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日常





「あ、」
「どうしたんすか」
「何、どしたの想ちゃん?嫌な予感しかしないんだけど」

夜叉屯所一階。事務室や執務室等、組織内の主要な施設が集う最下層のその場所も、夕焼けで朱に染まる時刻を迎えた。
防衛の為か、そもそもの構造か。天上が高く非常に入り組んだ、されど木造の趣きがあるその廊下は、部屋から部屋へ、正規の客人に必ず案内役を必要とする程の広さを誇る。その構成が四階まで積み上げられ、隊士達の自室や談話室等を兼ね備えており、日々隊士達が任務と生活を営むのに申し分ない設備が揃っている。
日々この建物で寝起きする三人にとっては、既に目を瞑っても歩きまわれる程に知れた庭。
その筈だが、一角に呆然と立ち尽くすと忙しく懐を漁る山査子 想(さんざし そう)の姿を眺めながら、二人は次の言葉をせがむ。

「何?今度は何を失くしたの?」
「失くしたって断言するなよ!……失くしたんだけど」
「またっすかぁ?ほら、早く総隊長に謝ってきて下さいよ。俺ら先に飯行ってますよ」
「待って、待って待って」

あまりにも必死な姿に、二人は最早呆れ顔を隠そうともせず早く夕食にありつきたいと想を急かす。
和やかで在り来たりな風景は、青ざめる想の言葉で唐突な終わりを告げた。

「……業務報告書、失くした」
「は?」
「提出したんじゃないの」
「し、してない。何処に置いたかも、わかんない」
「はああ?」
「どうするの、もう時雨総隊長、自室にいらっしゃる時間だよ!?」
「ご、ごめん、一緒に探して」
「もー、想ちゃんは!そんな事で大丈夫なの?さっき仕事全部終わったって言ったじゃない」
「もう何度目なんですか。物忘れを失くす術とか、有るなら訓練したらどうですか?俺はそんな術聞いた事無いですけど」

方や驚き、方や呆れ。
がみがみと、普段のどこか日和見な喋り方をかなぐり捨てて想に怒鳴り散らすのは、特務唯一の女性隊員、白乃 彼方(しらの かなた)。
耳元を擽る薄茶色の髪が彼女の動きに合わせて揺れ、入隊時に和風、洋風を選ぶ事が出来る隊服を自身で仕立て直しており、和服の隊服を元にした軽装に女性らしい飾りを幾つかあしらえている。
首を振りながら明後日の方向に嘆くのは、組織内最年少の天原 蘇芳(あまばら すおう)。
此方も和服を元にした隊服を襷掛けにし、
日頃想の物忘れの犠牲になる回数が最も多い二人。すでに慣れっこではあるものの、慣れっこだからこそ怒鳴らずに、呆れずにはいられないのだ。

「ほんと、ほんっとにごめん。一緒に探して。ラーメン、奢る!」

こうして三人の夕飯は暫しお預けとなり、数分前に背にした事務室へと引き返す羽目になる。





中央都市防衛組織「夜叉」。政府直属のその組織は現在、二十数名の隊士達で成され、この屯所で集団生活を送っている。
三人が所属する、自警や戦闘、要人警護や暴徒鎮圧を目的とした特別任務執行部、通称特務。
他、防衛部、医療部、事務部と四つの部署から成り立つ。
各部署事に「役持ち」と呼ばれる、素行や実力等を加味した上で選出された隊長が設定されており、各隊長は毎日の業務後に、業務報告書の提出が義務付けられていた。


「ほんとに、本当に信じらんないよ。業務報告書無くすの、これでもう何回目?私達が想ちゃんの探し物手伝うのは何回目?」
「返す言葉も御座いません……」
「そんな事で大丈夫なんですか。役持ち、代わって貰ったらどうっすか」
「え」

事務所の書類を引っ繰り返していた蘇芳の言葉に、想の動きが思わず固まった。
最年少の割に不躾なこの青年蘇芳は、日頃はもう少し行儀が良い。どこか楽しそうに無遠慮な様子は朝な夕な行動を共にする想への信頼の裏返しだ。
続く彼方も、にやにやと楽しそうに続ける。彼女は軽やかに数歩跳ねると、それ良いかもね想ちゃん、と続く。

「うんうん、蘇芳くん名案だよ。さすれば想ちゃんも、重責から解放されて、私達の心配ごとも減る。新しい隊長は春さんとか、どう?」
「待って待って待って」
「あぁ良いっすね。俺あの人好きっす。あの人は書類を無くすとかまず無いでしょうし」
「春さんは事務隊長だろ、確かに失くす癖はまずい、でも心を入れ替えて直すから!降格は勘弁!」
「えっ、誰か降格するの?」
「想さんついに降格ですかぁ?」
「名指しやめて欲しいし降格しないから!」

事務所に新しい影が二つ、立ち入る。
眼鏡姿の女性、三十木(みそぎ) ほのかはきょとんと目を丸めた。傾げた小首と共に頬に掛かる栗色の髪。大人しく真面目で冗談がいまいち通じない彼女らしい言動。
その後ろ、間延びした喋り方で悪戯っぽく笑う、藍原 灯華(あいはら とうか)の姿もあった。此方は冗談を早々に察して長く緩やかに波打つ黒髪を揺らし、彼方、蘇芳と笑い合っている。
事務部所属の二人は既に終業時間を間近に控えている様子で、三人の様な揃いの隊服ではなく身軽でいてそれぞれらしい私服に変わっていた。これから遊びに出掛ける所なのだろう。
三人によって捲り歩かれた書類を見て何かを察したのか、ほのかが自らの机に座ると、小さな懐中時計を取り出して苦笑する。

「もしかして。また報告書無くした?」
「う……はい」
「ええっ、想さん今月で何回目ですかぁ?」
「三回目です……」
「再発行は構わないし私が処理できるけども、流石に三回目となると斑目隊長に許可だけはとって欲しいな」
「解りました……あの、いつもほんとに申し訳ないです、ほのかさん」
「発行自体は手間じゃないから大丈夫だよ。発行許可さえ下りれば作れるから。そんな顔しないで、想くん。ほら、まだ事務部の定時までギリギリ時間あるから、三人で隊長探しておいで」
「あぁ、斑目隊長ならきっと医療部に顔を出してると思いますよぉ。いってらっしゃーいっ」
「よし想ちゃん、医療部だって!早く行こ行こ!」
「お手間掛けますね、うちの隊長が」

白銀の懐中時計を撫でるほのかと、ひらひらと手を振る灯華に見送られて。三人はバタバタと医療部へ駆けて行く。
残された灯華はちらりとほのかを見て、微笑んだ。

「引き受けちゃっていいんですかぁほのかさん。限定お菓子の販売、間に合わなくなっちゃいますよ?」
「いいの。あの子達は前線に立ってて、忙しいから仕方ないよ」
「ふふふ、ほのかさんは優しいなぁ」
「灯華ちゃんこそいいの?あそこのお菓子、食べたいって言ってたのはほのかちゃんじゃない」
「灯華はほのかさんとお茶が出来れば、ついでに美味しいお菓子を食べられるなら何でもいいですよぉ」
「そっか、ありがとう。……オリちゃんも、来れたら良かったのにね」

女性にしてはやや低めの声が、寂しげにぽつりと零す。灯華はそれを見て、ぱっと花の様に笑って見せた。

「お土産、買っていってあげましょう?唯の風邪だって話ですし、きっとすぐ良くなりますよ!」





「あれ、どうなさいました?」

医療部までの道をばたばたと走る三人に、正面からやってきた優男がもう終業ではないのですか、声をかける。
医療部の制服に身を包んだ背の高い、線の細い男。廊下は走っちゃ駄目ですよと、ついでの様に三人を諭すのは、特務と医療部を掛け持つ千賀 東里(ちが とうり)だ。自分達より幾らか年上の彼の言葉に、三人は其々に足を止めて目礼をする。

「すいません東里さん、春さん見掛けませんでしたか?」
「斑目隊長ですか?総隊長の部屋に業務報告書を提出に行くと言っていましたよ。……もしかして。また無くしちゃいましたか」
「う、はい、そうなんです」
「あーあ。間に合わなかったかー」
「じゃあ俺と彼方さんは先に飯食ってるんで」
「あー、待って待って置いてかないで!どうしよう!」

頭を抱える想の姿に笑いながら、東里は腰に下げていた小物入れから金平糖の詰まった瓶を取り出し、三人に一粒ずつ与える。

「はい、今日もお疲れ様です」
「わあ、ありがとうございます!東里さん!」
「いいえ。今し方一夜くんと医療部室から出掛けたので、追いかければまだ間に合うかと。廊下を走るのは今日だけ見逃し、ですね」
「うわ一夜さんと……あ、いや、東里さんほんっと、ありがとうございます!」
「はは。あ、蘇芳くん、彼方さん。今日は僕と夜番ですよ、宜しくお願いしますね」
「うっす、宜しくお願いします」
「宜しくお願いします。東里さんと一緒なら何かあっても安心ですね!」
「何も無いのが一番ですよ」

ほら、急いでと三人を急かす東里に一度頭を下げ、今度は総隊長執務室に走る三人。
ちらりと後ろを振り返った想は、東里が自分達が走って来た道を歩いているの姿、細い背中を見て、小声で二人に問いかける。
いつでも笑みを湛えた柔和な東里は、医療部に所属すると共に彼らと同じ特務にも在籍しており、腕も確かな筈。

「なあ。あの人と俺、一緒に夜番も手合わせもした事無いんだけど。強いの?」
「めちゃくちゃ強いっすよ。今日みたいなゴロツキの鎮圧に一緒に出た事有るけど、一瞬でお仕舞い。俺眺めてるだけでしたもん」
「そっか、想ちゃんが役持ちになってから東里さんが入隊したんだものね。私何度かご一緒してるけど、すっごい頼りになるよ」
「まじか、へえ……」

腕が立つと知れれば、気になるのが人の性。しかし今は目の前の問題の解決が先だ。





「はあ?まぁた業務報告書失くしたのかよ」
「す、すみませんほんと……!」
「どうどう、一夜くん。解ったよ、僕から三十木さんに発行許可を出しておく。次からは気を付けて」
「俺、コイツの教育係だったんです。最初は俺だって次から気を付けろで済ませましたよ、でも当時から物忘れも遅刻も多いから、だから特務隊長にすんの嫌だったんです!想お前今月で何回目だよ!」

想を指して騒ぎ立てる、医療部隊長の千弥 一夜(せんや いちや)、そしてそれを困り顔で宥める事務部隊長、斑目 春(まだらめ はる)の二人。対象的な二人ではあるものの、共に特務を兼ねる役持ちであり、同僚二人の言葉に更に小さくなる想の姿があった。
運良く総隊長執務室の随分手前で春を見つけたのは良いものの、隣を歩いていた一夜とも当然遭遇した事で、想は想像通り彼の説教を受ける羽目になる。
背丈は男性にしては小柄、長身な春と比べると頭一つ違う。けれど白衣を身に纏うその姿は、確かに医療部を束ねる隊長の風格が有り、札術という特殊な術を使う術師の姿でも有り、想にとっては入隊当初から世話になっている恐ろしい先輩であり。

「三回目ですね……」
「四回目だ馬鹿!」
「まあまあ、いっち落ち着いて?想ちゃんだって失くしたくて失くしてる訳じゃないし」
「彼方お前なあ、お前と蘇芳の今日の勤務が無かった事になるんだぞ。良くヘラヘラしていられるな」
「っえ、それは困る!想ちゃんもっとしっかりして!」
「あーあ、怒られてやんの。まあ事実ですからね」
「ほんっとごめん、ごめんって」
「ほらほら、もうすぐ時間になってしまうよ。総隊長もお忙しいんだ、早く提出してあげよう」
「っあ、そうですね、ほんとお手数お掛けして申し訳ないです!失礼します!」
「こら待て……っ」

説教の次の句から逃げる様に、三人は事務室へ駆けだす。
一夜が隣の春を睨めば、春はにこりと笑い返した。報告書一枚を携える一夜と違い、夜叉で整理された書類の束を抱える春。その膨大な仕事を抱えながらも、彼は長身を曲げる事無く爽やかに笑っている。


「斑目さん、甘過ぎ」
「一夜くんこそ。今日は随分加減していたじゃないか」
「そんな事ないっすよ」
「はは。どうだかなあ。いつもはもっとおっかないと思っていたけど、僕の記憶違いかなあ」
「……人の事言えないでしょアンタ」
「何が?ほら、僕らが先に報告して、時間を稼いであげよう」
「俺はぱっと報告してすぐ部屋で寝ますからね」
「ん?ああ、そうか、今日彼女夜番……痛い痛い、ははは、からかって悪かったって!」





「今日は報告が随分遅くなったな。何か問題でもあったのか?」
「ぅ……、はい、いや問題は特になくて……」

総隊長執務室。他の部屋と違い重厚な作りのその部屋で、緩やかに笑みを浮かべる総隊長、時雨 文嗣(しぐれ ふみつぐ)。彼が肘をつくその眼前で、冷や汗を浮かべ彼から目を逸らす想が居た。両端の彼方と蘇芳は笑いを堪える。
じっと想を見る文嗣は視線こそ穏やかな物の、過去最年少で総隊長となった彼の責任感の強さに由来するであろう鋭さは一夜の比では無い。書類を無くし事務部に再発行の手間を掛け奔走した想は冷や汗をかきながらどうにか言葉を探す。
それを見ていた文嗣がふっと吹きだすと、和やかに笑った。

「悪い悪い。さっき春さんと一夜が来て、春さんからあまり叱ってやるなってやんわり言われたよ。一は真逆の事を言っていたけれど。……二人は、探すのを付き合っていたんだろう、ありがとうな」
「……文さぁん、脅したんすか、人が悪い!」
「それでも失くした物は失くしたんだ。全く、二人を付き合わせて」

すみません!と何度も頭を下げる想に、文嗣は変わらず和やかに笑う。
薄く、程良く筋肉のついた身体を隊服に包んだ彼はまだ年若く雰囲気こそ柔らかいが、隊士達を束ねる総隊長という風格が備わっていた。
わしゃわしゃと自身の黒髪を掻いて、続ける。

「そう謝るな。受理は出来たから問題ない。今後、こういう事態を起こさない様に。お前にこう言うのは何度目だ?……二人にはほれ、コレをやるよ」
「鼈甲飴!ありがとうございます!」
「良いんすか、貰っちゃって」
「飴一つだ、遠慮なく貰っとけ、貰っとけ」
「文さん、俺には無いんですか!?」
「想には無し。お前の所為で二人に手間をかけたんだ。さ、一つはほのかにも渡してくれ。手間をかけたんだろう」
「あああ、飴……」
「……ったく。情けない声上げないで下さいよ。俺の割ってあげますから」
「まじか!有り難う蘇芳、この恩絶対忘れねえ!」
「お前な、特務隊長が飴一つで釣られるなっての……あぁそうだ、彼方。丁度良かった、一つ頼まれてくれないか」
「はい!何でしょうか?」
「身辺警護を頼まれて欲しいんだ」

鼈甲飴に一喜一憂していた三人は、予期していなかった言葉に揃って顔を見合わせる。

「はあ。えっと、でも、私夜番に入ってるので、明日の朝からになりますが……」
「それで構わないよ。明日の朝礼で頼もうと思ってたんだ」
「文さん、何方の警護ですか?俺今日夜番入ってないから、俺がやりますよ。でもそんなお偉いさんが来るなんて連絡――」
「想、仕事の話の時は隊長、な。……お偉いさんという訳ではないんだ。私からの依頼だよ。女性の方が、アレも気が楽だろう」
「……あ、成程」

想は言葉をひっこめ、彼方はすっと背を伸ばす。蘇芳が利き手をぎゅっと握りしめた事に、三人が各々に、僅かに緊張した事に。文嗣は気付いていたのだろうか。
それでも。彼方を見据える目は、その頼み事の重要性を表すには十分すぎる程に。鷹の様な鋭さを持っていた。

「織香の、警護を頼みたいんだ。――どうも、嫌な予感がする」



 




「さっきの話は何」
「起きていたのか」
「私、身辺の警護等付けて貰わなくても大丈夫よ」

三人の退室を見計らった様に、文嗣の背の扉が開いた。
総隊長執務室に通ずる文嗣の自室。そこから出て来たのは、眉を寄せた総副長、朧 織香(おぼろ おりか)の姿だった。
顔色は芳しく無いものの、無表情で文嗣を睨みつけるその瞳は強い光を放つ。

「執務中にぶっ倒れて、大丈夫も何も無いだろう。お前はうちの要なんだ、居ないと困る。せめて体調が悪い間は安静にしていてくれ」
「そうじゃないの。私に警護を付けると言う事は、何かあったのでしょう。そんな時に特務の人員を警護に回すのは駄作だと言いたいの」

ふらつく華奢な身体を引き摺り、先程まで三人が居た文嗣の向かいに立つ。
腰まで伸びる長い黒髪が強調する、どこまでも華奢で儚げな見てくれと性根は対極に在り苛烈。夜叉の月をも焦がす烈火、氷の女王、と陰で呼ばれる怜悧でいて気高い彼女がこう言い出したら聞かない事を、文嗣は良く知っていた。
溜息をついてから、提出されたばかりの医療部の業務報告書を彼女に見せる。

「……何?これのどこがおかしいの?」
「此処」
「――……蜂が侵入していた、これ?」
「纏の防御壁を破って蜂が侵入していた、だ。それも玄関付近でならまだしも、玄関から一番遠い医療部で発見されている」
「何処かの術者が寄越した使い魔と、そういう事ね。であれば尚更、彼女に警護を頼む必要は無いわ」

言い放つ織香の姿に、文嗣は口を閉じる。
音の無い空間。そこに何かを察したのか、暫くして織香は一度目を細めると、静かに口を開いた。

「……わかった。『私が忘れている何か』なのね」
「織香、」
「これ以上探らないわ。先程の報告書も見なかった事にする。身辺警護の話もお受けするわ」
「織香、話を聞け」
「もう文嗣さんに聞く事は無い」
「頼む、お前はこの件に関わるな」

一瞬、振り向き様に零れ落ちそうな程見開かれた瞳。
それから一層きつく睨みつけられた事で、立ち上がった文嗣は織香の腕に伸ばし掛けた手を、彼女に触れる前に止める。

「私は、貴方の言う事を聞くと、そう言っているの。自室に戻るわ。おやすみなさい」

もう文嗣に彼女を止める術は無く、黙って扉が閉まるのを、見送った。


――えっ、それマジで言ってんの?文さんは織香さんの事、大好きっしょ。自覚無い訳?あぁ、やだやだ。――
――嗣。貴方の補佐、私頑張るからね。――


「……そうだった。もう、居ないんだよな」



思い出は残酷な程に、文嗣の心を焼く。伝える術も、取り戻す術も無いままで。
部屋には他に誰の姿も無く、ただ。彼はそこに立ちつ尽くしていた。

しおり