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文献蒐集部という名の弾倉

 譲夜(ゆずりや)折紙の足取りは重かった。目の下の巨大なクマが睡眠不足を如実に表しているが、それが重い足取りの理由ではない。昨日まで同じ部署に所属していた同僚は遠目から同情こそすれど、声を掛けようとはしない。彼女の異動先を思えば安易に近づく事すら(はばか)られるのは当然だった。

(いっそこのまま退職届投げて帰ってやろうか……)

 折紙が配属されたのは文献蒐集(ぶんけんしゅうしゅう)部である。
 文献蒐集部――国家プロジェクトによって全ての出版社に設置を義務付けられている部署であり、収益性の高さからその事業を専門とする企業も存在するほどで、そのため当然他の部門よりも一段高い給与が支払われている。また業務内容はその名の示す通り、全国各地を回って文献を蒐集するための部であり、そこに誇張の入る余地は無い。

 ただ、その文献の多くが目に入るだけで人体を害する可能性がある事と蒐集作業員を狙う不埒者がいるだけで。

 それ故に人員の入れ替わり激しく、外に出た人間が戻ってこない事から付いた仇名が『人間弾倉』。それを当時聞いていた折紙は、それなら誰が込められるかはロシアンルーレットだな、なんて他人事の様に捉えていた。
 結果的に込められたのは折紙だったわけだが。

(紙っぺら一枚でアタシの人生弄びやがって畜生……)

 その『紙っぺら』を退職届にすることも、このまま踵を返して欠勤にすることも出来たが、結局それを選ばず、無人の特殊編纂(へんさん)室へ這入った。会社の意向に異議を唱えて退職したところでその先が無い事を折紙は十分理解していた。
 面従腹背。
 悲しき会社員の性。

 文献蒐集部はその性質上、部屋を割り当てられていない。そのため社内に寄る機会があれば(二度目がある人間なんてまずいないが)普段利用者のいない特殊編纂室を使用することになる。特殊編纂室も長方形のテーブルが一つとそれに合わせた椅子がいくつかあるだけの名ばかり会議室だが。
 ポスターも無ければ時計も無い。
 こんな空っぽの部屋でいつ来るか分からない担当者を只管待ち続けなければならないのだから、この異動はとことん外れ籤だ。追い出し部屋と何が違うのか。
 ただし、今回この場に限り――待ち続けずに済むという、その一点だけは当たりだった。

 「こんこん。こんにちは――じゃなくておはようございます」

 担当者が来るまでひと眠りしようと椅子を並べていた矢先、部屋のノックもせずに折紙の担当者は入ってきた。どちらが元の色か分からない程に太い黒と白の縦縞の長い髪を下ろし、ファッション代わりなのか大きめの懐中時計を首から下げた若い女だ。やたら厚い変更レンズを使った丸眼鏡を掛けているが度は入っていない。

(ノックも無しなんてマナー無さすぎだろ)

 と折紙は思ったが、それは折紙も同じだった。むしろ寝そべって待とうとする分、折紙の方がマナーが悪い。少なくとも女の方は被ってきただろうバケットハットを手に持っている。
 分が悪いと感じた折紙は気取られないよう、さり気なく姿勢を正した。

「はじめまして、譲夜折紙さんですね。私、文化庁記録回収班から参りました烏羽(からすばね)チェノワです」
「ああこれはどうもご丁寧に」

 ファッショニスタな格好とは裏腹に丁寧な身のこなしで手渡された名刺を折紙は軽々しく受け取った。この時代の名刺は一枚一枚がそれなりに値が張るため、目の前の相手はそれなりの立場であると伺える。しかしそんなことは折紙が知る由もなく、むしろ全く違うところに気が向いていた。
 折紙が受け取ったその名刺には『文化庁記録回収班 烏羽(からすばね)チェノワ』とご丁寧にルビも振ってある。

烏羽(からすばね)? 烏羽(からすば)じゃあなく? 鳥羽(とば)でも烏羽(うば)でもなく?)
(どっちにしたってそんな名、普通は出さないだろ。いや、普通じゃねえんだけども)

 折紙は退職届を書かなかった数分前の自分を後悔していた。それほどまでに烏羽の名は強烈なのだ。

「あ、えーと……烏羽(からすばね)、さん?」

 熟考を重ねた末、折紙は頭を掻く仕草をしながらいかにも三下な風を装い彼女の名前を確認する。万が一にもという既に底を割っている悲運に縋らずにはいられない。

「はい。なんでしょう譲夜さん」

 果たして、折紙が望んだ回答は返ってこなかった。
 折紙は頭を抱えた。

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