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傷だらけの黒い竜

 ――グルル。

「っ!?」

 暗黒の森に、せせらぎの音に紛れて|唸《うな》り声が響いた。
 それは地面を揺らすかのようにお腹に奥底まで響き、眠っていた恐怖を呼び起こす。

「ま、魔物……かな……」

 先程まであった、少し浮かれた気分はすっかり鳴りを潜め、目の前に死を突きつけられたかのように感じた。
 そして、思い出す。

 ――僕は、この森で死ぬために捨てられたことを。

 分かっていた。僕のちっぽけな命は、すぐに奪われる運命なんだって。
 でも……でも……っ。

「嫌、だよお……っ」

 僕の口から漏れたのは、死にたくないという思い。
 気づけば、僕は。

「っ!」

 暗黒の森を、全速力で走り出した。
 あの声から逃げるために。あの声の主に追いつかれないために。

「ハア……ハア……ッ!」

 僕は高くそびえる木々の隙間を、一目散に駆け抜ける。
 どこに向かって走っているのかなんて分からないけど、あのままあそこにいたら、魔物の餌になってしまうことだけは間違いなかった。

 だから……僕は逃げたんだ。

「あっ!」

 木の根っこに|躓《つまず》き、僕は勢いよく地面に転がった。
 暗黒の森は暗く、足元どころかほんのちょっと先すらも見通すことができない。

 だからこうやって、|躓《つまず》いて転んでしまうことも仕方のないことで。

「は、早く立たないと……って」

 木の幹だと思われる|それ《・・》に寄りかかり、慌てて立ち上がったんだけど。

「あ……」

 それは、木の幹なんかじゃなかった。
 黒く大きな……そう、山のように大きな|塊《・》。

 本当は。

「あ……あああ……あああああ……っ」

 周囲の木々にかろうじて隠れるほどの高さを誇り、漆黒の黒い鱗、折りたたまれた大きな翼、鉄すらも簡単に抉ってしまうと思われるような|鉤爪《かぎつめ》。
 その口は人間なんか何人も一飲みにしてしまいそうなほど大きく、|覗《のぞ》かせる牙は岩をも噛み砕く。

 そして真紅に染まる巨大な瞳と、先程聞いた絶望へと|誘《いざな》|唸《うな》り声。

『グ……グル、ル……』

 今日、僕は――竜と呼ばれる存在に出会った。

 ああ、そうか。
 僕はこの竜に、食べられてしまうんだ。

 これは、人間がどうやっても抗えるような、そんな存在じゃない。
 餌に過ぎない僕にできることは、ただその口の中に収められるのを待つだけ。

 ……ううん、違う。
 僕は恐怖と絶望で、この場から一歩も動けないだけだ。

 恐くてこれ以上見ることができなくて、身体が震えて、どうしようもなくて。
 いつ訪れるか分からない死を見たくなくて、僕はぎゅ、と思いきり目を|瞑《つぶ》り、最後の時を待つ。

 だけど。

「あ……れ……?」

 最後の時は、いつまで経ってもやって来ない。
 不思議に思い、僕はおそるおそる目を開ける。

『グル……ル……』
「あ……」

 恐くて涙でぐちゃぐちゃになったせいで、視界がぼやけてよく見えないけど……竜の身体が、赤く濡れていた。
 ひょっとしてあれは……血?

「あ……あ、の……」

 どうしてなのか分からない。
 でも僕は、気づけば竜に声をかけていた。

『グオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッッッ!』
「ひっ!?」

 威嚇するかのように竜が巨大な口を開けて|咆哮《ほうこう》し、暗黒の森に轟く。
 思わず僕は悲鳴を上げ、その場で腰が砕けてしまった。

 それなのに。

「け、怪我をしている……ん、だよね……?」

 僕は這いずるように竜に近づき、さらに問いかける。
 さっきまで心が恐怖に支配されていたし、暗黒の森の特性上視界が悪いから気づかなかったけど、よく見ると竜の鱗が所々剥がれていて、そこから赤い血が流れていた。

 顔も、可哀想と思えるほど傷ついていて。

『グオ……グオオオオオオオ……ッッッ!』
「大丈夫だよ。僕なんか、君の手にかかればすぐに死んじゃうほどちっぽけなんだから」

 気づけば僕は、この竜が恐くなくなっていた。
 こうやって大きな声で吠えているけど、それもなんだか無理しているだけのように思えて。

 きっと竜も、死にたくないよね。
 それは僕だって同じだもん。

 だから。

『グ……グル……ッ!?』
「じっとしててね」

 竜の身体に手をかざし、僕は回復魔法を使った。
 両手から淡い光が盛れ、それは竜の大きな身体を優しく包み込む。

「んしょ……大きいから大変だね」

 僕の魔法はちっぽけで、小さな怪我しか治せないし、そもそも竜に回復魔法が効くのかも分からない。
 意味がないかもしれないし、勘違いされて竜に食べられちゃうかもしれない。

 でも……それでも、僕は助けたいと思ったんだ。

「ふ、ふう……」

 竜の身体によじ登ったりして、とりあえずは怪我をしていたところ全てに回復魔法をかけることができた。
 ただ、本当に治ったのかどうか、僕には判断できない。

「え、えへへ。気休めにしかならないかもしれないけど」

 竜の顔の前にやって来ると、僕は苦笑して頭を掻いた。
 不思議なことに魔法をかけている間、竜は僕に何もせず、じっとしていてくれた。もちろん、吠えたりもしなかったよ。

「そ、それじゃ、僕はもう行くね」

 多分だけど、この竜は僕を食べたりしないと思う。
 何の根拠もないけどそんな気がして、そのままここから離れようとしたんだけど。

「あ……あ、れ……?」

 急に身体に力が入らなくなって、その場に倒れちゃった。

「おかし、い……なあ……」

 立ち上がろうとしても、身体が持ち上がらない。
 それどころかすごく眠くって、暗い森がさらに暗くなって。

 僕は……そのまま意識を失ったんだ。

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