5話 まるでケモノのような
U.K.シティの中心部にあるキックボクシングジムは、夕方を迎えてもエネルギーに溢れていた。
錆びた鉄の匂いと汗の混ざった空気が漂い、ミットを叩くリズミカルな音やトレーナーの怒号が交錯する中、生徒たちはそれぞれの限界に挑んでいる。ここでは、日常の喧騒から離れ、己との戦いに没頭する者たちが集う。
リングでは、一人の若い男が軽やかに動き回っていた。
先日プロデビューを果たしたばかりの彼、マルティネッリは、その華麗なフットワークと自信に満ちた微笑みで観客たちの視線を集めている。彼の動きには確かに力強さがあったが、どこか油断の影が見え隠れしていた。
リングサイドでは、白髪混じりのトレーナー、ロレンツォが腕を組みながら彼をじっと見つめていた。その表情は険しく、まるでマルティネッリの隙を探し当てようとするかのようだ。そして、突然その静寂を破るように、ロレンツォが低いが鋭い声で叱責した。
「おい、浮かれるな。マルティネッリ。お前はまだ“ プロになったばかり” だぞ。」
その言葉が響いた瞬間、ジム全体が一瞬止まったかのように静まる。しかし、その空気を感じ取る様子もなく、マルティネッリは肩をすくめて飄々と答える。
「わかってるよ、ロレンツォ。あんな相手、遊びながらでも勝てら。」
彼の軽薄な発言にロレンツォは眉間にシワを寄せたが、それ以上は何も言わず、傍に寄ると手に持っていたタオルを投げつける。
「よし、少し休め。」
タオルを片手で受け取ったマルティネッリは、乱れた黒髪をかき上げながら汗を拭う。
そしてリングから視線を外し、ジム全体を見渡した。周囲の生徒たちは懸命にトレーニングに励んでいたが、彼の目にはどこか物足りなく映る。そんな時、隅でサンドバッグに連打を浴びせる金髪の少女が目に留まった。
彼女の動きは軽やかで、一見力強さには欠けるように見える。
しかし、そのフットワークのスムーズさとコンビネーションの速さは、ジム内でも異質だった。マルティネッリは思わず彼女を指差し、ロレンツォに問いかける。
「へい、ロレンツォ。あれは誰だ?」
「ああ、ありゃあネルだよ。ストレス発散でたまにウチに来る。」
ネルという名前を聞いたマルティネッリは興味を抱いた様子で彼女をじっと見つめた。
彼女の顔にはまだ少女らしさが残るものの、成長し始めた大人の女性らしい雰囲気も漂っている。そのアンバランスな魅力に、彼の笑みが自然と浮かんだ。
「おい、あの子に手を出すなよ。」
ネルに近づこうとするマルティネッリに、ロレンツォが即座に釘を刺す。
「分かってるって〜」
軽く手を挙げて返事をするものの、ロレンツォを見ようともしないその姿に、彼は深い溜め息をつく。
「なぜ不真面目なヤツは向上心があって、真面目なヤツは向上心が無いんだろうな……。」
ロレンツォの呟きは、ジム内の雑然とした音にすぐかき消されたが、その言葉の重みは確かに誰にも届いているようだった。
◇
ネルはジムの隅で、サンドバッグと向き合っていた。
その金色の瞳には微かに迷いや悩みの影が宿っている。しかし、一度拳を握ると、その影は見る間に霧散し、彼女の表情は冷徹な戦士のそれへと変わる。
彼女の動きは正確無比。無駄な動作が一切ないその姿は、まるで精密な機械がプログラム通りに動いているかのようだ。ジャブ、ストレート、ハイキック――軽快でありながら鋭い動きが、リズミカルな打撃音とともにジムの空気を切り裂いていく。そのスピードと威力は、素人の域を遥かに超えていた。
ネルは何も考えない。
ただ、心の中に渦巻く葛藤や重圧を、一撃一撃で消し去るかのようにサンドバッグを叩き続けた。額を伝う汗が彼女の視界を曇らせる頃、心の中の霧も少しずつ晴れていくようだった。
そんな中、ふと背後に誰かの気配を感じて動きを止める。振り返ると、マルティネッリが両手を大袈裟に叩きながら近寄ってきた。その体格はネルの倍近くもあり、ジムの照明の下でさらに大きく見える。
「いやぁ、素晴らしいね、君。ネル、だっけ?」
「……はい。」
マルティネッリは口角を上げながら、ネルの体を品定めするように眺め回す。華奢な身体から生み出される、あの正確無比な動きと力。それが不思議で仕方ないのか、彼の興味は次第に際どい方向へ向かっていった。
そして、唐突に彼は芝居がかった調子で言い出す。
「本当に素晴らしいよ、君はプロになれる逸材だ。」
「……ありがとうございます。」
彼はその場に立ち止まるどころか、ネルに近づき、肩に手を置こうとする。しかし、ネルは軽やかなステップでそれをかわす。
「どうだろう? プロの俺が教えてやってもいいぜ。」
「結構です。」
ネルの即答が鋭く突き刺さり、マルティネッリの顔が微妙に引き攣る。それでも諦めず、彼は慌てて両手を広げ、ネルの前に立ちはだかった。
「お〜い!待てよ。確かにネルの速さはいいと思うが、パワーが足りないと思うぜ。特訓すればきっとプロになって稼げるはずだ!未来のチャンプになる俺が指導するって言って──」
彼の言葉が終わるより早く、ネルは無言でハイキックの構えをとった。その動きの鋭さに、一瞬周囲の空気が張り詰める。
そして、彼女が振り下ろした足がサンドバッグに炸裂するや否や、ジム中に轟音が響き渡った。
サンドバッグを吊るしていた金具が音を立てて外れ、重たい袋が床に叩きつけられる。木製の床が微かに揺れ、ジム全体が沈黙に包まれる。その中心でネルは呟いた。
「あ、やば……。」
その異変に気づいたロレンツォが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「あ、はい……。」
ロレンツォはネルを一通り確認すると、サンドバッグを調べ始めた。古びた金具を手に取り、ジムの誰にともなく独り言のように言う。
「もう古くてガタが来てたんだな。ケガがなくて良かったよ。」
ネルが力任せに壊したのは明らかだったが、ロレンツォはその事実をあえて口にせず、事態を穏便に済ませようとしている。それを見てネルは居心地悪そうに目を伏せると、静かにその場を後にした。
「じゃあ……私はこれで……。」
その背中に向かってロレンツォが大声で答える。
「おう!お疲れ、また来いよ!」
ネルは一度だけ振り返り、小さく頭を下げると、更衣室に向かって歩いていった。彼女の姿が見えなくなるまで、ジムの中には奇妙な静寂と、未だに呆然とするマルティネッリと、床に転がったサンドバッグが残っていた。
◇
外はすっかり夜の帳が降り、街は幻想的な光に包まれていた。
石畳の道や広場には柔らかなイルミネーションが輝き、噴水の水面には揺れる光の反射が踊る。
手をつないだカップルたちが微笑み合いながら歩き、子どもたちは光るバルーンを手に戯れ、親たちはその姿を穏やかに見守る。どこからともなく聞こえるバイオリンの音色が、静けさを優しく満たしていた。
彼女は薄暗い路地裏で服を着替え、こっそりと表通りに足を踏み入れる。
目の前の華やかな光景に目を奪われつつも、彼女の心にはどこか疎外感が渦巻いていた。ロレンツォの親切に感謝しつつも、どう接するべきか分からないまま、自分の居場所をまた一つ失ったような喪失感が胸を締め付ける。
「帰ろ……。」
彼女は汗だくのジャージ姿で街を歩きながら、通り過ぎる人々の視線に笑われているような気がしてならなかった。
やがて広場へと足を踏み入れると、大型ディスプレイが目に入る。そこでは青緑の髪をツインテールにしたアイドルがステージで歓声を浴びながら歌い踊る映像が映し出されている。
「ミクちゃんだ……。」
片側にまとめた金色の髪をそっと触れながら、ネルはディスプレイに釘付けになる。
左手にはイルミネーションの光が輝く大通り、右手には美味しそうな香りが漂う繁華街。その真ん中で、かつて彼女を励まし憧れさせたが、決して手が届かない存在を見上げていた。言葉を失ったまま、彼女は静かに暗がりを求めて歩き出す。
「明日から仕事探さなきゃ……。」
現実の重さが彼女の小さな肩にのしかかる。だがその時、どこからか心地よいギターの音色が聞こえてきた。それは夜の静けさに優しく溶け込みながら、まるで彼女を誘うように響いていた。漂う光の粒に導かれるように、ネルは公園へと足を進める。
街灯の光に群がる蛾を背に、一人の女性がギターを弾いていた。
淡い紫色の髪を二つに分けてまとめた彼女は、静かにアコースティックギターを抱え、その音色は夜の空気を震わせるほど美しかった。ネルが近づくと、女性は微笑みを浮かべて声をかけた。
「あら、今日は随分可愛らしいお客さんね。」
「ギター上手なんですね。」
その言葉に女性は少し目を見開き、驚いたような表情を見せた。そして、そばに置いてあったバッグのファスナーを静かに開け始める。
「あなた、少し変わってるわね?」
「ああ、よく言われます……。少し演奏聞いててもいいですか?」
女性は口元に笑みを浮かべると、バッグの中からチェーンソーを取り出した。
「いいわよ……楽しみましょう……。」
「え…?」
その瞬間、女性はチェーンソーを構え、一気にネルとの距離を詰める。エンジン音が夜を引き裂くように響き渡り、ネルはとっさに飛び退いた。
「うわああ?! 何するんですか!? 当たったら死んじゃいますよ!」
「うふふ、今日は上物ね。どんな姿に変わるのか、楽しみだわ!」
女性は再びチェーンソーを振り上げ、ネルを狙う。しかしネルは素早く体を動かし、ギリギリでその刃をかわした。足元が乱れながらも、彼女は振り返らずに走り出す。
「なんで今日はこんなについてないの!?」
後ろを振り返ると、チェーンソーを持った女性が笑みを浮かべながらゆっくりと追いかけてくる。
「ふふ、もう結界の中だから逃げられないわよ。鬼さんどちら、チェーンソーが鳴るほうへ……。」
静かな夜に響く笑い声とエンジン音。ネルの心臓は激しく脈打ちながら、暗闇を必死に駆け抜ける──