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34話 ミルクの味は








「ご苦労様です!」


閉鎖された軍務大臣の屋敷。その黒鉄の門前に立つ憲兵が、敬礼と共に二人を迎えた。憲兵の視線は微かに怯えている。黒いローブに身を包んだ二人は、無言のまま軽く手を上げ、敷地内へと足を踏み入れた。昼間にもかかわらず、屋敷はどこか薄暗く、冷たい空気が漂っている。

門を通り抜けると、頭に黒いターバンを巻いた男が隣を歩く長身の男に話しかける。声は低く、場違いなほど落ち着いている。


「何か見つかると思うか?」

「……マリク、お前は大臣の部屋の前、白装束とやり合った場所を探せ。」


ナジームと呼ばれた長身の男の声は冷徹そのものだった。マリクは短くため息をつき、肩をすくめる。どこか諦めたような態度には、この任務への気乗りしなさが滲んでいる。それでも二人は玄関の扉を押し開け、屋敷の中へと消えていった。


「へいへい、で、何を探せばいいんだ?ナジーム。」

「ヤツの髪の毛だ。金髪は珍しい。恐らく外国の奴隷出身だろう。」


ナジームの冷静な説明に、マリクはますます気だるげな仕草を見せる。両手を頭の後ろに組み、歩調は一層緩やかになった。


「女の髪の毛を探せってか。まぁ、いいツラしてそうだったよな。」
「一本あればオーラの総量が分かる。数本あれば身体的特徴、数十本もあれば……」


ナジームが丁寧に言葉を続けるが、マリクは手をひらひらと振って遮る。二人は緩やかに曲がる階段を上がっていく。


「そいつの居場所が分かんなら、頑張るけどな。」


軽く投げたようなマリクの言葉にも、ナジームは真剣な答えを返した。


「呪術師ならそれも可能だ。金はかかるがな。」
「マジかよ、やる気出てきたわ。」


マリクは拳を手のひらに叩きつけ、音を立てる。彼の態度が一転し、興味を示し始めたのが明らかだった。


「女は捕まえたら好きにしていいのか?」
「マリク、女だと甘く見るな。色香に惑わされた瞬間、刺されるのはお前だぞ。」


ナジームの真面目な忠告に、マリクは短く沈黙した。二人が大臣の部屋の前で足を止めたとき、ナジームは静かに口を開いた。


「暗殺は女の領分だ。覚えておけ。」
「わぁかったよ。」


マリクが適当に返事をするのを聞き流し、ナジームは手を扉にかける。


「俺はこっちを探す。」


そう言い残し、ナジームは部屋の中へと足を踏み入れる。その冷静な瞳が、机に乱雑に積まれた書類と、大臣が倒れた場所を見据えた。木枠の窓は開け放たれ、わずかな風が部屋の沈黙をかき乱していた。


「さて……」


ナジームは目を細め、静かにその場を見回した。彼の視線の先にあるものは、真実か、それともさらなる謎か──












『解除条件を満たしました。スリープモードを解除します。』


無機質な声が脳裏を駆け抜けると同時に、ウタはゆっくりと目を開けた。次いで、部屋のドアを叩く音が耳に届く。乾いた音が部屋の静寂を破り、微睡む彼女を現実へ引き戻す。


「はーい、ちょっと待って!」


半ば反射的に音の主へ声を投げかけながら、ウタは自分の状況を把握するために視線を落とした。胸元にはルネの柔らかな金髪が広がり、彼女がウタの肩に顔を埋めるようにして穏やかな寝息を立てている。肌には一糸まとわぬ彼女の温もりが残り、シーツがその形を包み込むように散らばっていた。


「……」


ウタは静かにルネの身体をシーツで包み込むと、そっと彼女を横たえてベッドを抜け出した。冷たい床に足をつけると、その感触が目を覚まさせる。手早く服を身に纏い、深呼吸ひとつ。彼女は部屋の入口に向かい、ドアを開けた。


「お昼寝の最中にすまないな。ようやく会えたね、ウタ。」


扉の向こうには白いターバンを巻いた細身の男が立っていた。褐色の肌に黒髪が映え、静かな笑みを浮かべている。ウタは一瞬、警戒の色を瞳に宿らせたが、声紋ライブラリでヒットする。


「もしかして、アイマン?」

「お、素晴らしい。その通りだ、ウタ。ルネは?」


アイマンが大袈裟にウタを称賛すると、彼女は自然と微笑みを返していた。その笑みは控えめながらも温かく、互いに不自然な緊張感を解す。


「ルネはまだ寝てる。」
「そうか、起きたら下に来てくれ。アイシャもいる。」


アイマンの声には真っ直ぐな力が宿り、彼女が口にした「アイシャ」の名前はウタの耳に深く届いた。無事であることを告げる言葉が、思わず彼女の胸を安堵で満たす。


「無事でよかった。じゃあ後で。」
「ああ。」


短く応じると、ウタはドアを静かに閉め、踵を返した。すると、背後からひそやかな気配が彼女を襲う。


「わっ、びっくりした。」


ルネがベッドを抜け出し、ウタのすぐ背後に立っていた。思わず漏らした声に応えるように、彼女は僅かに頬を膨らませている。


「何も言わずにどこかに行かないで。」


彼女の口調には小さな拗ねた響きが含まれていた。ルネは身体にシーツを巻き付けただけの姿で、光に透けた布地が彼女の柔らかなシルエットを露わにしている。その姿は何の気負いもなく、むしろ無防備で、しかしそれがウタの内に抑え込まれた獣欲を刺激した。

喉が鳴る音が静かな部屋に響く。ウタは無言で目を伏せ、その感情を押し殺した。冷静さを取り戻すべく、彼女はそっと深呼吸を一つする。









ルネとウタが階段を降りていくと、一階の方から弾けるような声が響いた。


「ルネ!」
「アイシャ!無事に戻れたんだね。」


ルネは声の主を見つけると、躊躇なく小走りで駆け寄り、栗色の髪で褐色、白い衣服を身にまとったアイシャの手を取った。アイシャもその手をしっかりと握り返し、微笑む。


「荷物に入れてくれてた干し肉、美味しかった!」
「辛すぎなかった?寒くなるから香辛料も使ったんだよ。」


そんな何気ないやりとりが、まるで日常の温かさを取り戻す儀式のようだった。食べ物の話題に思わず笑みをこぼすルネは、少し照れたようにアイシャに教える。


「え?あれルネの手作り?!」
「そうだよ〜。」


その様子を、ウタは少し離れた場所から黙って見守っていた。彼女の微笑みは柔らかく、それ以上何も言わず椅子に腰を下ろす。だが、近くに寄ってきたアイマンがその静寂を破った。


「ウタ、アイシャを取り戻してくれて本当にありがとう。」


アイマンの深々としたお礼に、ウタは少し戸惑いながら肩をすくめる。


「い、いえ。元気そうで良かったです。」


ウタの返答は控えめだ。馬車を止め、テオと話しただけで済んだ任務の全貌を語る気にはなれなかった。


「早速、軍務大臣も片付けてくれたようだね。まさかこんな早く達成するとは思ってもみなかったよ。」
「ルネがいつも上手く導いてくれるので、私は弓を引くだけですよ。」


ウタの言葉は謙虚だが、彼女の言外の意味をアイマンは察した。「色々な意味で」という言葉が暗黙のうちに含まれているのだろう、と。


「そう謙遜するな。そういえば、共和国は今、大変なのか?皇帝付きの宰相が殺されたと聞いたぞ。」


その問いに、ウタは表情を変えず淡々と事実を語る。宰相が魔族だったこと、共和国がその混乱をうまく収めていること、そして現在は平和であることを。


「…そうか、魔族が……。いま帝国では世論が戦争にかなり傾いてきている。実は不確かだが、帝国にも魔族が入り込んでいるという情報が入ってきているんだ。」

「何が目的なんです?」


アイマンは椅子を引き、ウタの正面に座った。視線を移した先では、ルネとアイシャが調理場の方へ向かうのが見えた。


「分からない。帝国には魔族崇拝者が蔓延っていてね、上層部にもいるとの噂だ。」

「魔族が帝国と共和国の戦争を望んでいると?」
「その可能性はある。」

その重い話題を、軽やかな足音が遮った。調理場から戻ってきたルネとアイシャが、白い液体の入ったカップを二人の前にそっと置いた。


「ココナッツミルクよ。」
「ありがとう。」


ウタは心の中で小さな歓声を上げる。彼女はココナッツミルクが大好きだ。思わず立ち上がりそうになる衝動をなんとか抑えながら、感謝の言葉を口にする。


「アイマン、二人でお菓子作ってるね。」
「食べるのは任せてくれ。」


おどけたアイマンの言葉に、アイシャが目を閉じて笑う。「何を作る?」という声が二人の間で弾みながら、再び調理場へと戻っていった。


「しかし、軍務大臣が居なくなった今は、早々戦争できる状況ではないはずだ。」


再びアイマンの声が低く響く。真剣な話題に戻った彼は、次の依頼について口を開いた。


「急ぎではないが、次はとある奴隷商人を探って欲しい。なかなか派手に商売しているヤツで、魔族崇拝も隠す気がない。」

「やってしまうの?」


ウタの短い問いに、アイマンは言葉を失った。彼の目には、暗殺計画を数日で終わらせ、今は笑顔でココナッツミルクを飲んでいるウタの姿が映っている。その圧倒的なギャップが、彼の心に不安と安堵を同時に呼び起こしていた。

決して間違った依頼は出せない── 彼女に依頼できる立場の重さをアイマンは噛み締めていた。彼の思考が様々な事柄を逡巡していく──


「……とりあえずは情報収集が目的で頼む。亜人奴隷も取引されているはずだ。ターゲットは後で教える。」

「分かった。」


ウタの短くあっさりとした返答に、アイマンは内心で胃が痛くなるような気がした。その胸中を読み取るように、アイシャが皿に盛った甘いルカイマットを差し出した。


「あ、すまない。考え過ぎてしまっていたようだ。」
「アイマンは難しい事を考えると周りが見えなくなるのです。ごめんなさいね。」


その様子を見ていたウタは、追加のココナッツミルクをルネに継いでもらいながら、上機嫌で笑みを浮かべていた。本人は隠しているつもりだが、その嬉しそうな様子は誰の目にも明らかだった。


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