プロローグ
消してしまいたい過去がある。
忘れられない今があった。
なにも言わず抱きあうこと、
すべての今が問いかけてくるようだ。
囁きあう言葉ですらもどかしいほどに愛している。
今を否定しないで――――
痛めつけた身体に答えなどない。
浴室で蹲ったままの由紀恵を松島は抱きしめた。
死ぬことに今などない。
切ることさえ躊躇ったままの発信を切った。そこに答えがある気がする。
死を乗り越える勇気があるなら答えて欲しい。
誰かを愛することさえ忘れた男がいる。
小さな幸せに気づいた。
「バカね」
呟やく言葉に強がりだけが浮かんだ。答え返す言葉を探す松島がいる。
「バカだ」
精一杯の問いかけに由紀恵は気づいてくれるだろうか、松島は考えた。
流れ出た流血さえ喧騒に飲み込まれていく華燭の世界。
すべてを捨てたはずの由紀恵は病んでいた。繰り返すリストカットに答えなどない。希望を持てない女にしか松島は見えないでいた。
由紀恵にとっての過去は性別を捨てることで成り立っていたはずだ。
女として生きていくことは辛い。
掴む傷口から溢れた涙は乾くことがない。
不意な出会いは男同士ではなかったはずだ。
「好き」
何度裏切られても言わずにはいられない女の言葉にしか過ぎないでいた。
青白く蒼白した顔色が悪い。
答え返す言葉を知らないでいる松島は頷くことしかできない。
ただ答え返してやるだけだと分かっていても言葉が出てこないでいた。
抱きかかえた由紀恵の身体は想像いじょうに軽い。
処置室の前で座り込んだ松島は濡れた手を見つめる。
隔たりを持たせることに意味があるのだろうか、
苛立つ着信を切った。
今は誰とも話をしたくはない。
松島は死を美化する風潮がなによりも嫌いであった。
残された時間を悔いるなど無駄だ。臨終の前に騒ぎ立てたとして何ができる。
松島を支える言葉がある。死は精一杯生きた者への勲章だ。
平等に訪れる死でさえ、生き様がある。すべてを平等化する考えを真っ向から否定したい。
「生きろ」
それ以上の言葉が思いつかない。
「生きてくれ」
繰り返す言葉が苛立った。
「すまない」
由紀恵はなにも答えなかった。
街灯に凭れた松島は深く目を閉じた。