スリッパ
お袋は強い人だった。
力の強さではなく精神的な話だ。
例えば小学生の頃。家の中でゴキブリが出れば退治するのはお袋の役目だ。
俺も妹も弟も、さらには親父も無理も虫が大の苦手。
そんな中、スリッパを手に持ってパーン。
「虫でも爬虫類でもスリッパ一個あれば十分よ。」
そう言いながら躊躇することなく叩き潰した。
また俺が悪さをすればこれまた容赦ない。すぐに平手打ちが飛んでくる。
愛情の裏返しなどと笑みを浮かべていたが、幼い俺はそれが何よりも恐怖であった。
子供の頃は素直にごめんなさいと言えたものだが、思春期になるとそうはいかない。
相も変わらず手を出す母親に俺はいつからか反発する様になっていた。
そして、何かの拍子に平手打ちをされたある日のこと。
俺は思い切ってこう言ってやった。
「こんな家、出て行ってやる!」
「あら、そう?」
お袋は涼しげな顔をしている。そんなのは慣れっことでも言うように。
「あんたなんか俺の母親じゃない。」
俺が言った瞬間、お袋はこれまでに見たことがない表情を見せた。
ゾッとするような、長年一緒に住んできた人間とは思えない顔。
それは決して悲しみの顔ではない。
全くの無表情。何も感情が浮かんでいない「無」の顔になったのだ。
「そうですか。」
最初それは誰の声かわからなかった。機械のような低く冷たい声。
あまりの変貌ぶりに俺は全身の鳥肌がたった。
「あなたは今日からうちの子ではありません。この家にいてはいけない存在、つまりあなたは不審者ということになります。」
淡々と言いながら、お袋は俺に近づいてくる。
いつもの平手打ちだ!
俺は身構えたが、予想に反してそうではなかった。
お袋はスリッパを脱ぐとそれを振りかざしたのである。