5−1: イミュータブル・フー (Immutable Foo)
夜通し走り続けたテリーは、イルヴィンの個室の病室で、ベッドの横に椅子を広げて座っていた。
イルヴィンはマスクを着けられているわけでもなく、針が刺さっているわけでもなかった。頭を覆う薄いヘルメットには何本かのコードが繋り、患者衣の胸の奥にも何本かのコードが入っているだけだった。ただ、右の額にガーゼが貼ってあった。
テリーは端末を起動すると、研究所からの概要に目を通し始めた。
最初の項目は「知能サービス」であり、その本文は簡単に「先のミーティング資料を参照」と書かれ、リンクが貼られていた。「先のミーティング」とは何かとテリーは思ったが、リンク先の表示はイルヴィンを含めての時のものだった。
二つの項目は「サロゲート」であり、その本文もまた簡単に「先のミーティング資料を参照」と書かれ、リンクが貼られていた。
三つめの項目は、「サロゲートの型番」となっていた。指示を出す時にテリーはそれを予想していないわけでもなかった。 "T.G." や "I.F." という個別のものに意味はないだろうと考えていた。その本文には「アルファベット二文字がサロゲートの型番を示すものであるとするなら、最大で676種類存在する可能性がある」と記されていた。本文は更に続いていた。「ただし……」
「あ…… ここは?」
その声でテリーは端末から目を移した。
イルヴィンはベッドの上でまだ横になったまま、目だけを動かしていた。
「本社の病院だ」
椅子から立ち上がり、ベッドの横に立ってテリーは答えた。
「大丈夫か?」
「いや、どうだろうな。いろいろな夢を見ていたよ」
答えるだけのイルヴィンを見て、テリーは訊ねた。
「体が動かないのか?」
「あぁ。どうも上手く動かない。痺れている」
「痺れているなら、感覚はあるってことだろうな」
椅子をベッドのすぐ横に動かしてから、端末をイルヴィンの目の前にかざした。
「俺が最初に行った時、トム・ガードナーと親戚かって聞いたよな?」
「そうだったか?」
「あぁ。それでここを読めるか? 最大676種類のサロゲートだとさ」
「その次を見せてくれ。ただしの後だ」
「676種類、ただし以降読み上げ」
テリーはそう指示した。
「ただし、 "I.F." は型番として用いられるのみでなく、サロゲートを指すものとも言われている。この場合、 "I.F." は『イミュータブル・フー』であると言われることがある。イミュータブルはプログラミング言語において、その状態や内容の変更ができないものを指す。フーは未確認機を指すものではなく、プログラムの例示において用いられる "FOO, BAR" などからのものと言われる。これは、一度生成されたサロゲートに対しては、外部から状態の変更を行なうことができない、あるいは少ないことと、存在そのものに意味を持たせないことからの呼び方とされている」
「止めてくれ」
イルヴィンはそこで言った。
「もし、そうだとして。ならトムはどういうことだ。俺もか?」
「そうだな。もし、そうだとしてだが。記憶が変わっていたとしたらどうなる? 本人は気付かないかもしれないが、周囲は気付くかもしれない。この前も言ったが、自己同一性の保持に問題がでるだろう」
「あぁ、そうだな。つまり?」
テリーは両手を一度大きく広げてから答えた。
「つまり、あんたがエリーと婚約していることを忘れたらどうなる?」
「それは困るな」
笑顔と思える表情を浮かべて答えた。
「あるいは、あんたはエリーと婚約していると思っているが、実際にはそんなことはなかったら?」
「そんなことが起こっているのか?」
「いや、起こらない。起こったら困るだろ? だから起きないようになってる。そこについては知能サービスからも手が出せない。イミュータブルってのはそういうことだろう。記憶だけに限らないが」
「よかったよ。俺の妄想じゃなくて」
弱い笑い声とも、軽い咳とも思える音を出した。
「だが、そのために何かあったら破棄されるということでもある」
「それがトムに起こったことか?」
「実際にはともかく、FOOを構成するものの多くの場所か肝心の場所が置き換えられたら、破棄されるのかもしれない」
「そうか。俺はまだ運がよかったのかな。こうしてお前と話していられる」
イルヴィンは横に座っているテリーを目だけで捉えた。