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第三章 取り調べ 1

 その時、2人だけの捜査会議に飛び込んできた警官がいた。
「交通課です。所轄の派出所がストーカー逮捕したみたいで、現行犯です。担当決まってないので、大打さん取り調べお願いできませんか?」
「ヤダよ。忙しい」
 大打が口をへの字に曲げて、背広の袖口を掴んで、嫌々をするように左右に体を揺する。
「えーえー、他に刑事課に誰もいないんです。出払ってるみたいで」
「帰ってくるまで、臭―い豚箱にぶちこんどきゃ良いだろうが」
 大打はうるさそうに交通課の警官を追い返そうとしていた。その困った若手の警官の顔を見るに見かねて桜木巡査が口を挟んだ。

「臭―いブタ箱ってどこにあるんですか? 今時警察の拘留所は清潔でそんな……」
「気持ちの問題だ。犯人にはそう感じるって事だ。いちいち人の言葉の上げ足を取るな、ひよっこが」
 交通課の横山巡査は2人のハイテンポのやり取りに着いていけず、首を左右に動かしてその掛け合いを見ているしかない。
 
「すみません、あのぅ、捜査会議ここで一息ですし、取り調べこちらでやりましょうか?」
 桜木が視線を横山巡査に合わせて、そう言った。
「えっ桜木巡査、良いんですか、お願いできますか?」
 そう答えながら彼はちら、ちらと大打刑事の表情を探る様に盗み見る。
「私じゃまだ役不足ですけど、大打刑事がやってくれます」
 そう言って桜木は胸を張って、大打の方にサッと右手を差し出した。
「なに、安請け合いして、おい!! 俺はブタはブタ箱に仕舞えと言ってるだろう」
 大打の戯言は一切無視して、桜木は横山に指示した。
「それじゃあ取調室3に通しときます。後お願いします」
そう言って彼女は交通課の横山と現行犯の犯人を連れに出て行こうとした。
「おい、桜木どうするんだよ。今の殺人事件の初動捜査が出遅れるだろうが? 緊急性が高いだろうが」
 大打刑事に正論をぶつけられると、桜木には返す言葉はない。
「えっと、困ったときはお互い様ですって。私、記録取りますから。大打刑事は質問だけ」
 そう言って苦笑いをして見せる。
「しょうがないなぁ」
 大打は頭を掻いた。大打の髪の毛は極めて剛毛だ。掻き毟っても、櫛を入れても感情が込み上げてくると電流が走ったようにすぐにまた逆立ってしまう。ヤマアラシの遺伝子が入っているのかも知れない。
 
 一分もしないで、桜木は容疑者を取調室に連行してきた。
 ブタだ、ブタが来た。その男を一目見たときと大打は掛け値なしにそう思った。
 桜木もこの容疑者の尋問を安易に引き受けたことを、既に多少後悔し始めていることは、表情から明らかだ。男の体躯は身長180センチ程度、体重は110キロは優に超えていそうだ。着ているものの匂いか、風呂に入っていないのか体臭が激しく強烈だ。ねずみ男臭と言う匂いだ。  
 彼を取調室に通して折りたたみ式の簡素なイスに座らせ、大打がその向かい側に座った。男が座るとミシッと小さな音がして、彼の体形が椅子を覆い隠してしまった。桜木は何事もなかったように入口のある南側の部屋の角に置いた机を前にちょこんと座って、キーボードに向かいテキパキと記録を取る用意を始めている。よくある刑事物の捜査室の風景だ。大打は携帯の画面から顔を上げない。少しして、桜木はタイプの準備が整ったようで、大打の方をじっと見て取り調べが始まるのを待っている。
 その場の長い沈黙に耐え切れなかった様に、男から遂に口を開いた。
「刑事さん、僕は無実です。何も悪いことはやってないんだ。ユッコの事は愛しているし結婚しようと思って付き合ってるんです」
「喋りたくないんだ」
 大打が横を向いて、男に向かって左手を広げて短く彼の言葉を制した。
「だったら、僕のいう事を聞いて下さい。聞いているだけでも良い。そうすれば僕が無実だって分かってもらえますから、刑事さん」
「俺が喋りたくない以上に、お前の声が聞きたくない」
 大打は威嚇するように、上目使いで男を睨み付けた。
「何を言ってるんですか。ここは取調室で僕は取り調べの為にここに呼ばれたんですよね。取り調べっていろいろ聞き出す事ですよね。僕の生年月日から、血液型から、学歴とか特技とか。気を使わないで聞いてくれて構わないんですよ」
「俺がもし、しゃべると鼻で息を吸うかも知れない。俺は今『緊急口呼吸モード』に入っている。俺に喋らせるな、良いな」
「訳が分からないよう、僕はどうしたらいいんです。そっちの婦警さん、助けて下さいよ。僕は、僕は……」
「……」
 桜木巡査は答えなかった。
 答えない以上に大打刑事の言った今の一言がヒントになったようで、急いで口を開けて呼吸を口から始めたのだ。それからハンカチを取り出して口に当ててみた。しかし到底それだけでは耐えられないと分かったようだ。
 桜木は顔を上げ意を決して席から立ちあがり、取調室の窓を全開に開け、換気扇のスイッチを入れ、席に戻った。目の前の男の体臭は大打が感じる以上に若い女性の桜木にとっては強烈な異臭と捉えられた。大打はティッシュペーパーを紙縒りに丸めて鼻に詰めている。公僕の身で市民に差別的な態度を取ることはあってはならない行為だと自らに課している桜木なのだが、狭い取調室で数分でもこの異臭に堪えることは到底不可能だと思わざるを得ない。自分も既にもう既に顔に出ていると自覚しているのだが。
 その桜木の行動を男は好意的に捉えた。
「婦警さんすみません、暑いですよね、この部屋。僕も暑いと思ってたんです。取り調べって息苦しいじゃないですか、これで少し気持ちが楽になります。ありがとう」
桜木は男に視線を合わせず、軽く会釈して席に戻った。好意的に誤解してくれているのならそれでいいと思った。男は再び大打の方を向いて口を開いた。口臭がまた酷い。正面に座っていると、一言しゃべる度に悪臭パンチの連打を浴び続けているように大打の体力を奪っていく。
「用がないんなら帰してください。僕だってしゃべるたくはないですよ。何にもね。だって何にもないんだもの」
「黙れ」
「黙りませんよ。黙ってほしかったら、ここから出してください。家に帰してくださいよ。帰して。帰せ。家に帰して、ユッコが心配してる、早く帰らないと」
「黙れ」
 大打が繰り返した。
「帰せ、帰せ、官憲横暴、暴力反対。沖縄に自治権を」
 大打が黙っているのを良いことに、男は勝手なことを言い始めた。バンと大きな音を立てて大打が取調室の机を平手で強打した。驚いた男が一瞬身を引く。イスが小さくメキッと音を
立てた。
「何するんですか。暴力はいけませんよ。しかも無実のこんな大人しい市民に対して。僕ももう選挙権あるし、税金だって払ってますから。人権は認めてほしいんですぅ」
 とうとう大打が重い口を開いた。
「お前には、一生選挙権はやりたくない。税金は払い続けろよ。生活保護に逃げるなよ」
沈黙を破って、大打が開口一番そう言って男を再び睨み付けた。
「何言ってるんです」
「それにしても、かつ丼食べてないのに、かつ丼の匂いが部屋いっぱいに広がっているようだな」
 桜木はなるほど大打刑事の形容は分かると感じた。部屋の中に充満した体臭は彼が糖尿体質なのか甘酸っぱい匂いがほんの少し、かつ丼に似ていると思った。がそう考えた直後、猛烈な吐き気が彼女の喉元にせり上がって来た。これ以上考えてると一生かつ丼が食べられなくなると思い、必死に思考を切り替えようと焦り始めた。

「かつ丼食べたいですねぇ。刑事さん、良く刑事ドラマで容疑者にかつ丼食べさせて、容疑を認めさせるシーンがあるでしょう」
「コメディードラマか、劇中劇の中の話だ。実際は食事の時間には容疑者は取調室から拘留所に戻す。食事は拘留者みんな同じものだ」
「ですよねぇ。それって殺人事件だけなんですかね」
「食べさせないの。事件に関係ないの。取り調べ中に内緒で組員に情報提供させるときに、刑事が自分のポケットの煙草とか奢るだけ」
「かつ丼食べたいなぁ」

「もう良い!! 名前は?」
「小日向淳で――す」
「お前、何やったんだって」
「僕は、僕は彼女を愛してたんです」
「ふーん、愛していさえすりゃぁ、女に何やっても許されるわけじゃないだろうが」
 そう言って、大打は派出所から回って来た小日向の調書に手早く目を通した。彼はアキバの地下アイドルの追っかけをやっていた様だ。その中の鈴鹿有紀とかいうアイドルに夢中になり、ストーカーになって彼女に通報される。
「愛してれば、大体の事はOKですよね」
「バーカ、バーカ、その一方的な思い込みが犯罪を起こすんだよ」

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