―壱―
「ほんとに上手くいくかのぅ!?」
目の前で、時代錯誤な着物を着た幼女が騒いでいる。俺以外聞いていないとはいえ、誰も居ない学校でこんな大声を上げられるのは、流石に愉快な気分ではない。
「大丈夫だから、もうちょっと待っていろ。騒がしくてかなわん」
思わず、自分の半分ほどしかない背丈のコイツの、つやつやとした黒髪を押さえつけそうになるが、すんでのところで安物のスーツから伸びた手を引っ込めていた。
こりゃなんというか、職業病だな。今時分、教師が迂闊に子どもの体に触れようものなら、どんな言いがかりを付けられるかわかったモンじゃない。たとえ軽く頭に置いただけだとしても、セクハラだなんだとあらぬ疑いをかけられるのは目に見えているのだ。
その危機管理が、無意識下までしみ込んでいるのだろう。まったく、嫌な世の中だ。
しかし、そんなこちらの逡巡を、クソ生意気なおガキ様はちょっと曲がった方向に理解したらしい。形の良い唇の端を持ち上げては、にひひ、と底意地の悪い笑みを浮かべてくる。
「……おやおやぁ? 流石のオヌシも、直に触るのは恐ろしいのかえ? くっくっく。別にとって喰いやせんぞ。腹を決めて触ってみればよかろう」
そして尚も「ホレ、ホレ」と、俺に向かってスズメのようにまん丸な頭を押し付けてくる。
「怖くなどあるか。そもそも俺からすれば、お前もその辺の児童も似たようなもんだ。見えるし聞こえるし触れるヤツの、いったい何処を怖がれば良いというんだ」
「なんじゃと! キサマ、よりにもよってこのワシを怖くないと言い張るか!」
どうにも俺の態度が気に入らなかったらしく、八重歯を剥いて怒りを露にする。
「キサマ、このワシを一体誰と心得る。音に聞こえた第一級の学校怪異『トイレの花子さん』とは、このワシのことじゃぞ!」
そうしてこの幼女モドキは、俺以外には誰にも聞こえないその声で高らかに言い放つ。夕暮れの暗がりの中でも、華やかに浮かび上がる赤い着物を纏った体で、プンスカと胸を張るのだった。
あぁ、もぅ……本当に面倒くさい。
§§§§§
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§
状況を確認しよう。
この学校で教鞭をとっている俺は、先日たまたま仕事が片付かず、遅くまで居残ることになってしまった。生徒達の最終下校などとうに過ぎ去り、同僚の教師達すら誰も居なくなった夜遅く。俺は何とか仕事に見切りをつけ、一人残っていた職員室を後にした。
そのまま普通に帰っていれば良いモノを、その時の俺は、つい近道をしようと試みた。
校庭を回り駐車場に抜ける校舎脇を通るより、ここから真っ直ぐ中庭を突っ切ってしまえば、愛車のボロ車まで数分早くたどり着ける。長時間の書類仕事による疲労からいまいち判断力の鈍っていた俺は、そんな日ごろはやらない横着をしようとしてしまった。
つまり、それが運のツキだった。
職員室を出てしばし歩き、一階隅の教職員トイレに差し掛かった時、物陰から小さな人影が飛び出してきた。
驚きは、した。確かに驚いたのだが、それ以前に鈍りまくっていた俺の脳は「こんな時間まで残っているとは、けしからん生徒だ」なんてのんきな判断をしてしまった。
その為、何も考えず。
「何組の生徒だ。こんな時間まで、一体なんの用だ」
などと、今にして思えば全く素っ頓狂な発言をしてしまったのだった。
そしてそれを聞いた人影は、夜の学校で叱られているという状況を意にも介さず、こんな言葉を返してきた。
「オヌシ! 見えるんじゃな? その上聞こえてもおる! おぉ……何たる行幸、何たる奇縁。たまりに溜まった長年の鬱屈を晴らす時じゃ、思う存分怖がると良いぞッ!」
両腕を広げて高らかに言い放った、その思うサマ偉そうな声の主を目にした時、俺は一目散に逃げるべきだった。そうしていれば、その後もワケのわからん不思議な出来事にからまれる事は無かったし、今だってこんなことにつき合わされはしなかった。
だが、その時の俺をどうして責められよう。だってそのときまでの俺は、霊感だの幽霊だのとは一切無縁で生きていたのだ。
夜の学校で行き会ったコイツ。この、赤い着物を着込み腰まである長い黒髪を靡かせながら、時代錯誤な言葉遣いで偉そうな発言を繰り返す、自称『トイレの花子さん』。
こんなマジモンのオバケなどに、よりにもよって自分が関わるなんて……そんなの、予想できるはずが無いではないか。
「その目、よもや全く信じとらんな? よかろう。そういうのも想定済みじゃ。さぁ、コレを見てもまだワシの言葉が信じられぬかや?」
そう言うとコイツは地面から浮かび上がり、そのまま宙を舞いはじめた。あっけにとられた俺は、すぐさまそこらじゅうに手を伸ばし、ワイヤーの類を探してみたのだが、もちろんそんなものは髪の毛一本ほども存在しない。本当に、自力で宙に浮いていたのだ。
その後。ひとしきり俺の周りをふよふよしながら謎の踊りを踊っていたコイツだが、いきなり我に返ると、烈火のごとく怒り始めた。
「なんじゃオヌシ! よう見れば生徒ではないではないか。既に成人しておる者が、何故ワシの姿を見られるのじゃ!?」
そんなのこっちが聞きたい。
コイツの話によると、所謂『学校の怪談』に属する妖怪は、その学校に所属する生徒にしか認識されないものらしい。そして、在学している間だけリアリティのある怪異として認識し、卒業してしまえば、具体的な情報はおのずと忘れていくものなのだそうだ。
生徒でなければ、例えどれだけ長くその学校に居ようともコイツ等を見ることはできないらしい。教師や、その他学校に出入りする多くの大人たちは、コイツ等の声すら知覚することはできないのだ。
だったらどうしてこの俺が? そう叫びたい俺を無視し、コイツはしかし、それはそれで好都合だと言ってきた。生徒ではない立場にいる俺が知覚している事は、きっと何かの意味があるのだろう、と。
そして、非常灯の赤い光に照らされたこのコケシのような妖怪は、俺に向かってこう言った。
「ふむ……オヌシ、このワシに力を貸すが良い。この学校に生きる全ての者たちの為に、ちょっとしたお手伝いをさせてやろうではないか」
そう言い放ったコイツは、あっけにとられたまま、なんとも返せない俺のすねの辺りを蹴りながら、やはりにんまりと嗤うのだった。
「あとコケシは訂正しろ。言うならば『日本人形のように』じゃろうが」
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そのまま、何故か体育館に連れ去られた俺は、改めてこの謎存在と話をした。
そこで交わされたやり取りは、全く持って不毛で、容赦のない罵倒の応酬であったのだが、その辺りはばっさりと省略させてもらう。最初から尊大極まりない態度をとり続けていたコイツと、疲れやらなんやらで、日頃の余裕が予備タンクまで空になった俺とのやり取りだ。
それはもう、ド頭からケンカ腰の会話であった。
「百歩譲って、お前が妖怪だと認めても良いだろう。実際にタネも無く浮かび上がっていたんだからな。だがだからと言って、俺がお前と仲良くやる理由など何処にもない! 何で手助けなんぞせねばならんのだ」
「じゃ~か~ら~! このままだとワシ等も消えてなくなるのッ! そうしたら、この学校はもっともっと荒れ果てることになるんじゃぞ!」
何時の間にやら敷かれていたマットの上で、殴り合い一歩手前の肉体言語を交わしながら。コイツは、自分が抱えている問題点について話をしてきた。
コイツ等妖怪というモノは、誰かに信じられてナンボの存在なのだという。誰か……この場合は生徒達が、学校の妖怪をまことしやかに噂することによって、その存在を保っているのだそうだ。
だが昨今の学生達では、そんな眉唾物のオモシロ生物をマトモに取り合うヤツなどほとんど居ない。となると自動的に、元々おぼろげだったコイツ等は、そのまま朝露のごとく消えてしまう運命なのだという。
「知るかンな事! だったら潔く消えてしまえ。別にお前等みたいな市民税もロクに払ってない存在が居なくなったところで、地球の重みは変わらんだろうがっ」
「こんのクソたわけがッ! ワシ等のように、無意識下で生徒の心のバランスを保っとる存在が居らんようになったらどうなるとおもっとる。ココの生徒は一気に非行に走るぞ? 金○先生の学○崩壊がGT○ってスクール○ォーズまっしぐらじゃ。それでも良いのか、教師びん○ん物語ッ!」
懐かしの熱血教師モノは置いておいて、とにかくこいつの話はこうだった。
学校妖怪と学生達は、基本的に持ちつ持たれつの関係にある。コイツ等を怖がり、恐れ、不可思議な存在を認識することで、子ども達は思春期特有のぶつけ所の無い苛立ちを忘れることが出来るという。
将来への不安や、清廉な心では矛盾まみれに映ってしまう社会への不満を、そんなモノより一層不可解な妖怪を身近に感じることで、緩やかに消化する精神が育まれるらしい。
「かな~り大雑把に噛み砕いたが、つまりはそういうことじゃ。ここ数年、ワシ等の影響はどんどん弱くなってきておる。それに伴い、少しずつ生徒達の心の平穏は乱れてきとるはずじゃ。……ワシ等が居なくなる事がどれだけこの学校の生徒達にとって危険な事か、理解できたかや?」
ココまでのつかみ合いの結果、ハァハァと両肩で息をしつつ、コイツは尚も偉そうにそう言った。そして同じくらい息の上がった俺は、自分がこの時間まで学校に居た理由を思い返すのだった。
確かにここ数年、この学校の風紀は悪化の一途を辿っている。他校を巻き込むような暴力事件や、大掛かりなイジメなどの大問題はまだ無いものの、隠れた喫煙や夜間徘徊など、いずれ大事件に繋がりかねない問題がひっきりなしに起こっている。
俺が今日、大幅な残業を余儀なくさせられたのだって、担当生徒の万引きが発覚し、その対処に追われて通常業務が後回しになってしまったからだった。
この学校は確かに、何時爆発するかわからない爆弾を抱えているような、漠然とした不安に囚われている。そしてそれが、生徒達のなんとも表現し難い鬱屈した心境に起因しているというのもわかっていた。
わかっていても、どうして良いのかわからない問題だった。
熱血なんて言葉とは遠く離れた場所にいる俺だって、生徒達の今を考えないわけじゃない。なるべくなら、のんびり楽しく学校生活を送ってくれれば、それに越した事は無いと思っている。だがその為に何が出来るのか。考えてもわからないまま、日々の仕事に忙殺されているのが現状だったのだ。
そんな俺の葛藤を見抜いたのか……これだけ派手に暴れまわっても、着崩れ一つ起こしていない和服姿の妖怪変化は、手の甲で口の端を拭いながらニカッと嗤う。
そして俺に、その後の日々が一変するような提案をするのだった。
「なればこそ、このワシに手を貸せ。ワシと共に、この学校の生徒達に、学校妖怪のなんたるかを思い出させるのじゃ。そしてこの学び舎に『学校の怪談』を復権させてやろうではないかッ!」