4.⇒カーニバル
明朝早く――厚い霧が立ち込める中、三人は宿を後にした。
宿屋の主人が『嵐が来そうだ』と、言ったためであったが、その言葉通り、空はどんよりと灰色のぶ厚い雲に覆われ始めていたためだ。
昨夜遅くにも雨が降っていたからか、あちこちに大小さまざまな水たまりをできており、それらの水たまりで遊ぶように、《キングクラブ》の子ガニが、元気よくシャカシャカと動き回っていた。
あちこちに散らばるカニの数を数えるように、目線で追い続けていたシェイラは、
(獲りすぎかと思ったけど、まだこんな一杯いたんだ――)
これならまた集めても大丈夫そうだと思うと、無意識に喉をごくりと鳴らしてしまった。
数センチの頃の生態は、普通の陸ガニやサワガニと変わらないため、捕獲は容易だろう。
だが、数年で六十センチほどの大きさにもなると言うそれは、成長と共に獰猛さが現れてくる。手の平サイズほどになると、昆虫から魚から始まり、ネズミなどの小動物……最終的には、人間までも襲い始めるモンスターとなるのである。
食い意地の張ったシェイラに対し、ベルグは『繁殖期とは言え……』と、その異様な数のカニの群れに、怪訝な目を向けていた。
「異常繁殖している可能性があるのか――?」
「もしかすると、この川の増水と関係してるのかもしれねェな。ま、それを調べんのがお上の仕事だが」
カートの言葉通り、この手の問題に関しては、国の調査隊の仕事である。
そして、これがコッパーの訓練場の“訴え”が届かなかった原因――川の増水だけではなく、暴風や噴火の兆候、海辺の町では高潮による冠水などの被害が多発しており、各国の長や機関は、その原因究明に追われていたのだ。
ベルグ達が立つ場所に、ごうっと音を立てた風が吹き抜けてゆく。
「――いよいよ風も出てきた。急ごう」
「シェイラ、グズグズしてっと置いてくぞ」
「う、うんっ」
雨によって冷やされた風が木々を撫で、擦れ合う木の葉がざわざわと音を立てている中、やや遅れ気味になっていたシェイラは、小走りで二人を追いかけた。
宿からラスケットの町はそう遠くはないのだが、湖を迂回しなければならないため、距離的には前日と変わらない。
シェイラにとって救いだったのは、これまでのアップダウンの激しい山道と違い、ここからは平たんな道が続く事だった。
「槍って、こんなに重いものなんだね……」
「打ち直したとは言え、元は男用の槍でもあるらしいからな。
しかも、その中でもまだ重い方であるようだ。重く感じるのも無理はないだろう」
「そんなモン、よくぶん回せるな……んで、犬っころの方はどうなってんだ?」
「ん? 何の事だ?」
「あの女教官、レオノーラを嫁にするかどうかの話だよ。
三十前の女を引っ張るだけ引っ張った挙句、ポイ――なんてしたら刺されっぞ?」
ベルグの結婚話に、シェイラは思わず耳を塞ぎたくなった。
いくら弟のように思っていても、ベルグとシェイラは他人である。第三者が口を挟む事ではないが、彼女には“弟”が取られてしまいそうな気がして、あまり考えたくない事でもあったのだ。
ぎゅっと目を瞑ったせいで足下に注意がいっておらず、バチャッと水たまりに足を踏み入れてしまう。濡れた靴から水が染み込み、彼女の不快感増してゆく。
「今の状態では、“教官”と“守護者”の両立は難しい――と思ってな。
彼女も、赴任して早々、訓練場を空けるわけにはいかないだろうし」
「あんま待たせるんじゃねェぞ。
秋の空……って言葉みてェに、女はいつ心変わりするか分からねェからよ」
「それは心得ている。全てが片付くか、事態が落ち着けば迎え入れるつもりだ」
ベルグは、レオノーラとのそれを反故にするつもりは一切なかった。
今回の依頼のように、各地に出張ったりする事もあるため、“断罪者”を護ると言う“制約”によって、彼女に“不自由”を強いる事に抵抗があったのだ。
直接言えば、使命感の強い彼女はそれに合わそうとし、無理をしてしまうだろう。
そのため、彼にもしばらく様子を見る時間が欲しかったのもあり、ハッキリと明言するのを避けた。
それに、ベルグからしても、“守護者”に関しては『あったらいいな』程度である。
先代でもある父親も同様、これまで一人で自由気ままにやって来たため、あってもなくても特に問題はない。
もし仮に、“制約”が枷になるようであれば、“訓練場の守護者”でも良いとすら考えている。
「……で、あれだ。お前、女抱けんのか?」
「む? 簡単だろう、こう女の股ぐらを割りひらいて――」
「わーッ!? わーッ!?」
ベルグの生々しい言葉と手つきに、シェイラは思わず大声で遮った。
興味がない事はないのだが、そう言った話を表でする事や、身近な者のそれは聞くに堪えないからである。要はムッツリタイプなのだ。
「そ、そんな話をここでしちゃダメッ!」
「むぅ……《ワーウルフ》では普通にするのだが……」
《ワーウルフ》の男女の性は、獣の本能に近く性のモラルに関しても基本的に緩い。
雌は子孫を残すだけの存在であり、雄が抱きたくなれば抱く――これは、ベルグも例外ではない。
興味を持ちながらも、顔を赤くして『もうっ』と顔をそむけたシェイラは、茂みの中で何かがきらりと光った物に気づいた。
「あれ、なんだろ……? わっ、これ宝石じゃないのっ!?」
「これは……ガーネット、いや、オレンジサファイアか?
ヘヘッ、どっちにしろこんなお宝落とすたァ、間抜けな奴が居たもんだな」
「ね、ネコババしちゃダメだよ!? ちゃんと届け――」
「あ? この世の中、貴重品をちゃんと管理してねェ奴が悪ィんだからよ。
それに、誰も見ちゃいねェ――シェイラ、懐に入れとけ、なっ」
「で、でも……。た、確かに誰も見てない、ね……?」
「“天秤”よ、まずはシェイラの罪を――」
真横に“断罪者”が居る事に気がついておらず、ハッ――と二人は犬の方を見た。
カートはともかくとしても、シェイラは仮にも“裁きを下す者”の一人なのである。
ベルグとしては、そんな不正を看過することはできない。
「ちょ、ちょっと温かい石だから不思議だなーって思って、あ、はははっ……」
シェイラは頑固であるが、周りに流されやすい。
然るべき場所に届けるまで、懐に入れて置くだけだから――と、乾いた笑いを浮かべながら、“断罪”を免れていた。
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三人は風吹きぬける通りを抜け、ラスケットの町外れの一帯まで近づいていた。
暗い雲も近づいており、いよいよ嵐が来ようかとしている。
「コッパーと負けず劣らずって所だな」
「もっと魚臭いと思っていたが……」
ベルグは右に左にと、鼻をスンスンと鳴らしていた。
ラスケットの町は、湖で獲れた魚の干物などの加工品が比較的有名であるはずだ。
にも関わらず、魚の生臭さどころか、漁師町の喧々とした活気が感じられない――。
暗雲と相まって悲壮感すら漂う町の雰囲気に、ベルグは怪訝な表情を浮かべていると、
「――湖だけじゃなく、町まで来やがったがモンスターめッ!」
と、急に怒鳴り声が響き、真っ黒に日焼けした初老の男が、ずかずかと歩み寄って来た。
その手には包丁が握られており、震える切っ先をベルグに向けている。
それを見たベルグは、『またか……』と言わんばかりに、ふぅ……と息を吐いた。
半獣半人の見た目から《ウェアウルフ》と間違えられやすく、その度に獣神を呪ってしまうのである。
これを見た町の者はざわめき始め、遠くで『誰か、誰か』と叫び始めた。
「手ェ震えてんぞ、オッサン。魚おろすのがうめェようだが――。
こっちは殺しに何の躊躇いもねェぜ? テメェのハラワタ引きずり出してやろうか?」
冷たく重い口調で言い放ったカートは、その言葉に偽りなしと言わんばかりの殺気を放っている。
それに男は目に恐怖を浮かばせ、周りに加勢を求めるような視線を送ったが……誰もが顔を伏せ、目を合わせようとしない。初老の男の顔に、絶望の色が浮かび始めている。
「――まぁ待て待て。誰かと勘違いをしていないか?
我々は、ここの野菜泥棒の調査の依頼を受けて参ったのだが」
「や、野菜泥棒……? じゃ、じゃあばぁさんが依頼したってあれか!?」
「誰かは知らんが、恐らくそうであろう」
「オッサン、人違いならさっさと得物下ろして――散れ」
「ひ、ヒィッ――」
カートの恐怖に耐えかね、初老の男は情けない声をあげて尻もちをついた。
その反対側では、シェイラが耳を塞ぎしゃがみこんでいる。
「お金っ、お金は必ず返しますからっ……!」
「お前は身体に染みついてんだな……」
シェイラのそんな様子を見たカートは、気が抜けたような息を吐いた。
それと共に重い殺気は解かれ、元の湿っぽい湖畔の町の空気へと戻ったかと思いきや――
「コラァァァーッ!」
野次馬を掻き分け、総白髪の老婆がズイッと男の前に躍り出た。
カートはまたか……と思っていると、老婆は背を向けると――
「この、バカタレがっ! 早まった真似するんじゃないって言っただろ!」
と、後ろにいた男の頭にガツッと拳骨を浴びせていた。
腰と年季が入ったそれは、見ていた者も痛そうにしている。
「すまなかったねぇ、うちのせがれが馬鹿な事をして……」
「いや構わん。こちらこそ突然やって来て申し訳なかった」
「ひゃっひゃ、礼儀正しい事だこと。
これでこそ“断罪者”だよぉ、孫に爪の垢でも飲ませてやっておくれ」
「だ、だだ、“断罪者”!?」
その言葉に、野次馬たちが一層ざわめき出した。
中からは『助けに来てくれたのか』との言葉もあり、皆が僅かに希望を取り戻したようにも見えた。
「この町に何かあったのか?」
「……それも合わせて話すとするかね。ここじゃ何だし、うちにおいで」
「うむ、そうさせて頂こう」
「ほらっ、スケルッあんたも来るんだよ!」
「こ、腰が抜けて……」
老婆はもう一発、ヨロヨロと這いつくばるスケルと呼ばれた男に拳骨を与えると、その襟首を掴み引きずって行く。
その腕の力もさることながら、足腰は見た目以上に丈夫であり、健脚であった。
老婆が向かった先は、町の中心にある小ぢんまりとした食堂ーー老婆の店であり、厨房からは良い香りを漂わせている。
「わぁっ、美味しそうな香りっ! お店の雰囲気も良いし」
「おや、ありがとねぇ。ここまで遠かったろう? ポトフ作っているから、良かったらお食べ」
「うむ。丁度腹が減っていた所だし、お言葉に甘えたい所であるが――」
老婆が持ってきたスープ皿の中には、人参とジャガイモ、キャベツが入っており、どれも良く味が染み込んでいる。
口に入れれば、それぞれの素材の味と香辛料が混ざり、シェイラとカートの口からは素直な味の感想が生まれていた。
しかし、ベルグだけは――
「やはり玉ねぎ……」
「こら、スリーライン! 玉ねぎも食べなきゃダメっ!」
「犬にそれはダメだろ」
「ふぇ? スリーラインは食べられるよ? ただ好き嫌いしてるだけ」
犬はネギ類に含まれる物質を分解できないため、絶対に食してはダメな食材である。
しかし、ベルグは母親が人間であるため、決して食べられないわけではない。
単にネギ臭と味が嫌いなだけであり、獣のその鋭い鼻と舌は、煮込まれスープに溶けた玉ねぎの味と香りがハッキリと分かってしまうのだ。
鼻を近づけ、スンスンとその臭いを嗅ぐと、ブシッとくしゃみをするような反応を見せる。
「俺、やはり、いらな――」
「なに? 何か言おうとしてる?」
ベルグはブフッ――と、不満げに犬の口を鳴らした。
嫌いな物が入っているからと残そうとする“弟”に、シェイラは正真正銘“お姉さん”の顔で、ジロリとベルグに目を向ける。
食に関しては、昔からシェイラに逆らえないベルグは、こうなるともう食べるしかないのであった。
「おやまぁ、どっちが“断罪者”か分からないねぇ」
「裁決を下す奴が強ェからな、食に関しては……」
厳しい目で監視しているシェイラを見て、老婆はそう言った。
事実、”裁断者”の判断は絶対であり、“断罪者”はただそれに従うだけである。
“裁断者”であるシェイラの命に、“断罪者”であるベルグはしょんぼりと無理矢理口に運んでいた。
「で、ばーさん。仕事の話なんだが」
「ああ、今晩あたりにまた来るだろうね。ひゃっひゃ」
「ずいぶんと余裕だな」
「何百個も盗られたら、私も鍋被って挑むけどねぇ……畑がやられたらこの町も終わりだからね」
「終わり?」
カートはこの町の雰囲気を思い出した。
活気も失い、どんよりと重い雲のせいではない。何か大きなモノに阻害されているような、どうにもならない末期感が漂っていた、と。
「この町の男どもは、近くの湖で魚を獲って生計を立てていたんだよ。
だけど最近、《キングクラブ》の親玉がそこに住みついてしまってねぇ……」
「キ、《キングクラブ》の親玉ァ!?」
老婆曰く、ラスケット湖の辺りにヌシが住み着き、それに随伴して|《キングクラブ》の集落が形成されてしまったのだと言う。
今は丁度、卵を孵しているので町は襲われていない。
だが、これがもう少し大きくなれば――
「カニの御一行が町に来る可能性がある、ってのかよ――」
「まさにカーニバルだね……」
「……」
「な、何よっ!」
何とか我慢して食べたベルグは、おぇっ……と一つ