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11月22日 〜7回目の結婚記念日〜

 マンションの玄関が、ガチャリと閉まる音が聞こえたため、美里は次に開くであろう扉に顔を向けた。

 満面の笑みを浮かべると、疲れた表情で「ただいま」と言いながらリビングに入ってきた夫を労うように声をかけた。

「お帰り〜。今日は早かったのね」
 
「ってか、よく言うよ。散々『今日は早く帰ってこい』って騒いでいたのは、美里だろう。この時間に帰ってくるのに、どれだけ苦労したと思っているんだよ」
 ご機嫌な妻とは裏腹につっけんどんな声が返ってきた。
 食卓テーブルの椅子に黒い鞄をボンッと置いたまま動き出した夫の武尊。彼はクローゼットに向かいながら喋っており、妻の顔も見ていない。

「だって、せっかくの結婚記念日なんだもん、当然でしょう」
 面白くなさげにしている武尊の態度を目の当たりにした美里は、頬を軽く膨らませ、ムッとする。

 とはいえ言い返せばきりがない。
 そう思った美里は、喉の奥まで出かけた言葉を飲み込み、キッチンへと向かう。

 少しすると、部屋着に着替えた武尊が、対面キッチンから、ひょいと顔を出す。

「そういえば、今日で結婚何年目なんだっけ?」

「ええ~酷い! 覚えてないの⁉」

「覚えてないわけじゃないけどさ……六年だっけ?」

「ぶぶぅ~っ! 違うわよ」
 ジト目の美里が武尊を見つめるが、彼は小首を傾げたままだ。
 耐え切れなくなった美里が答えを出す。
「結婚して七年でしょう」

「ああ~悪い悪い、怒るなって。数え間違いだから」
 明らかにムッとした顔になった妻をなだめようと、武尊は自分たちの結婚について語り始めた。

「俺たちが二十八歳のときのいい夫婦の日に結婚したんだもんな」

「そうよ。忘れないでよね」

「もうずっと一緒にいるから、何年だったか数えられなくなってきただけだって」

「まあいいや。ご飯にしましょう」

「妊活のために仕事を辞めて、家で絵を描くって言ったときは反対だったけど、こうやって毎日美里の手料理が食えるのって、いいよな」

 その言葉で妻は機嫌が良くなったようだ。ふふふっと声に出して笑っうと、温まった鍋から嬉しそうに料理をよそう。

「そうでしょう。ブラック企業で働いていたら、妊娠以前に武尊に会えないもんね。やっぱり辞めて正解だったな」

 そう言った美里が、カウンターにコトンと音を立ててシチューの皿を置いた。

 それを目にした武尊が、それまでのテンションが嘘のように活気づく。

「よっしゃぁ! ビーフシチューじゃん。これ、めっちゃ好きなんだよ! 美里の料理はどれも美味いけど、これは店で食うより断然、美里のがいいんだよな」

「はいはい、喋ってないでテーブルに並べてよね」

「早く食べようぜ」

「そうだ、ワインもいるでしょう」

「もちろん」
 ご機嫌に返す武尊も参加し、夕飯の準備を整えていく。

 勝木家の食卓は、美里お手製のビーフシチューと近所のパン屋で買ったバケットとグリーンサラダが並ぶ。

 一足先にワインを持った武尊が食卓に着席し、妻が来るのを待つ。

 武尊は美里が席に着いたのを見計らうと、ポンッと音を立て、自分で選んだスパークリングワインをグラスに注ぐ。

 そうして顔を見合わせると「カンパーイ」と声が揃った。

 ワインを口に含んだ後、武尊がすぐさまビーフシチューをぱくりと頬張る。

 彼が美味いと叫ぼうとした矢先──。
幸せそうに料理を食べる夫の姿を目を細めて見ていた美里が、意味深な質問をした。

「良いニュースと悪いニュース。どっちから先に聞きたい?」

「ん? なんだそれ」
と言い、首を傾げる武尊は、少し前までにこにこしていた美里の瞳が、真剣そのものに変わっていることに気づいていない。
気持ちの半分以上が食事に向いて、上の空の武尊は、あまり深く考えず「良い話から」と告げた。

 そうすると、にっと笑う美里が嬉しそうに、聞いて聞いてと前のめりで話し出す。

「実はね、出版社からイラストの仕事依頼が届いたんだ」
「イラストの仕事って?」

「何かの賞を取った小説の表紙だって! すごくない!」

「へぇ~、まじか。個人でやっていても、そんな仕事がくるんだな」

「そうみたい。SNSの投稿を見た作家さんが、私の絵を推してくれたんだって」

「やったじゃん。その作家さんは見るが目あるな。美里の絵はまじで上手いし、本だって売れるんじゃないの!」

 美里の想像以上に武尊が褒めてくれた。それが余ほど嬉しいようだ。
彼女は握っていたスプーンを一度皿の上に置くと、幸せそうに両掌を組み、ふふっと笑った。

「私が描いたイラストの本が書店に並ぶのよ」

「凄いな!」
「すっごく嬉しくて、今から楽しみで仕方ないな〜」

「良かったじゃん。頑張れよ! 発売されたら俺も買うかな」

「ふふっ、どうせ本なんて読まないくせに、よく言うわね」
 美里がくすくすと笑う。

「いいんだよ、観賞用だから。ってか、悪いニュースってなんだ? ゴキブリでも出たのか?」

 武尊が周囲の床を見回す。

「違うわよ。ほらっ、不妊症の検査をするからって、病院に行ったでしょう。それで、次は武尊も一緒に来て欲しいって」

「ええぇ~、俺、絶対に嫌だって。面倒だし」

「なによそれ。絶対に子どもが欲しいって言っていたのは、武尊でしょう」

「妊娠なんて自然に任せればいいだろう。そうすれば、ちゃんとできるって」

「そういって7年経っているじゃない」

「ってか、美里の検査の結果だろう。一人で聞けばいいじゃん」

「だって先生が……夫婦で来てって言うから」
 申し訳なさげに下を向く美里は、途中言葉に詰まりながら夫を説得した。
 その一方、きりっとした表情を見せる武尊は、一切折れる気はないようだ。強い口調で言い放つ。

「絶対にやだね。不妊の検査をするって言い出したときに、俺の検査はしないって、はっきり言っただろう」

「それはわかってるって」
「ってことで、俺は行かないから」

「違うの……なんか、検査の結果を武尊にも伝えたいんだって」

「別に聞かなくてもいいよ。俺は休みも取れないし」

「ねぇ、お願いだから一緒に来てよ。検査の結果だよ!」

「って、言われてもなぁ~。ちょうど大きな契約の仕事を進めているし、年末も近いからまじで休めないからさ」

「先生が、なるべく早めがいいって言うんだよね」

 真剣な口調の美里が手を合わせ、片目を瞑り頼み込む。

「とか何とか言ってさ、俺を騙して病院に連れていく魂胆なんじゃないの?」

「ち、違うわよ」
 慌てる美里が手を振り否定する。その様子が何か胡散臭いなと思った武尊が、流し目で見ながら言った。

「夫へ妻の検査結果をわざわざ聞かせるって変だもん」

 美里は嘘など言ってない。ただ申し訳ないと感じているだけだ。結婚7年目となれば、年末は忙しいことなど重々承知で頼んでいるのだから。
 それでも頼まなければいけないからこうしてお願いしている。
自分の言葉を、どうして信じてくれないのだろうと思う美里が、まっすぐ彼を見つめ返し訴える。

「本当なんだって!」

「どうかなぁ~。でも、何回頼まれても無理なものは、無理だって。今の契約が取れるかで、昇進もかかっているんだから。どうせ急がない話なんだし、来年に入ってからでもいいんだろう」

「ええぇ~。そうなると、1か月半も先になるじゃない」

「いいって、いいって。まあ、来年じゃなきゃ無理だから、早く聞きたいなら一人で行きなよ」

「そう……。わかった」
 しゅんとしょげる美里が弱々しく発したため、武尊がご機嫌をとろうとスプーンを動かす手を止めた。

「ごめん。次は付き合うから」

 それを聞き、考え込んだ美里が、真剣な眼差しを向けた。

「やっぱり二人で行こう。『子どもができない体です』みたいな悪い結果を一人で聞いたあとに家まで帰ってくる自信もないし、明日、病院に電話しておくね」

「年明けね……」
「もっと早くできないの?」
「無理だな」
「まあ、来年でもいいっか」

 必死に説得するものの、頑として譲らない|武尊《たける》に根負けした美里が折れ、話は終わった。

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