過ちの産物
「生まれてきて、ごめんなさい」
誰にともなく、言ってしまう。
神は何故、僕をこの世に遣わしたのか。
何の役にも立たず。
誰にも必要とされない。
すると突然、何処からか、何者かの声が聞こえて来る。
『こちらこそ、申し訳ない』
「誰だろう!?」
『しかし、誰にでも過ちはある』
「誰なんですか?」
『それは察して貰う外はない』
「解りました」
『一つだけ言える事は、お前の可能性こそが、過ちの産物である、と』
「それは、どういう事なんでしょうか!?」
『過ちから生まれる可能性もある』
「そうでしょうか」
『では、先程、お前は謝っていたけど、誰に謝っていたのじゃ!?』
「別に、誰にと言う訳でもないんだけど」
『では、何を謝っていたのじゃ!?』
「僕が生まれて来た事です」
『お前は自分の意思で生まれて来たのか!?』
「う~ん。どうなんでしょうか!?自覚はありませんが、こうして生まれて来ている以上は、自分の意思であるのかもしれません」
『ならば、自分の意思ではないのかもしれないという事でもあるな』
「そうなりますね」
『その場合は私の所為である、と』
「じゃあ、貴方はやっぱり、」
『それは訊くな』
「すみません」
『とにかく、誰の所為であろうと、過ちはあるもんじゃ』
「はい」
『その過ちを可能性に変える事が出来るかどうかは、本人、次第になる』
「そんな事を言われても、」
『何じゃ!?言いたい事があったら、はっきり言うてみい』
「何も出来ないから、生まれて来た事に罪悪感を感じもするのです」
『だから、過ちは誰にでもあると言っておろうに』
「でも、」
『無力な自分が、どうしても許せないのか!?』
「はい」
『それは、それで仕方がないが、無力だからこそ、出来る事もある』
「それは、どういう事でしょうか!?」
『無力なお前が居てくれるおかげで、無力であっても居ていいんだと、他の者は思ったりするのかもしれない』
「そうでしょうか」
『だから、あくまでも可能性の話。お前には、その可能性がある』
「う~ん」
『無力な者にしか出来ない事もある。だって、そうじゃろう!?』
「何がですか?」
『無力でない者に無力である自分を許して貰っても、自分は無力な自分が許せなくもなる。今のお前が、そうじゃろう!?』
「そう言われると、そうかもしれません」
『でも、それが、もし、お前と同様に自分の無力さに苦しんでいる者だったら、どうじゃ!?』
「どうなんだろう!?実際に、そうなってみないと分からないけど、」
『うむ』
「相手を許す事は出来そうな気がします」
『そういう事じゃ』
「どういう事ですか!?」
『相手にも許しを与える事が出来るのじゃ』
「相手にも許しを与える!?」
『お前は相手だったら、許す事が出来そうだと言ったじゃないか』
「はい」
『だったら、相手もお前を許す事が出来るのかもしれない』
「なるほど」
『そして、お互いがお互いを許す事で、自らを許す事にも繋がる』
「そう上手くいけばいいですけど」
『だから、可能性の話をしている』
「そうでしたね」
『その可能性は無力であるからこそ、でもあるじゃろう』
「なるほど」
『無力である事は苦しい事かもしれない。辛い事かもしれない』
「はい」
『でも、苦しいからこそ、辛いからこそ、同様の苦痛に苛まされる者の力になれる事もあるのではないか』
「そうですね」
『お前には苦しい思いをさせてしまって申し訳ないが、そんな自分の可能性を信じて貰えると有り難い』
「出来るかどうかは分かりませんが、信じてみようと思います」
『健闘を祈る。さらばじゃ』
「ありがとうございました。さようなら」