08
レゾンがたしなめるように名前を呼んだのも、気にならなかった。
今は確かに非常事態だ。だが同時に、ヴィオレにとっても異常なことが重なっている。
ヴィオレの基礎となった部分は、いまだに崩れ去ったままだ。御堂とレゾンに悪意がないことなど理解しているが、それでも裏切られたという印象は消えない。
なにひとつ解決していない。
誰が正しいのか、幸福の定義はなにか、なんのためにペストと戦うのか、今まで守ってきたヒトとはどんなものなのか。
どれもすぐに答えが出るようなものではないのだが、同時にこれ以上疑念や迷いを持ったまま進むことに、ヴィオレが危険を感じているのもまた事実だった。
渦巻く思考は迷いを生む。ペストに触れられる距離で戦わなければならないヴィオレにとって、それは無視できない要素である。
「──我々はペストと戦う術を持ちません」
少しの間を置いて右手を下ろし、男は話し始めた。
もしかしたら、レゾンからヴィオレの境遇を軽く説明されたのかもしれない。
「しかし、市民の誘導ならできます。それで充分ではありませんか」
うかがうような言葉は、ヴィオレが思っていたよりずっと短く、簡潔だった。
けれど、ヴィオレが求めていた言葉が、そこには凝縮されていたのかもしれない。髪や瞳の色も、住んでいる場所も、それぞれの常識も、ありとあらゆる差を無視して、お互いがお互いにできることをすればいい。
それはヴィオレが手に入れたかった理想だ。
誰かの役に立ち、誰かに求められ、誰かに認められる。たったそれだけのことが、下層ではなぜか難しい。
「では、御武運を!」
「あ……ありがとうございました」
ヴィオレは辛うじてそれだけ返すと、人混みへ向かって走る黒装備を数瞬だけ目で追って、また前へ視線を戻した。
中層の街並みは、下層のそれとはかなり違う。効率を突き詰めた建造物を見続けてきたヴィオレには、なにかと無駄の多い──生活感の溢れる街は新鮮に映る。
大通りに分類されるらしい道の両脇には、背の高い五階建ての商業施設がいくつか並んでいる。浅間の中心であるエレベーターから離れれば、建物の高さは徐々に低くなっていき、その性質も商業施設というより集合住宅に近づいていくようだった。一階部分に商店を構え、二階以上には人が住む構造が、大通りに並ぶ建物の主流らしい。平たい屋根には、空気中の成分を一定に保つための植物が植えてある。
「──ではヴィオレ、向かおうか」
レゾンに促され、ヴィオレは踏み慣れない硬い地面を蹴った。アスファルトの硬さを数歩で確かめると、念動力で地面を弾いて一気に加速。消費する体力は最小限に、可能な限りの速度で道を駆ける。
人影はほとんどない。おそらく大多数の人間は室内に誘導され、ペストが排除されるのをおとなしく待っているのだろう。ごく一部、少しでもペストから距離を取ろうとする者が、人ならざる速度で走るヴィオレを見て足を止める程度だった。
少なからず人との遭遇はあるものの、巻き込むかもしれない誰かがいないことはヴィオレの気持ちを多少は楽にした。