明の巻
「姉さん、先行くよ」
「幽巳ちゃん、今日は早いのね」
「朝練の準備があるんだ」
「主将ともなると大変ね」
「いつも片付け出来なくてゴメンね」
「いいわよ。いってらっしゃい」
姉の
いつもの朝の、いつもの会話だ。
安らぎと優しさに溢れた日常。
だが……
今は無い……
台所のコップを握り締め、幽巳は物思いに耽った。
霊那と幽巳は双子の姉妹だった。
母を早くに亡くし、父親は遠方へ単身赴任しているため、家事の大半を霊那が受け持っている。
私は部活やってないから……
そう言って霊那は笑うが、母親のいない妹が辛い思いをしないようにと、気を遣っているのは分かっていた。
温和で優しく、そして涙もろい自慢の姉だ。
あの日――
幽巳が部活を終え、帰宅すると霊那の姿は無かった。
いつもなら、
自分と同じ
幽巳の内に、微かな不安が
何故かは分からない。
双子ならではの虫の知らせだったのかもしれない。
耐えがたい不安に駆られた幽巳は、家を飛び出し
*********
通学路の途中にある公園まで来た時、ブランコに座る人影が見えた。
霊那だ!
周りに
「姉さん!」
慌てて駆け寄り、声を掛ける。
「こんなとこで何してるの?姉さん」
二度目の呼びかけで、ようやく姉が顔を上げる。
その表情を見た幽巳は、思わず息を呑んだ。
蒼白な顔に生気は無く、
「一体どうしたの?何があったの?姉さん!」
何度声をかけても反応が無い。
肩に手をかけ揺するが、人形のように揺れるだけだ。
どうしよう……
胸が詰まり涙が出そうになるが、頭を振り何とか落ち着こうとする。
どこか、身体の具合が悪いのかも。
呼吸を整えると、どうにか思考が働き出した。
こんな時は……
そうだ、救急車!
そう思い立ち、急いで鞄から携帯を取り出す。
操作しようとするが手が震えて、思うように動かなかった。
「病気じゃないですよ」
唐突に、背後で声がした。
驚いて振り向くと、黒いスーツ姿の男が立っている。
いつ現れたのかは分からない。
空手有段者である幽巳でも、全く気配が感じ取れなかった。
「誰よ、あんた!?」
幽巳が叫ぶ。
男は驚くほどの痩身で、頭には黒いボーラーハットをかぶっていた。
帽子から僅かに覗くキツネ目で、じっとこちらを睨んでいる。
公園に似つかわしく無いその
「まあ、誰でもいいじゃないですか。そんな事よりあなたのお姉さん、そのままじゃ危ないですよ」
幽巳の問いには答えず、スーツ男は薄ら笑いを浮かべて言った。
「何?どういう事!」
男の言葉に、幽巳は動揺を隠せなかった。
「どうやらお姉さんは、何かの【呪い】にかかっているようです」
男は両手を後ろで組んだまま、抑揚の無い声で言った。
「呪い?あんた……何言ってるの?」
幽巳は眉を吊り上げた。
なんだこいつ……
頭がおかしいのか……
「そんなもの、ある訳ないでしょ!」
「嘘だと思うなら、お姉さんの胸元を見て下さい」
声を荒げる幽巳に動じる様子も無く、男は平然と続けた。
平素なら全く相手にしないところだが、何故かこの時ばかりは無視する事が出来なかった。
尋常では無い姉の姿を、
幽巳は暫し悩んだ後、男に注意を払いながら姉の制服のボタンに手をかけた。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、勝手に手が動く。
僅かに開いた
「……あっ!?」
幽巳の口から驚きの声が漏れる。
喉のすぐ下あたりに、灰色の
それは、天気予報でよく見る台風の目のような形状だ。
目の錯覚かと何度も顔を
「な、何!……これ?」
幽巳は触ろうと手を近付ける。
たちまち、指先に感電したような衝撃が走った。
「あちっ!」
慌てて引っ込めるも、腕から肩にかけてかなりの激痛が残った。
肩口を押さえる幽巳の顔が、信じられないといった表情に変わる。
「ほほう、これはこれは……」
呆然と見つめる幽巳の背後で、先ほどのスーツ男が声を上げた。
「これは呪いではなく、霊障の一種ですな」
「……あんた……これが何なのか知ってるの?」
困惑から醒め切れぬまま、幽巳が男の言葉に反応する。
「ええ、知ってますとも。私はこういった事を調査している者ですので」
いかにも
「お願い、教えて!……教えてください……これは、一体何なの?」
幽巳の態度が一変する。
この訳の分からぬ状況を説明してもらえるなら、不審者でも何でも構わない。
とにかく、姉を助けないと……
男はその場でにやりと笑うと、静かに首を振った。
「見たところ、それは《神器による霊障》のようです」
「神器?」
初めて耳にする言葉に、幽巳はおうむ返しに呟くしかなかった。
「神器とは神の意志の込められた
わざとらしい口調で、男は話し始めた。
「お姉さんは、その神器に対して拒絶反応を起こしておられるようです。分かりやすく言えばアレルギー反応のようなものですな。それが胸元の黒い渦となって現出しているのです」
そう言って、男は大げさな仕草で両手を広げた。
「でも姉さんは、その……神器?とかいうものなんか持っていないし、見たこともないわよ」
男の説明をまだよく呑み込めていない幽巳が、追及するように詰問する。
「お姉さんの神器が何なのか、どこにあるのかは残念ながら私にも分かりません……しかし、その現象が神器の霊障である事は間違いない。お姉さんの身体が、神器との接触を拒んでいるのです」
男は偉ぶるでもなく、興奮するでもなく、ただ淡々と語った。
それが逆に、妙な説得力を生んでいた。
「じゃあ、姉さんは……一体、どうなるの?」
「おそらく」
声を震わす幽巳の顔を眺め、男は一呼吸おいた。
「数日の内に、お姉さんの思考機能は停止するでしょう。霊障の影響で、精神が
俺が事も無げに言い放つ。
幽巳は言葉を失った。
植物人間!?
姉さんが……
まさか……
胸の鼓動が、
男の言葉を否定するには、目の前の現象はあまりにインパクトがありすぎた。
幽巳の判断力は、次第に失われつつあった。
「何か……何か助ける方法は、無いんですか!?」
動揺で真っ青になりながら声を震わせる幽巳。
そんな……まさか……
【植物人間】という忌まわしい単語が、頭の中をぐるぐると回転した。
「一つだけあります」
抑揚の無い男の声が返ってくる。
ハッと我に帰ると、幽巳は男の顔を穴があくほど凝視した。
「それは何!?どうすればいいの?」
咳き込むように問いかける幽巳。
だが、それにすぐには答えず、男はゆっくりと近付いて来た。
そして幽巳の前に立つと、そのまま覗き込むような仕草をした。
「
男は冷ややかな口調で言った。
「……八握剣?」
震える声で反復する幽巳。
勿論、聴いたことも見たこともない名称だ。
「それは……どこにあるんですか?」
男は暫し沈黙した後、再び口を開いた。
「私の調べたところでは、八握剣を所有している者は、この世でただ一人しかおりません」
「誰ですか?それは」
幽巳が、高鳴る鼓動を抑え問い返す。
「あなたと同じ天津女学院の生徒……
その名を耳にした幽巳は、思わず言葉を詰まらせる。
神武時空──
自分の率いる空手道部と双璧をなす剣道部──
その頂点に座す主将の名だ。
会話したことは無いが、彼女の剣豪ぶりは
しかし何故、彼女がそんなものを持っているというのだ?
「あなたが知らないだけで、この世で神器を有する者は幾人も存在しているんですよ」
幽巳の心中を見透かしたかのように、男はすかさず補足した。
「ただ先ほども言いましたように、神器とは非常に貴重なものです。持つ者に絶大な力を与えてくれる宝です。それゆえ頼んだとしても、決して渡してはくれないでしょう。それに、もしかしたら……神武時空の実力は、神器の力によるものかもしれませんよ」
そう言って、男は肩を
彼女の強さの秘密は、神器によるもの……
神器から力を得ている……
男の放つ台詞が、ストレートに幽巳の胸中を貫く。
技能を磨くため鍛錬に励む自分たちと違い、彼女はそんなものから力を得ているというのか?
走馬灯のように輪転する言葉は、幽巳の中に形容し難い怒りを誘発した。
果たして、それが本当の実力と言えるのか!?
もはや、男の言葉そのものを疑う余裕など幽巳には無かった。
一度芽生えた疑念と憎悪は、止めどなく心中で増殖していった。
「では……どうすればいいの?」
怒りに歪む幽巳の顔を見て、男の目が不気味に光る。
「彼女から……神武時空から奪うしかありません」
その言葉に、幽巳は目を見開いた。
奪う!?
そんな……
そんな非人道的な事など、出来るはずが無い。
幽巳は否定するように、何度も首を横に振った。
「……ううっ」
その時、背後で霊那の呻き声がした。
振り返ると胸元を鷲掴みにし、苦悶の表情を浮かべている。
「姉さん!?」
急いで駆け寄る幽巳の手の中で、姉の身体が痙攣を繰り返す。
「しっかりして!姉さん」
「霊障が酷くなってきましたね。もうあまり時間が無いようです」
男の言葉が、鋭利な刃物のように幽巳の胸に突き刺さる。
「……本当に」
姉の身体を支えながら、幽巳が唸るように口を開く。
「本当に……八握剣があれば、姉さんは助かるのね?」
背後で、男の頷く気配がした。
幽巳は静かに立ち上がると、男の方を振り返った。
その表情は決意に満ち、両眼には憎悪の炎が燃えている。
「なら、私が……私が、神武時空から八握剣を奪ってくるわ」
幽巳のその言葉に、男の口角が大きく吊り上がる。
「よく決心されました。その決意に敬意を表し、いい事をお教えしましょう」
いかにも感心したような口調で男は言った。
幽巳は、
「私の調べたところでは、神器を有しているのはお姉さんだけではありません。実は、あなたも持っているのです。それがあれば、あなたも神武時空と対等の力を得られるはずです」
その言葉に、幽巳の顔が驚きに変わる。
「私も持っている!?……でも、体調は何ともないわよ」
「あなたの場合は、見たところ拒絶反応は無いようです。恐らく、うまく順応出来ているのでしょう」
男が、キツネ目を吊り上げ説明する。
「でも、そんなものどこに……」
その時ふいに、両手首に違和感が走った。
慌てて袖を捲り上げた幽巳の目に、黒いリストバンドが映る。
その表面には、何やら模様が浮き出ていた。
まるで、
そう……
逆さ卍の文様──
「ほう。そんなところにありましたか。どうやら、あなたの意思に反応したようです。ちなみにその神器の名は、
男が感心したように呟いた。
蜂比礼──
幽巳はその名を反復し、まじまじと文様を見つめた。
毎朝通学前に装着し、帰宅するまで手放す事は無いリストバンド。
練習中も、試合以外は付けたままだ。
汗が掌に
それは姉の霊那が、幽巳の誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだった。
以降、姉への感謝の意を込め、常時身につけるようにしている。
まさか、これが……
神器だったとは……
「……これ、どうやって使うの?」
幽巳は再び男の方に視線を向けると、両腕を差し出した。
その問いに、男の顔が嬉しそうに歪む。
「神器は、持つ者の精神力で発動します。ただ一心に集中するのです。武道で鍛えたあなたなら、何度か練習すればすぐ使いこなせますよ」
幽巳はリストバンドを目の高さまで持ち上げると、男の言うように集中した。
精神統一は慣れているので、さほど苦では無い。
何も考えず、ただひたすらバンドの文様を見つめる。
唐突に、意識が吸い込まれるような感覚に襲われた。
何か熱いものが、体内に流れ込むのを感じる。
それは頭から足の先まで行き渡り、まるで血液のように体内を循環し始めた。
そして、次の瞬間──
突然、リストバンドから黒い霧のようなものが噴き出した。
それは巨大な渦を巻きながら、幽巳の全身を押し包んだ。
やがて動きの緩慢になった霧は、再びバンドの中へと吸い込まれるように消えていった。
後に残ったのは、立ち尽くす人影が一つ……
全身を黒い
たった一度の挑戦で、幽巳は覚醒を成し遂げたのだった。