クライアント
界人は都内にある某ホテルに足を運んだ。
武藤から届いたメールにはこのホテルの場所と、クライアント名「ノワール・エルスタン」とだけ書かれており、詳細はクライアントから伺うように指示されていた。
外人のクライアントを担当したことが無い界人は尻込みした。うまくコミュニケーションが取れるだろうか。こんなことなら学生時代もっと英語の勉強をしておけばよかったと今更ながら後悔した。
界人はフロントを尋ねて部屋にいるというクライアントに連絡を取ってもらい、ロビーのカフェで待つことにした。
まずは自己紹介からだろうか。いや、ドラマなんかだと、よく「Hi!」みたいな感じで気さくに握手なんかしたりもする気が…。
界人が次元の低い堂々巡りをしていると、背後からふわっとクチナシの香りがした。
「お待たせしました。伊瀬界人さん、ですね?」
とても、透き通った声だった。
ダークパープルのドレスに身を包んだ、長身の女性がコツコツとヒールを鳴らしながらこちらへ近づいてきた。
「どうもはじめまして。ノワール・エルスタンと申します」
ブロンドの髪に白い肌からも分かる通りどう見ても日本国籍ではなさそうだが、ノワールはとてもきれいな日本語で挨拶した。
会釈する彼女に、界人も用意していた名刺を渡し、挨拶をする。
「は、はじめまして。ウィンストン・コンサルティングの伊瀬と申します。よろしくお願いします」
「どうぞよろしく。あいにく、ビジネスカードは用意していないの」
「お構いなく。どうぞ、おかけください」
反対側のソファにノワールを促し、対面する。
改めて見ると、とてもきれいな人だった。大きな、まるで魔法使いのような帽子を深々と被っているため顔は良く見えないが、立ち振る舞いから見るに、どこか高貴な生まれなのだろうか。外国の人というのもあるだろうが、どこか普通ではない印象を受ける。
彼女、ノワールはウェイターがあらかじめ用意していたハーフティに少し口を付けた。コップを持つ指はすらっときれいで長く、紫がかった爪がひと際輝いていた。
いつまでも見とれているわけにもいかないな、と、界人は仕事モードに切り替える。
「エルスタンさん、今回は御用命いただきありがとうございます。早速お話をお伺いしたいのですが…」
ノワールはコップを置くと、視線を下から上へと一瞥した。
「ええ。ただその前に一つだけ確認させていただきたいのだけれども」
「何でしょう」
「今回の依頼はおそらく長期間のものになります。また、私どもの国に来ていただきたいのだけれども、よろしいかしら?」
ノワールは帽子の唾から妖艶な瞳をちらっと向けた。
長期の案件であることは武藤からも聞いていたし、界人自身は初めてではあるが、海外案件は特段珍しいものでもない。
この案件で結果を出す気満々だった界人は、詳細を聞くこと無く快諾した。
「ええもちろんです」
ノワールは返事を聞くと、クスっとすこしだけ笑みを浮かべると、立ち上がり、バッと右腕を真横に伸ばした。
その時、突如として、界人に向かって強い風が吹いた。
「うわっ!?」
界人は思わず顔を覆った。
「早速ご案内しますわ。我々の国へ」
どこか甘い、クチナシのような香りをがしたかと思った刹那、界人の意識は途切れた。