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29話 心臓に良くない日








『対象者、深部体温の上昇を確認。スリープモードを解除します。』


ヒザの上に彼女の頭を乗せ、眠っていたウタは、ルネの覚醒を感知して目を開ける。すでに金色の瞳がまぶたを開けて、こちらを見つめていた。窓の方に目をやるとちょうど陽が傾き、空が茜色に染まり始めていた。


「あ、起きた。」
「うん、君が起きるのが分かる。」


彼女はウタの顔に手を伸ばす。優しく頬を撫でていく。


「疲れたりしないの?」
「たまに...整理しないと、少し鈍化...動きが遅くなるかな。」


言葉を選びながら話すウタに目を細めるルネ。


「あなたの事、もっと知りたいな。」


その言葉はどこか温かく、それでいてウタには少し重く感じられた。頬を撫でる彼女の手をそっと握り返す。その手の感触を確かめるように目を閉じ、ウタは静かに口を開く。


「今の私を見てほしい、かな」

「…わかった。話したい時は話してほしい。」


目を開けると、金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。その純粋な視線を受け止めながら、ウタはふと考える。もし全てをさらけ出せたら、どれだけ楽になれるだろう、と。

その時、部屋のドアをノックする音が響く。

「ルームサービスかな。行ってくるよ。」







ふたりで少し早めの夕食を終えて、ひとり静かに支度を済ませたウタ。


「わたしは、陽が落ちてから出るよ。」
「うん。じゃあ行ってきます」


その言葉にルネはそっと服の裾を掴み、控えめな仕草で応える。そして、静かに顔を寄せて唇を重ねた。


「三つ子月が一番高くなるまでに会えるよ。いってらっしゃい」


まるで自分に言い聞かせるように話すルネ。ウタは踵を返してドアを開ける。

しかし、ドアを閉めかけた時にふと振り返る。そこには、いつもより小さく見えるルネの姿があった。笑顔を崩してはいないが、どこか心に空白があるように見えた。

ウタはためらいながらドアを閉めかけた手を止め、再び部屋の中に戻った。ルネは不思議そうに首をかしげる。


「どうしたの?忘れ物?」


ウタは何も答えずに彼女を抱きしめた。強く、そして確かめるように。その体温を感じると、胸の奥で何かが埋まっていくような気がした。


「いってきます。」
「はい。」


ルネの声が微かに震えていたが、笑っているのが分かった。その声に少しむくれた気持ちになりながらも、彼女を解放して踵を返す。

しかし、ウタは次の瞬間固まった。ドアが開いたままになっていたのだ。そしてその先にいたのは、ベルガールのフィア。

彼女と目が合った瞬間、ウタの機械仕掛けの心臓は爆発しそうなほどの衝撃を受けた。











夕焼けが赤く染める空の下、ウタは馬車を操りながら小高い丘を越え、街道を進んでいた。

彼女の目の前には、アルデンフォードのくすんだ外壁や星狼の塔がそびえる街並みが広がっている。その風景の中、ウタはふと塔の最上階に目を向け、望遠機能を使って覗き込んだ。窓際には赤い髪の女性の姿があり、遠くをじっと見つめている。


「テオはいつもあそこにいるんだね。」


星狼の塔はテオの居城だ、と城の宰相セリシアが言っていたのを思い出す。


「手を振ったら気づくかな?」


悪戯心が芽生え、最上階に向かって手を振る。

再び望遠で覗くと、テオがこちらに気づき、大窓から飛び出す瞬間を目撃した。翼を広げ、彼女は空へ舞い上がる。その光景に思わず望遠を解除するウタ。
彼女は鷹のように空を一周し、急降下を始めた。周囲の野鳥が驚いて飛び去る中、ウタは生物ではないにもかかわらず身構えてしまう。

そして、馬車の進行方向を塞ぐように、テオが降り立った。馬が驚いていななくのも気にせず、彼女は地面に触れる寸前でふわりと静かに着地し、軽い足音を残すだけだった。


「やぁ。さっきぶりだね。」
「うん、本当に来るなんて思わなかった。」


ウタがそう言うと、テオはきょとんとした顔をする。


「人の掌って、意外と遠くからでもよく見えるんだお。」

「でも、向こうを見てたよね。」


その言葉に、テオはニヤリと笑ってみせる。その笑顔にどこか、恐怖に似た薄ら寒さを感じるウタ。


「君こそ、いい目をしてるじゃないか。」
「一応、狩人だしね。」


最近始めたばかりとは言えず、ウタは言葉を飲み込んだ。


「ふーん。ねえ、どうやってルネちゃんを落としたの?あの娘、かなりガードが硬いはずだけど。」


ウタは少し考え、ルネとの出会いからこれまでを振り返る。


「教えたら、テオの秘密も教えてくれる?」
「いいよ♪」


テオははにかむように笑うと、馬車台に飛び乗った。馬が怯えている気がする。


「見張りはいいの?」
「いいよ、見張りじゃなくて、可愛い子探してるだけだから。」


そう言ってケラケラ笑うテオ。その飄々とした態度に、ルネの「真面目な人じゃない」という評価を思い出す。ウタは手綱を軽く動かし、再び馬車を走らせた。







焚き火を囲み、星空の下で二人は丸太に腰掛けていた。テオは霊気の話をしている。


「霊気はどこにでもあって、人が動くたびにそれも一緒に動くんだ。まるで水にミルクを落とすみたいに。」


それは目で見るものではなく、全身で感じ取るものらしい。


「人が動いて生まれた霊気は、少しずつボクに集まってくるんだ。塔の上にいると、とても満たされていく気がする。」

「そうなんだね。可愛い子も探せるし、お得だね。」


ウタの軽口に、テオは子どものように笑った。ふいに彼女が顔を近づけて囁く。


「誰にも言ってない秘密教えてあげようか?」
「うん、聞きたい。」


ウタも声をひそめて答えると、テオは囁くように告げた。


「ボクは…陛下のことが好きなんだ。」


隠し切れていると思ったのだろうか、と考えながら、ウタは微笑んでみせる。


「どんなところが好きなの?」


テオはかつて笑わなかった。人間への怒りで多くを傷つけ、心を病んでいた。しかし先代の皇帝に支えられた彼女は、今でもその恩を感じているという。


「陛下…ルナを見ていると穏やかな気持ちになれるんだよ。あんな小さな体で全部背負おうとしてる。」

「でも、それってロリk…陛下はまだ子どもだよね。」


突っ込むウタに、テオは焚き火を見つめながら視線を落とす。


「分かってる。でも、だから他の子も見てるんだお。」


テオの複雑な思いを感じたウタは、それ以上何も言わずにいた。

ふと、ウタの感知範囲に複数の気配が入る。テオも同じ方向を見ていた。ウタは焦りを押し隠し、帰るよう促す。


「…そろそろ帰らないと、陛下が心配しちゃうかもね。」

「そうだね。ルネちゃんも来たみたいだし。」


テオの言葉にドキリとしつつ、ウタは努めて平静を装う。しかしテオはどこか軽い口調で言う。


「で、どうやってルネちゃんを落としたの?」
「不運と無知のなせる技さ。」


気取った答えに、テオは困ったように笑う。


「なにそれ、次はちゃんと教えてよ?」
「分かった。また明日ね。」


はにかむように笑うと、テオはルネたちとは逆方向へ飛び去った。


「まるで逃げるみたいだね。ルネってそんなに怖いのかな。」


ひとり呟いたつもりが、背後から刺すような声が返ってきた。


「誰が怖いって?」


百メートル以上は離れていたはずのルネが一瞬で距離を詰めてきていた。


「いま、一緒にいたのはテオよね?何を話してたの?」


ウタは人差し指を唇に当て、勝ち誇ったように言い放つ。


「ひみつ。」


その後、三人を馬車に乗せて送ると、焚き火やテオに手を振ったことを理由にたっぷり叱られたのだった。








三つ子月が夜空に輝く中、ウタとルネは並んで外壁へ向かって歩いていた。すると、静かに雪が舞い降り始める。ルネはふと足を止め、両手を広げて空を見上げた。


「わぁ…雪だ。」
「好きなの?」


ルネは少し考え込んでから、微笑んで答えた。


「うん、好きかなぁ。少しだけ自分のことを隠しやすくなるから。」

「…どういう意味?」


ウタの問いに、ルネは小さく笑うだけで、また歩き始める。その姿にどこか謎めいた印象を覚えながら、ウタも後を追った。いつの間にか外壁のすぐ近くに来ていた。


「ほら、私の後ろにくっ付いて。」
「これくらい飛べるよ。」


ウタがそう返すと、ルネは一言「いいから」と返した。その真剣な口調に従い、彼女の後ろに回って抱きつく。


「もっと強く。」


言われるまま、ウタは力を込めてルネをしっかり抱き締めた。


「飛ぶよ。」


その一言が告げられた瞬間、二人の身体は空に向かって跳ね上がるように飛び出した。地面を蹴る感触はなく、浮遊感だけが全身を包む。雪が眩しい光を反射しながら、ルネの身体から舞い上がる。その光景に息を呑むウタ。やがて外壁の屋根にそっと着地した。


「雪が好きな理由、少し分かったかも。」


ウタがそう言うと、ルネは微笑みながら振り返った。


「ほら、もう一回飛ぶよ。」


楽しくなってきたウタは、さっきよりも力強くルネに抱きつく。彼女の周囲で白い雪が舞い踊り、二人はまた夜空へと飛び立った。

風を切る感覚、舞い落ちる雪、そしてルネの微かな香り── すべてが新鮮で心地よい。だが、着地のことをすっかり忘れていたウタは、勢い余って転んでしまう。


「いてて…。」


そんな彼女を見下ろし、ルネはクスクスと笑った。


「楽しいでしょ?」
「うん、でも次はもう少し慎重にお願いしたいな。」


二人は笑い合いながら、降り続く雪と夜の静けさを楽しんだ。





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