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1月10日 〜取り戻せない時間〜

 年が明けた一月十日。

 日ごろ武尊が出社する時間と大して変わらない時間から、美里と二人で家を出ると、昨年から約束していた病院へと向かう。

 武尊としては、嫌々連れられて来た産婦人科の待合室。そわそわと周囲を見渡すが、とりあえず知り合いはいないなと安堵する。

 お腹の大きな妊婦の横に男性の姿もちらほらとあり、二人で楽しそうに会話をしている。

 だが、武尊と美里は違う。
 どこかよそよそしく腰掛けると、武尊が美里から顔を背けていた。

 彼は美里から話しかけられないように、スマホの画面をずっと見たまま時間を潰す。

 周りを見る美里は至って普通に、武尊の腕をつんつんとして、声をかけた。

「いいなぁ~。私たちも早く赤ちゃん欲しいよね」

「……ぅ、うん」
 その意見に否定はしない。
 だが、それに同意しては、自分も精液検査をさせられるかもしれないと感じた武尊は空返事だ。

 病院のトイレで容器に出している姿を想像すると、恥ずかしいのもそうだが、嫌がる理由はほかにもある。
万が一、不妊の原因が夫の自分にあると判明するのが不安で仕方ないのだ。美里には話していないが、大学の同期に不妊検査をして、男に原因があると診断されてやつがいる。彼はあっけなく妻に離婚を願われた。まあ、同期夫婦の離婚の理由はそれだけではない気もするが。
武尊としては、子種が機能していないと言われてしまえば、自尊心が底なし沼にはまるようにじわじわと落ちていく気がしてならない。

 もしも自分のせいで子どもを授からないのなら、妊娠を希望する美里を失う気がする。
 家族が増えるとかを抜きにして、美里が好きで、この先ずっと一緒にいたい。

 今更照れくさくて言葉にできないが、そう思っている。
 夫婦の不妊。このデリケートな問題は、原因を曖昧にしておくべきと考え、検査を拒絶している。それは今まで口にしたことはないが。彼の本心だ。

 一刻も早く、都合の悪い環境から帰りたい。
 そう思って順番を気にしたタイミングで、受付番号が診察室の前の掲示板に点灯した。
それに気づいてすぐに立ち上がった美里を先頭にして歩みを進める。

 個室に入れば医師がパソコンと向き合っており、その横に穏やかそうな中年の看護師の姿もある。

「勝木美里さんね」と彼女の顔を覗きながら医師が発するため、緊張した声で「はい」と返した。
 そうすれば真剣な表情の医師が尋ねてきた。

「どうしてもっと早く再診に来なかったの?」

「ちょっと忙しくて」

「看護師から電話を入れていたよね。自分の体のことより大事なことはないでしょう」
 医師がそう言った相手は美里だ。

 もちろんその本人は早々に受診する気満々だった。だが、武尊が動かなかったため遅くなったわけだ。

 医師に言い訳がましいことを言うのもどうかと思う彼女は、小さな声で「そうですね。早く来るべきでした」と、反省を口にした。

 そのやり取りを聞き、自分が責められている気持ちに駆られた武尊は、すかさず口を挟む。

「それで検査の結果って何ですか?」
 医師が武尊へ顔を向ける。そうすれば彼は、口を固く結び機嫌が悪そうだ。

 夫の同行を確認した医師としては、患者と家族との信頼関係を作る会話を続けようと思っていたのだが、ぶっきらぼうなもの言いの武尊を見て、前段の会話を止め本題に入ることにした。

「美里さんの検査の結果、あまりよくないものが見つかりました。専門的治療が必要なので、すぐに紹介状を書きますので大きな病院を受診してください」

 四十歳代くらいの金縁メガネの男性医師は、言葉を選びながら説明を始めたが、その言葉に反応したのは夫の武尊の方だった。

「は? 何それ……嘘だろぅ」

 診察に水を差すなと思う医師は、動揺する武尊に優しく告げた。
「前回、病理検査もしていましたから」

真っ青になった夫から目を逸らし、美里に尋ねる。

「何か症状はありませんか?」

「体がだるくて……」

 間髪入れずに返答があったことに納得して、医師はパソコンに体を向けた。

「えっ⁉ 先生、どういうことですか。美里の病気は何ですか」
 目を白黒させる武尊が動揺しきりに尋ねた。

「おそらくがんです。前回検査したときから時間も経っていますし、次の病院で、再度検査をしてから|IC《インフォームドコンセント》を受けてください。その前に貧血の検査だけしておきましょう。美里さんを採血室へ案内して」

 医師から検査の指示を聞いた看護師が、美里を廊下へと案内した。

 納得していない武尊がそのまま診察室に残る。それをわかっていたであろう医師は、彼の反応を待つ。

「がんってどういうことですか⁉」

「初診の時点で、すでに進行していた状態でしたが、何度再診をお願いする電話をしても、いらっしゃいませんでしたから」

「状態はもっと進行しているかもしれません。……紹介先の病院で、どのような結果が出るか」

「それって、どういう意味ですか⁉ 美里は治るんですよね」

「詳しく検査をしてみないことには、何とも言えません」

「そ、それって、十一月に受診していたら……違ったんですか……?」
 青ざめる武尊が震える声を出す。
 その言葉に違和感を抱く医師は、パソコン画面を見た。
 初診は十月四日だ。
このときは美里が仕事をしており、もう少しで辞めるため、落ち着いたら再診することにして、初診時に再診日を決めなかったのだ。
どうして武尊が十一月と言ったのかわかりかねるが、何か事情があるのかもしれないと感じた医師は、そこには触れずに話を進めた。

「……今は過去のことを言っても仕方ないので先のことを考えましょう」

「そ、そうですね。治療はいつからするんでしょうか?」
「たぶん、すぐに入院になると思います。紹介先の病院には、日にちを置かずに受診してください」

「美里が死ぬなんて、俺、無理だから……。どうしてもっと早く受診しろって強く言ってくれなかったんですか! 怠慢じゃないですか!」

「奥様へ看護師から伝えている電話の記録は残っています。電話で質問されても答えられませんし、こちらとしては『早く受診して』と、何度もお願いしていたのに、どうして受診しなかったのか? こちらが聞きたいですが」
 その言葉に、冷静さをかいた武尊の感情が一気に現実を見つめ返した。
 自分のせいだと思う武尊は、緊張で喉の奥が張り付いて、声が出せそうにない。
 飲み込む唾もないことはわかりつつ、ごくりと喉を動かしてみたが、もちろん解消されるわけもなかった。

 病院に付き添って欲しいと頼まれたとき、てっきり不妊検査を自分もさせられると思い、年内は休みを取れないと必死に抵抗した記憶が鮮明に蘇る。

 自分が巻き込まれたくなかっただけ。別に休みは取れたと思っている。
 あのとき取り合わなかった自分は、完全に間違っていた……。
 そう考える武尊の心臓がドクドクと煩いまま一向に落ち着く気配はない。

◇◇◇

 診察室から出た武尊は妻を探すが待合室に美里の姿はない。

 カタカタと小さく震える武尊は、幸せそうな夫婦を避けるように端を選ぶ。

 それから程なくして、採血を済ませた美里が腕を押さえながらやってきた。

 武尊の予想とは裏腹に、妻は彼の顔を見て、にこりと笑う。
 案外ショックを受けていないのか? そう思われてもおかしくないくらい、平静そのものに見える。

「なんだか大袈裟な話になっちゃったね」

「医者は大袈裟に言っておかないと、駄目なんだろう。後から悪く言われたら、誤診だって騒がれるからな。どうせ検査したら問題ないって。大丈夫だよ」
 震えそうになる声帯を必死に誤魔化し冷静を装うと、なんとか声を紡いだ。

「うん、きっとそうだね」

 現実逃避のような会話をしていれば、看護師から紹介状を受け取り、「お大事にどうぞ」と、立ち去り際に告げられた。

 病気なんかじゃないと、内心苛立つ武尊が言い掛かりをつけたい衝動に駆られるものの、横にいる美里を見てぐっと堪え口唇を噛む。

 紹介された病院には、その足で向かった。
 事前に予約が必要だと言われたら、その場で次回の診察を願い出るつもりだった。

 妻のことを一刻も早く検査してほしい。その一心で、自然とそれを選んでいた。

 たとえ空振りになっても構わないと考える武尊が提案したのだ。

 存外、今日の受診を断られることもなかったのは、先ほど診療を受けた医師から連絡が入っていたのだろう。

 診察までは驚くほどスムーズだったが、この日のうちに診断は出なかった。

「明日から精密検査をしましょう。項目が多く、事前の準備が必要な検査もあるため、入院した方が一気に検査を進められると思いますが、どちらがいいですか?」

「一日でも早く妻の検査が終わって、治療を始められるようにして欲しいです」
「では、明日の十時で入院できるようにベッドを確保しておきますね」
 と医師が言ったため、武尊が前のめりに同意した。

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