1 落ちこぼれ部下①
桜井建設の本社の社員たちが、各々の机に向かい、せかせかと仕事をこなしている。
活気ある空気が漂う経営企画部の事務室を、影山琢磨が、部長室の入り口からうかがっていた。
若くして出世した彼は、通った鼻筋、薄い唇、ややウェーブがかった髪のイケメンで、女子社員から一目置かれる存在だ。
だが今は、眉間に皺がより機嫌が悪いのは明らか。
部長の呼び出しだと察した経営企画部の社員たちは、自分の名前ではありませんようにと心の中で願う。
おかげで周囲が静まり返ったところで、影山琢磨の声が響く。
「白浜! ちょっと来い!」
経営企画部長のよくとおる美声が、入社1年目の女子社員を指名した。
それを聞き、冷笑を含む視線が白浜胡桃23歳に注がれていく。
「また白浜さんが呼ばれてるわね」
揶揄する声は嫌でも本人の耳に届き、胡桃の緊張をさらにかき立て、前を見ずに反応を示す。
震えた声で「は、はい!」と発すれば、黒い髪をうなじの位置で1本に結び、黒縁眼鏡をかけた地味な女子社員、白浜胡桃がすくっと立ち上がった。
普段から、長い髪で顔を隠すように俯いているため、他の社員たちは胡桃の顔をはっきりと認識していない者も多い。
とはいえ、おどおどした彼女の雰囲気から、暗い人間という印象を持たれている。
そして今も、青ざめた表情が、根暗な雰囲気がさらに増していた。
どんよりオーラ全開の胡桃が、打ち合わせ用の小さなテーブルで向かい合って座る女子社員2人の横を通り過ぎようとすれば、彼女の嫌味を言い出した。
「部長からの呼び出し、午前中だけで3回目じゃない? まじでウケる」
「ふふっ、どんだけ愚図なのかしら」
「地味で根暗なくせに仕事もできないって、終わってるよね」
そう言って流し目で胡桃を見てきたのは、松木美奈33歳。ここの中堅社員だ。
胡桃だって呼ばれたくて呼び出されているわけではない。
彼女たちの会話が聞こえ、緊張とも羞恥心ともとれる熱で、頬がカァーッと赤くなっていく。
先輩社員たちの悪口が、影山部長の部屋まで届かないのは計算済み。陰湿な嫌味は初めてではない。
どうせ上司に相談しても、自分の味方はいないだろうと、げんなりする彼女は、背中を丸めて部長室へと向かう。
不機嫌を丸出しにした影山琢磨から、本日、3回目の呼び出し。
37歳の琢磨は、きめの整った肌から年齢を感じさせない色香を漂わせる。
最近、社内報にも取り上げられていたが、桜井建設で異例のスピード出世を遂げたホープの経営企画部長だ。
だが一方で、時折見せる営業スマイル以外、笑った顔を見せない彼は、容赦ない指導のせいで、部下たちからは、いわゆる鬼上司と呼ばれている。
彼の手腕によりこの経営企画部は年々成果を上げ、高く評価されているため、誰も不満は言えないが。
肩をすくめた胡桃が琢磨と対面するか否かのタイミングで、彼の怒号が飛ぶ。
「白浜の提出したこの決裁、データの集計を間違っているだろう! 何度言ったらわかるんだ。計算が合わないからやり直せ!」
「は、はい。申し訳ありません」
「今日中に、さっき戻した2つの決裁と併せて再提出だ。いいな!」
「わ、わかりました」
「ったく。入社から半年が過ぎたというのに、こんな初歩的な失敗ばかりで大丈夫なのか? このままだと他の仕事を任せられないだろう」
「だ、だ、大丈夫で……」
「はっきり喋ろ」
「ちゃ、ちゃんとできると思うんですが……」
「できていないから何度も言われているんだろう」
「えっと……それは……」
そこまで言って、彼女は俯いたまま口を閉ざす。
押し黙る胡桃を見て、やれやれと呆れ口調で告げる。
「言い訳はいらないから、さっさと仕事に戻れ」
「は、はい」
やっとのことで返事をした胡桃が、部屋をあとにした。
◇◇◇
胡桃が席についてからパラっとめくる書類の束。中には付箋が付けられており、合致しない数字に丸もついているようだ。その数がやたらと多い。
それをチラ見してきた向かいの席の男性社員同士が、あからさまな陰口を叩く。
「新入社員の本部配置って、入社試験の成績上位者だけだろう。白浜さんが本部に配属されたのって、なんでだろうな?」
「コネを使ったか、試験で不正でもしたんじゃないの?」
「だよな~。仕事できないのに、おかしいもんな」
「半年経っても起案一つ真面に作れないクズが、本社に配置されるって詐欺だろう」
胡桃はコネ入社でも不正を働いたわけでもない。もちろん違う。
それを言い返したいが、彼女は緊張で言葉が出せそうにない。
彼らが胡桃の方を向きかけた瞬間、目を合わせたくない彼女は、さっと俯いた。
結局、男性の先輩に話しかけることもできず、ただ静かに口唇を噛む。
そうこうしていると影山琢磨が他の社員と話している声が遠くに聞こえてきた。
(落ち込んでいる場合じゃない。早く仕事を終わらせなきゃ帰れないし)
こうしてはいられないと思う胡桃は、顔を長い髪で隠すようにして、慌ててパソコンへ向かった。