第十話:ドラゴンを洗う方法
目覚めは最悪だった。
「ん……んー……」
息が苦しい。身体全体に感じる強烈な圧迫感に、頬に触れる布団とは違うつるつるとした感覚。
鬱屈とした気分で目を開けたその瞬間、俺の視界いっぱいに入ってきたのは赤色だった。
というか、朱里だった。
一瞬目の前のものが何なのか理解出来ず混乱する俺の耳に、嬉しそうな朱里の鳴き声が入ってくる。そこでようやく俺は、朱里が上に乗っている事を理解した。
「……重い」
まるで覆いかぶさるかのようにのしかかっていた朱里を腕で押しのけ、ベッドの外に落とす。
身を起こす。頭を振って意識を覚醒させ、カレンダーを確認する。
今日の日付の場所には丸が付けられていた。
「……そうか……今日はカヤが休みの日か」
自分でも驚く程に朦朧とした声。
ベッドから落とされた朱里が、俺の方を見上げてきゅーと鳴く。
ここ最近、俺を起こすのはカヤの役割だった。頼りっぱなしだったといえる。
朝早くにうちに来て合鍵を使って入り、朝ごはんを作ってから俺を起こす。俺が朱里に餌をやっている間にそれらを並べ、一緒に朝食を取る。それらを嫌がる様子もなくやってくれるんだから、彼女には頭が上がらない。
そして今日はそんなカヤが休みの日。久しぶりの一人の日だ。
朱里を飼い始めてから初めてカヤが来ない日でもある。
時計を見る。カヤのライフサイクルは定規を引いたかのように規則正しいので、今日までは自ずと朱里の朝食の時間も規則正しかったが、今日の時間はいつもより二時間くらい遅い。それでも、俺が朱里を飼う前に一人暮らししていた時の起床時間はもっと遅かったので大分生活は改善していると言えるだろう。
ベッドの外に脚を下ろす。
朱里が俺の脚に側頭部をこすりつけ、じゃれついてくる。腹が減ったから起こしたのか?
「随分と今日は機嫌がいいな、お前」
「きゅー?」
朱里は俺にべったりだが、ベッドの中まで入ってきたのは初めてだった。
餌が欲しいのか? きらきらとした眼でこちらを見上げてくる朱里にため息をつく。
全く。せっかくの休みの日だというのに……もっと寝かせてくれよ。
「ドラゴンって飲まず食わずでも生きられるんじゃなかったっけか?」
ドラゴンは幻想種最強の存在である。有する魔力や頑丈な鱗、巨大な体躯にそれに準じた膂力。生存能力もそれに比例する。飲まず食わずで数百年生きたドラゴンの伝説も存在していたはずだ。
それを一時的とはいえ、ペットにする機会が来ようとは……まったくもって縁というのは不思議なものだ。
再び深くため息をつき、何気なく朱里に話かける。
「あー。食いたいなら入れ物とフード持ってこいよ。出してやるから」
それは全く他意のない言葉だった。
朱里の眼には確かに知性が見え隠れしているが言葉が通じるとは思っていないし、そもそもドラゴンフードはキッチンの隅の檻の中に積み上げられており、朱里が勝手に食い破ったりしないように檻には閂が掛っている。
ところが、朱里は俺の言葉に一鳴きすると、コミカルな動きで寝室から出ていった。
そして、一分程で戻ってくる。朱里が咥えていたものに、俺は思わず目を剥いた。
それは、朱里専用の器である。俺の前にそれを置くと嬉しそうに鳴き、再び寝室から出ていく。
そんな馬鹿な……。
恐れながらもわくわくする事数分、思った通り――いや、予想外の事に、朱里が布袋を咥えて持ってきた。袋に描かれていたデフォルメされたドラゴンの模様。ドラゴンフードの袋だ。
俺の前に置くと、朱里が尻尾をブンブン振る。
「……マジか……」
記憶を思い起こす。ドラゴンフードの袋を外に出しっぱなしにしていただろうか? いや、していない。そのあたりはカヤが毎日確認しているし、俺もちゃんと片付けるようにしている。
という事は、檻の中から持ってきた?
檻には鍵こそついていないが閂が掛っている。人間ならば簡単に開けられるが、勝手に扉が開いたりはしない。
開けたのか? それを開けたのか?
朱里の顔をじっと見るが、疑問には答えてくれない。当たり前だ。ドラゴンなのだから。
「……仕方ないな……」
持ってきてしまったので餌を上げる事にする。
朱里の置いた袋を開け、ざらざらとドラゴンフードを器に盛る。
朱里が口をつけ始めたのを確認し、キッチンに向かった。
キッチンには誰もいない。当たり前だ、カヤは休みの日なのだから。これでカヤが朱里に請われて檻を開けたという説もなくなった。
キッチンの一角を占領している檻を確認する。特注の檻だ。養殖ドラゴン業者御用達で、幼ドラゴンに破られる類のものではない。
恐る恐る確認するが、檻に破られた気配はない。黒い金属の格子は昨日と同じように輝いていて、閂もきちんと掛っている。傷もない。
檻の中に積み上げられたドラゴンフードの箱は……記憶が正しければ昨日よりも一箱減っていた。
しかしだ。腕を組み考える。
果たして、百歩譲って朱里が閂を開き檻を開けてドラゴンフードの袋を取り出せたとして、用が終わった後に扉を締め閂をかけ直すだろうか?
猫などは扉を開ける事は出来ても閉める事などはしないらしい。開けただけで目的が達成するのでその後の事まで考えがいかないのだとか。
それにそもそも、俺は朱里の前で檻を開けたことはなかったはずだ。多分なかったと思う。
ドラゴンフードを食べ終えたのか朱里が、てこてことこちらに近寄ってくる。もしも朱里がこの檻を見て閂を開ける事を思いついたとするのならば、朱里の知能は俺が考えているよりもずっと高いのかもしれない。
ドラゴンが頭がいいというのは聞いたことはあったが、まだ朱里が生まれてから半月しか経っていないのだ。人とドラゴンを比べるのはどうかと思うが、もしも朱里が人間だったとしても半月じゃそんなことはできないだろう。
俺はしばらく朱里を眺めながら少し悩み……そして全てを放っておくことにした。
別に勝手に食われたら食われたでその分次の食事が減るだけだ。別に俺に害はないし、今更錠前をつけようとも思わない。
まぁカヤが来てみたら相談してみるか……。
水飲み用の器に首をつっこみ水を飲んでいる朱里を眺めながら、戸棚から昨日買っておいたコッペパンを取り出す。味気ないが、夕食はまぁどこかの酒場で取ればでもすればいいだろう。
ぼそぼそしたそれを齧っていると、朱里がこちらを見ているのに気づいた。
「ダメだ。これは人間様の食べ物だ」
「きゅー?」
納得いったのかいかないのか、腹の鳴るような鳴き声を出す朱里。お前、言っとくけどお前の餌の方がずっと高価だからな。俺の粗食の原因の一つは間違いなく朱里だ。貧乏な俺がドラゴンを飼うには人間の生活を削らなければいけないのである。
しかし、と朱里を観察していて気づく。
朱里は今日は尻尾を振りっぱなしだ。一体なんでそんなに機嫌がいいのか。特に昨日の夜何かやった覚えなどはない。
まぁ、ドラゴンの気持ちなんて分かるわけもないが。
「んー、今日の散歩はどうするかなー。面倒だから一日くらいいいか」
毎日街一周とかしてられん。三日に一回は休みにしよう。
散歩の単語を聞き取ったのか、朱里がリードを咥えて持ってくる。散歩しねーっていったんだよ、俺は。
ぐいぐいと押し付けてくる朱里。だが、やる気が出ない。俺はカヤがドラゴン連れ歩くのを楽しんでたから散歩してやっていたのだ。カヤがいたからちょっとだけやる気になっていたのだ。誰がでかいトカゲと二人で散歩したいと思うだろうか。
艷やかな紅の鱗は確かに美しいし、尻尾の先から額の宝石まで、その造形は格好いい。俺が子供だったらとても気に入っていただろう。
だが俺はもう酸いも甘いも噛み分けた成人男性であり、かつて子供の頃に抱いていた憧憬や情熱などはだいぶ前に失っている、宝くじ当たったから仕事につくのをやめたような男である。
ぱたぱた尾を振り続ける朱里を見下ろす。散歩してほしい散歩してほしいとその眼が言っている。一人で行ってこいよ。
と、その時、体表のそこかしこが埃っぽく曇っている事に気づいた。そういえば、朱里の事一回も洗った事なかったな。
水浴びなどもしていないはずだ。
「そうだ……お前、洗ってやるよ」
「きゅー?」
多分洗わなくても死にはしないだろうが、汚れた状態で家にいるのも迷惑だ。散歩よりも手間はかからないだろう……かかるかな。
犬とか猫は水を嫌うと聞いたことがあるが、ドラゴンはどうなのだろうか。犬猫と違ってドラゴンに毛はない。そもそも、幻獣の王だし大丈夫か?
浴室に向かうと、朱里もまたカルガモの雛のように後をついてきた。
さて、どうやって洗うか……水回りの施設は完備している。水の魔石と火の魔石を内蔵しているのでお湯は出るし人間用の石鹸はあるが……まぁ石鹸はいいか。死にはしないだろう、多分。
浴室の外の棚を探る。布かスポンジで擦って洗おうと思ったが、ちょうど新品のたわしがあった。手の平にちょうど収まるくらいのたわしを取り上げ、しげしげと見つめる。
「……まぁ、これでいいか」
ドラゴンだし大丈夫だろ、ドラゴンだし。
ここに至っても朱里は大人しいままだ。大人しく俺の挙動を観察している。
朱里は従順だった。逆にこっちが罪悪感に飲み込まれそうになるが……ドラゴンだしなぁ。
浴室は俺と朱里が入っても十分なスペースがあった。元々ここに住んでいたのは老夫婦だったから、広めに作られているのだろう。
洗い場で朱里を伏せさせ、俺は椅子に座る。
体長百二十センチあまり。体重は三十七キロ。
背中から尾にかけた滑らかな曲線と角、額の宝玉は神秘的で、この国の象徴がドラゴンだと言うのも納得がいく。大きくなったらどうなるのだろうか。
「朱里、目を閉じろ」
「きゅぅ」
朱里がその目をぱちぱちと瞬かせ、言うとおりに目を閉じる。
その挙動に確信する。こいつ、俺の言葉を正確に理解してるな。
もしかしたら、野に放てるのもそう遠くないのかもしれない。
シャワーのヘッドを持ち上げ、朱里に向ける。
魔石を組み込んだシステムは利便性が高い。後はスイッチを押すだけで貯蓄された魔力エネルギーが消費され、自動的にお湯が出てくる。
「暴れるなよ」
俺の言葉に、朱里が微かに喉を鳴らす。
それを合図に、俺はスイッチを押した。
適温のお湯がシャワーヘッドから放出される。
それを、頭を避けて朱里の身体全体にかける。朱里は一瞬身震いさせたが、すぐに大人しくなった。
中腰になり、濡らした体表をたわしでごしごし擦っていく。朱里がぐらぐらと揺れる。しかし構わずにこすり続ける。翼、背中、側面、手、脚、尻尾。腹の側は……まぁいいか。ひっくり返すわけにもいかないだろう。
鱗がお湯に濡れてますます鮮やかになる。曇りがしっかり取れたのか取れてないのかはわからない。
痛いかなと思ったが、思った通り大丈夫だったようだ。嫌がる様子もない朱里を洗うのはまるで何か汚れた家具を整備しているかのような気分だった。
「楽だなー……お前楽だなー」
「……」
「後は食費とか色々減らせれば完璧だったんだが……まぁ、お前に言ってもしょうが無いか……」
だが、犬猫よりもこっちの方が楽だ。世話が楽だ。賢いし、トイレの場所もすぐに覚えた。出費はこっちの方が大きいかもしれないが、面倒な手間を自分でこなすくらいなら俺は、出費の多い楽な方を選ぶ。
一通り擦り終えると、最後にシャワーで満遍なく身体を洗い流す。洗い始めてから洗い終えるまでその間、十分弱。大人しくしていたので、思ったよりも短時間で終わってしまった。
浴室の扉を開き、たわしを片付けると、全身ずぶ濡れになった朱里を丁寧に拭いてやる。
たわしで洗い終えた体表には曇り一つない。傷もついていないようだ。幼くともさすがにドラゴンと言う事か。
全身拭き終えると、ぱんぱんと手を叩いて終了を宣言する。
「終わりだ」
「きゅー?」
朱里が尻尾をふりふりして鳴く。カヤがいたら「可愛い……」と言っていた事だろう。なるほど、愛玩用に飼う者もいるわけだ。幻獣の王の威厳も何もねぇやこいつ。
一仕事終え、大きく伸びをする。
浴室の扉をしめかけたところで、俺は洗い場の床に紅い何かが落ちている事に気づいた。
屈み込み、それを人差し指と親指でつまみ上げる。
それは朱里の鱗だった。大きさは金貨くらいで、厚さは金貨よりもかなり薄い。後ろが透けるくらいに薄い。
「ん? いつ取れたんだ?」
明かりに透かす。紅のそれは光りに透かすとまるで炎のように色が揺らめいて見えた。
たわしで擦ったせいか? いや、だが朱里は全く痛がる様子を見せなかった。という事は自然に取れるものなのだろう、多分。
人間で言う髪の毛みたいなものなのだろう、多分。
朱里を上から眺める。その後に、腹の下に腕を通しひっくり返して全身を眺める。
朱里がばたばたとその短い手足をばたつかせる。それを腹を撫でて落ち着かせる。
全身観察してみたがどこの鱗が取れたのか全然わからなかった。
まぁいいか。問題ないだろ、多分。
……カヤにたわしで洗ったことバレたら怒られるだろうか?