第102話 質素を旨とする殿上貴族の食卓
質素を旨とする西園寺家のすき焼きの割り下には、純米酒でも最低品質の酒が使われるのが慣わしだった。嵯峨惟基も、兄である西園寺基義もそのまま割り下に使った残りの燗酒を使って手酌で飲み始めた。一見、貧相に見えるその食卓も『人造肉さえろくに食えない平民の暮らしを思いやれ』と言う西園寺家の家訓からすればはなはだ贅沢な食卓と言えた。
「どうだ……いい具合に煮えてるな。ああ、肉はケチるなよ。今日は一仕事終えたんだ。それなりに食って英気を養おうってもんだ」
西園寺義基のその言葉を聞くと、嵯峨は殿上貴族が食べるものとは思えない筋張った安物の肉をぐらぐらとゆだる鍋に放り込んでいった。
殿上会に初めて顔を出した嵯峨はそこで浴びた冷ややかな視線を思い出して皮肉めいた笑みを浮かべながら、鍋を暖める電熱器の出力を上げた。年代モノの電熱器のコイルの赤く熱せられた光がちゃぶ台を赤く染めた。
「ああ、そう言えば康子姉さんはどうしたんすか?こっちには相変わらず顔を出さないんですか?俺に来いと言っておいて留守にするとは義姉さんも勝手だな」
嵯峨の言葉に西園寺義基にんまりと笑う。西園寺義基と妻の康子は同じ西園寺御所と呼ばれるこの広大な敷地の土地には暮らしてはいた。しかし、庶民的な古風な木造の一軒家と言う雰囲気の西園寺義基の暮らすぼろ屋とは別に、貴族達の応接も可能なそれなりの豪華な屋敷で康子は多くの召使とともに暮らしていた。
別に夫婦仲が悪いと言う訳ではないのだが、庶民気質で贅沢が嫌いな西園寺義基と実は政治好きで裏で『官派』の殿上貴族達とも交流を持つことのある康子とは日常生活を暮らす趣味が違いすぎた。
「ああ、今日は出かけてる。なんでもかえでの家督相続の披露のことで相談があるとか言ってたな。かえでや赤松夫妻なんかと一緒だそうだ。残念だったな。立派な『お師匠様』にその成果を見せることが出来なくて」
そう言うと西園寺は煮えた肉を卵の溶かれた取り皿に移していった。
「面倒くさいねえ。家督相続にあんな手間がかかるとは思いもしなかったよ。俺の時は戦時中だからってことでまったくなんにも無かったのに。
嵯峨は皮肉めいた笑みを浮かべて義兄である西園寺義基を見つめた。その右手にはいつも通りタバコが有り、その隣には安物の灰皿が転がっていた。
「そりゃあ、お前さんの家督相続の時は戦時中だったからな。しかもうちは売国奴扱いされた家だ。派手な披露なんてできる状態じゃなかったろ?それに理由は……いや、このことは言わねえ方がいいか……まあ、親父は当時は前宰相兼太政大臣だったからな。この国では関白太政大臣の言うことがすべてだ。その太政大臣が決めたことに文句を言う貴族なんてこの国には居ないよ。だからかなめにはもう少し大人になってもらいたいと思ってお前のところに預けてるんだ。どうだ?少しはマシになったか?」
「あれにマシになる見込みがあると思うか?義兄さん」
嵯峨の言葉一つで、西園寺義基はすべてを理解してがっくりとうなだれた。
かなめの話題に飽きて顔を挙げた西園寺の顔は笑っていなかった。反戦政治家の最後の抵抗が嵯峨家の相続と言うあまり格好のいい話では無かったことは二人とも十分承知していた。
そしてその結果が父と嵯峨の妻、エリーゼの死とかなめの義体化という結果を招いたことは事実だったので黙り込むしかなかった。
「それにしても今日はお前さんに居てもらって助かったよ。『官派』の武家の連中が俺が出て行った途端に斬りかかってくると思ったが……静かなもんだった。あれだけ貴族院じゃ俺の事をぼこぼこに殴ってきたのに隣にお前さんが居ると言うだけであの様だ。法術師相手に喧嘩を売るほど連中も馬鹿じゃ無かった。そう言うことか」
西園寺はそう言うと春菊を手にした卵を溶いた椀に移す。
「俺もあそこまで法術師が恐れられてるとは思わなかったね。これじゃあアメリカさんが俺を生体解剖してでも法術師の秘密を知りたかった理由が分かるってもんだ。でも、義兄さん。少しは感謝して……金貸してくんねえかな。せっかく甲武に来たんだ。久しぶりに遊郭で遊びたいと思うんだが……」
いつもの『駄目人間』の表情が嵯峨の顔には浮かんでいた。
「駄目だ駄目だ!茜には強く言われている。『お父様が遊郭に近づく金を手に入れないよう監視してください』とな。お前さんの行動なんぞ娘にはすべてお見通しだ。まったく、貴様は男には強いが女には全く勝てないんだな」
笑顔で西園寺は嵯峨に向けて茜の嵯峨にとっての死刑宣告に近い言葉を伝えた。がっくりとうなだれる嵯峨だが、すぐに顔を上げてその表情を笑顔に変えた。
「そう言う義兄さんも康子さんには頭が上がらないじゃないですか。すべてを好き勝手にされて……康子さんが『官派』の連中と会ってるのは昔の諜報部の仲間から聞いてるんですよ。『官派』の連中も康子さんを使って何がしたいんやら……まあ予想では逆に利用されてお終いってのが俺の読みですが」
嵯峨に痛いところを突かれて西園寺は渋い表情を浮かべた。
「俺と康子はオシドリ夫婦って呼ばれてるんだよ。喧嘩をしたことはこれまでだって一度も無い。あれにはあれの考えが有るんだ。まあ、『官派』の連中も大変な『鬼女』と会ってたって後で後悔することになるだろうな。自業自得さ」
妻を信用しきっている西園寺はそう言って今度は鍋の白滝を椀に移した。