がくれた金を元にこの町へたどり着き、工員のバイトをしながら夜学に通った。それもまた退屈な日常だったが、殺しよりはいくぶんマシだった。
 夜、真っ白いシーツに疲れきった身を横たえるたび、俺は神に感謝した。シーツはごわごわしてコインランドリーの安洗剤の匂いがしたが、血の匂いはどこにもなくて快適だった。
 俺は本当は殺しの仕事が嫌いだったんじゃないだろうか、そう思いはじめたのもそのころである。
 その後の俺は夜学を卒業して職を探し、同じ職場にいたポーリーと結婚してトニオが生まれ……退屈だが平穏な日々を送っている。
 ここに不満は何もない。
 俺は扉の横にかけてあった外套に手を伸ばし、愛する妻に声をかけた。
「じゃあ、行ってくるよ」
いつもの手癖でタバコを一本取り出し、唇のあいだにはさむ。
すぐに妻が駆け寄ってきてタバコを取り上げる。
「こら、ダメでしょ」
「ああ、すまない、つい」
「はい、代わりの一服」
 妻の唇が俺の唇の上をなぞった。
「いってらっしゃい、あなた」
「ああ、行ってくるよ」
 俺はタバコの包みを外套のポケットの奥深くに押し込んで家を出た。
 このグリムシティは硫黄の匂いがする街だ。火山地帯が近く、それは国立公園になっている。休日になると息子を連れて遊びに行く定番の遊び場だが、観光客のために整備された入り口近い一角よりも奥に入れば、太古のまま手付かずのだだっ広い原生林が生い茂り、そのあちこちに源泉が湧くような危険な土地である。
 それゆえに地価も低く、物価も安い。なによりもこじんまりとした町であるがゆえに住人は心優しく気さくである。
 俺は家を出てすぐ向かいのコンビニエンスストアに入った。レジ係のウサギのロジーは鼻をヒクヒクさせて俺を出迎えてくれる。
「おお、おはよう」
 いつもどおりの挨拶。このあと、いつものロジーなら顔見知りの気安さというのだろうか、俺が棚の間からランチになるものを探し当てる間をまつためにレジの中に在る小さな椅子に座って新聞など読みはじめるのだが、今日の彼はレジに突っ立ったままであった。
「あのさあ、ピーギー」
 遠慮がちに呼ばれる名前に、俺は笑顔を返す。
「なんだよ、ロジー」
「あんたさあ、オオカミの知り合いがいるのかい?」
「いいや、オオカミなんかに知り合いはいないが? それがどうかしたのかい?」
「こんなものを、あんたにって、今朝早く来たオオカミが置いていったんだが」
長い耳を怯えるように震わせて彼が差し出したのはハンバーガーのバンズだ。ただし、真ん中には何も挟まっておらず、メモが添えられている。
「『おいで、おいで、子豚ちゃん、パンの間にいらっしゃい』? 何だこれ、ふざけてやがる」
バンズを床に叩きつけて横をみれば、ロジーは怯えきったように耳を立てて震えている。
無理もない、善良な草食動物ばかりが暮らす土地ではオオカミなど、映画の中でしかみたことがないという者も多いのだから。
俺はあわれな隣人に向かってとびきりの笑顔を向け、蹄の間に挟んだメモをひらひらとふってみせた。
「思い出したよ、小さいころ住んでいた町でのお隣さんだ」
「オオカミがお隣さん?」
「都会では良くあることさ、幼馴染の、ケンカ友達ってやつさ」
まったくのウソやでたらめを言っているわけじゃない。オオカミたちの縄張りはピッグ・ファミリーのシマとは隣同士で、チンピラ同士の小競り合いならいくらでもあった。
それでも、ウルフ・ファミリーから追っ手をかけられるような理由に思い当たらない。殺しのマシーンとして育てられた三匹の子豚のことはファミリー内でもトップシークレットであり、個人的にウルフの連中とトラブルをおこした事も、ウルフのシマに近づいたことすらないのだから。
「まあ、心配することはないさ」
いつもどおりチョコバーを二本だけ買って、俺はロジーの店を出た。通りを歩く人はみな、グリム駅を目指しているのか東に向かっている。
俺はその流れに逆らって西へ、ロジーの店からワンブロック離れた角を曲がって人通りのない路地に出た。
どこかで狼が遠吠えする声が聞こえたような気がする。
俺はこれからの闘いのためにカロリーを補給しておこうと、チョコバーの包み紙をはがして口の中に放り込んだ。
「冗談じゃない」
背後を取られないようにレンガ製の壁に背中を押し当て、ヤツがあらわれるのをまつ。
程なくして、その男は路地の入り口からゆらりとした足取りで入ってきた。
「よう、子豚ちゃん、俺と仲良くしようじゃないか」
ハグを求めて大きく広げた手が胡散臭い。
この距離でも感じるほど強い獣臭は肉食の動物固有のものだ。灰色の毛に覆われた体にカチッと仕立てられた黒いスーツを着込んで、その姿はまるで死神のようだった。
「あんたの言う仲良くってのは、俺がアンタの胃袋におさまることを言うんだろ、いやだね、そんな仲良くは」
俺の言葉に、オオカミは大きな口をさらに横に広げて嗤った。
「強情な子豚ちゃんだ。兄貴たちはもう少しフレンドリーだったぜ」
固い豚毛が全部逆立つほどの恐怖。
「兄さんたちをどうした?」
「そうだなあ、一匹目の子豚ちゃんに会ったのは、国境をこえた南の国、あいつは大きな農場主になっていたよ。そこで俺は訪ねていって、ドアをノックしてこう言ったのさ」
オオカミは大きな前足でドアを叩く真似をして、いくぶん愛嬌のある裏声を出した。
「子豚ちゃん、子豚ちゃん、ここを開けておくれ、ボクを中に入れておくれ」
それから、何かおもしろいことでも思い出したのだろうか、牙をむき出し身を折って大笑いする。
「子豚ちゃんは怯えきって農場を逃げ回ったあげく、わらの中に隠れやがった。知ってるか、嗤っていうのは良く燃えるんだ、こんがりと焼きあがったお前の兄貴はおいしかったぜ」
「二人目の兄さんは……」
「ああ、血のにおいが忘れられなかったんだろう、傭兵だったな。だが、残念なことに殺し屋が傭兵より弱いなんていうことはないんだ、本当に残念だがな」
オオカミは音を立ててよだれをすすり上げ、舌なめずりした。
「あの子豚ちゃんは良くがんばったほうだと思うぜ、そこらにあったハリエニシダを組んで俺が簡単に入ってこれないようにバリケードを作った。だけど、あんなちゃちなもんじゃ、俺の弾丸は防げなかった、つまりはそういうことさ」
オオカミはスーツの前を広げ、肩にとおしたホルスターを俺に見せ付ける。なにしろ狼のガタイはでかいのだから、大型であるはずの45口径がチャチな玩具みたいに頼りない。
「さて、俺もバカじゃないんで、こんな平和な街中でこれをぶっ放したくはない。どういう意味かわかるか?」
俺はワザとマヌケそうに鼻をブヒブヒ鳴らして答えた。
「さあ、全然わかんないな」
「つまり、大人しく俺に食われてくれればそれでしまいにしてやるってことだよ」
「大人しくしなかったら?」
「さあて、お前のところの息子、あれは小さくて腹いっぱいにはならんが、柔らかくてうまいだろうな。あれから先にいただくか」
「ぐう」
家族あることがばれているなら、コイツを生かしておくのは危険だ。ウルフ・ファミリーのやつらは復讐者となる可能性のある者は残さない、雑草を根こそぎ抜き取るような完全主義者だと聞いたことがある。
 俺は大げさに口元をネチャネチャと鳴らしてヌガー交じりのチョコレートを唾液と混ぜ合わせた。それをヤツの顔めがけて吐きかける。
「うわ、きたねえ!」
 よろめいたヤツの隙を突いて体をあて、ホルスターの中から銃を抜き奪ってやる。それをしりもちついたオオカミの鼻面に突きつけて、俺はブヒブヒと鳴いた。
「形勢逆転だ。俺は兄貴たちのように一筋縄ではいかないぜ」
「なるほど、確かに兄貴たちより賢明だろうな。貧乏でちっぽけだが堅実な家庭を築くってなあ汚れ仕事をやっていた豚野郎にゃあ一番むずかしい事だろうよ、だが、お前はそれをきちんとやってのけた」
「それは褒め言葉か?」
「いや、バカにしてんのさ、普通を望むなんざあ、俺たち汚れたヤツが絶対にやっちゃいけないことだ。お前が普通の幸せなんかのぞまなければ、お前の女房子供は俺に狙われることもなかっただろうさ」
 ゆらり、とオオカミの右手が揺れる幻影が見えた気がしたが、それは現実だった。ヤツのパンチが俺の頬をえぐる。
「ぐうっ」
 トントロをたたき出されるような衝撃によろめいて俺は膝をつく。昔ならこのくらいのパンチなど触れさせもしなかったのに、戦いから離れて長い体は余計な肉をまとってすっかりなまっている。
 俺の手から銃が落ちて、石畳の上を滑った。
「くそっ!」
 慌てて伸ばした蹄はオオカミの大きな肉球に踏みつけられて動かない。
 ヤツはワザとみたいにゆっくりと腰をかがめて自分の銃を拾い、銃口を俺の眉間に押し当てた。
「形勢逆転ってかぁ、へへへ」
 ヤツが安全装置に指をかけるから、俺は死神の舌打ちに似たその音が聞こえないように耳をふさぐ。
 ところがヤツは、安全装置を外そうとはせずにニヤリと笑った。
「確かにお前は兄貴たちよりはおもしろい玩具になりそうだ。おい、少し遊んでくれよ」
「嫌だといったら?」
「いや、お前は断れないね。なぜなら、お前が俺と遊んでくれている間は、俺はお前の家族には手を出さない、約束しよう」
「ふん、オオカミなんかの言うことが信用できるか」
「わかってないな、オオカミってのは残虐だが誠実な生き物だ、ウソはつかねえよ」
 ヤツは銃口を下ろし、余裕を含んでいるように口の端を持ち上げた。
「いまから十数えたらゲームスタートだ」
「要するに鬼ごっこってわけか」
「察しがいいな」
 ヤツがカウントを始めようと口を開くから、俺ははじかれたように走り出した。
 少しでも家から離れたところへ……何としてもポリーとトニオだけは守ってやらねば。
――ああ、ポリー、こんなことなら愛さなければ良かった
 膝が震えるせいでひどく走りにくい。武者震いというものが本当に在るのだと、俺はこのとき初めて知った。
 目指すはグリム国立公園、あそこなら誰にも知られずこのオオカミを葬るのにちょうどいい……

 グリム公園のだだっ広いエントランス広場に着いたとき、幸いにも俺はまだ生きていた。途中、カブ畑の横でオオカミに捕まりそうにもなったが、辛くも逃げのびてここにいる。
 エントランスの真ん中にシンボルツリーとして植えられた大きなりんごの木を見上げて、俺は少し逡巡する。
 これだけ大きな木なら、俺一人くらいをその梢の中に隠してくれるだろう。しかし、だ、もしもヤツが俺のことをどこかでみているとしたら、木に登って自ら退路をたつなど自殺行為にも等しい。 
「くそっ!」
 あたりを見渡してもヤツの姿は見えない。だが、気配だけははっきりと感じる。
 いまは逆に、ヤツの気配が近くにあってくれることのほうがありがたいのだ。なぜなら、それはヤツが約束どおり俺が生き延びている間は家族に手を出さないという約束を律儀に守っているという証拠であるのだから。
 家族を守るためにも、俺はまだ死ぬわけにいかない。つかれきった体を引きずるようにしてエントランスを駆け抜け、観光コースから外れた原生林へ続く獣道に飛び込む。
「こいこいこいこい、ほおら、お前の好物の子豚ちゃんはここだぞ」
 挑発の言葉を繰り返しながら、どのぐらい走ったのだろうか、俺はすでに四方見渡すばかりにすっくとたつ糸杉しか見えないような森の奥に来ていた。
 誰かが不法投棄したものだろうか、ドラム缶が5本ほど無造作に置かれた小さな空き地の真ん中で俺は立ち止まる。
「やつは?」
耳を澄ますが、糸杉の葉に吸い困れるような静寂しか聞こえない。鼻をヒクつかせればこの辺に良くある温泉の硫黄臭さに混じって獣臭がした。
大丈夫、ヤツはまだ近くにいる。
そう思ってドラム缶にもたれかかった俺の体を、銃弾が掠める。
「!」
俺はとっさに空のドラム缶に飛込み、体を小さく丸めた。底の方は少しだけたまった雨水で汚れていたが、気にしている場合じゃない。
「ぶひっ」
 どうしても漏れる鼻息を押さえるように歯を食いしばり、体を大きく横に引き倒す。ドラム缶は俺の体重に耐えかねてゴトンと音をたてて地面に横たわった。
「それで、どうするつもりなんだい、子豚ちゃん!」
 森のなかから燻し出されたのだろうか、ヤツの声はすぐ近くできこえた。
「こうするのさ!」
 俺はドラム缶に入ったまま、少し斜面になった獣道を転がりはじめた。
 オオカミの笑い声が追ってくる。
「なるほど、良い手だ。しかし、どこまで逃げ切れるかねえ」
 オオカミの言うとおりだ。斜面の下はひどい沼地で、ドラム缶はズクンと湿った音を立てて転がることをやめた。
 俺はドラム缶から這い出してオオカミをにらみつける。
「こいよ、銃なんか捨ててさ、それともアンタは、たかが子豚ちゃんごときが怖いのか?」
 俺の言葉にオオカミは銃を傍らに投げ捨て、沼地に足を踏み込んだ。
「バカか、自分の昼飯を怖がるわけがないだろ」
「そうか、そりゃあけっこう」
 もとよりナイフでの暗殺を前提に育てられた俺は、銃撃戦よりもこうした肉弾戦を得意としている。足元は暖かい温泉の湧く沼で足場は悪いが、これはオオカミだって同じ条件なのだからハンデにはならない。
 俺は一歩を踏み出して、重たい自重を一気に相手の間合いの中に叩き込む。
「うお!」
 不意をつかれた狼はよろけたが、その声はひどくうれしそうに聞こえた。
「やるじゃねえか、子豚ちゃん」
「ふん、オオカミを相手にしようって言うんだ、捨て身で行くからな」
「賢明」
「さて、戦いの前に聞かせてくれ、あんたを雇って、俺たち兄弟のところに寄越したのは誰だ?」
「お、それを聞いても大丈夫なのか? たぶん心がぽっきり行っちゃうぜ?」
「どうかな、なんとなく予想はついてるんだよ」
「じゃあ教えてやるよ、俺を雇ったのは『ピッグ・マム』だ」
「ふん、やっぱりお袋か」
「さあ、黒幕がわかってすっきりしたところで、死んでもらおうかな」
 オオカミは生ぬるい水を踏み分けて俺に近づく。もしも彼が用心深い性格ならば足の動きとはまったく関係ない周期でコポコポと浮かぶ泡に気づいたかもしれない。しかし彼は、自分の勝利を信じきって慢心していた。
「さあ、覚悟しろよ、この豚……」
 俺の胸倉に大きな爪が食い込んだその瞬間、彼の足元から間欠泉が吹き出した。
「う……」
 それに続くべき悲鳴さえ失って、オオカミは地球の内側にこもる熱気をたっぷりと含んだ蒸気にまかれて悶えた。
「オオカミのスープってわけだな」
 俺は蒸気を避けるように身を引いたが、それはほんの一時の延命に過ぎないと分かっている。なぜなら蒸気に悶えたオオカミの爪は俺の体を引っ掻き回し、内臓がこぼれるほど俺の腹を切り裂いてしまったのだから。
 それでも俺は、愛する家族を脅かす恐ろしい生き物の死を見届けなくては、安心して死ぬこともできない。
 オオカミは間違いなく、吹き出したばかりの熱湯の中に突っ伏すように浮かんで息絶えていた。
 俺は腹を抱えて沼の中に膝をつく。出欠はひどく、すでに目の前が霞み始めている。
 ポケットに手を入れて、俺はタバコのパッケージを引っ張り出した。禁煙しろとおこるポーリーの顔が思い浮かんだが、俺は幻覚の中に浮かぶ彼女にウインクを投げる。
「ゆるしてくれよ、どうせこれが最後の一本だ」
 タバコをくわえ、ライターを鳴らすが、沼地の湿気をたっぷりと吸ったせいか小さな火花がむなしく散るばかりで火などつくわけがない。
「ち」
 唇の上に妻の唇のぬくもりが蘇ってくる、それだけが、死に行く俺にはただ悲しい。
 俺は最後の力を振り絞って、火のつかないライターを遠く、遠くへと投げ捨てたのだった。

しおり