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壱章「伊能の異能」ノ壱

伊能(いのう)忠敬(ただたか)さん、アナタは神になりました」

 気が付くと、伊能は真っ白な空間にいた。体が軽い。

「ほほぅ」伊能は右を見て、左を見て、自身を見下ろして、それから正面の美女――三対の翼を持った金髪碧眼の異人を見すえて、優しく微笑む。「なるほど。それでは、アナタ様もまた、神かそれに比類するお方ですかな?」

「うふふっ」西洋の天使を思わせる洋風衣装を身にまとった異国人女性が、吹き出した。「事前情報で存じ上げてはおりましたが、本当に理解が早いのですね。この仕事を初めてずいぶんになりますが、五秒で立て直した方は初めて見ました。新記録です」

「いやぁ、お恥ずかしい。子供のころから、物覚えと物分りの良さだけが自慢でして。して、アナタ様のお名前をお聞かせ願えますかな?」

「オルディナ。アナタが住んでいた世界とは異なる世界、『ユグドラ』を治める者です」

「なるほど。そしてここは死後の世界、天国のような場所で?」

「そのようなところです。本当、驚くほど落ち着いていらっしゃるのですね。ここに来る人はたいてい、もっと驚いて慌てふためくものなのですが」

「見たところ」伊能は改めて自身を見下ろす。「二十歳は若返っております。あれほど痛かった胸も快復しておりますし、体も驚くほど軽い。まるで生まれ変わったようですじゃ」

「いわゆる『転生』というものです。伊能さん、アナタは一度天寿を全うしたあとで、若い体で生まれ変わりました」

 女神オルディナが、虚空から姿見を出現させる。
 伊能は姿見の前に立つ。シワの少ない精悍な顔立ち、まげ頭、着物の旅装、脚絆にわらじ。差している本差しと脇差しは、

「はははっ、竹光ですな。測量の旅を続けていたころ、ワシは方位磁針が狂うことを嫌って竹光を差しておりました。このようなところまで再現してくださるとは。して、ワシは何をすればよいので? それに、神になった、とは?」

「本当に話が早くて助かります。実は――」

 伊能は女神オルディナから説明を受ける。
 伊能が七十三歳をもって天寿を全うしたこと。
 死後、日本地図作成の功績を高く評価され、江戸幕府の継承国家である明治政府によって、『神階・正四位』に列せられたこと。
 オルディナが治める異世界『ユグドラ』は、彼女が定期的に『神気』を供給しなければ滅んでしまうこと。
 オルディナが直接ユグドラに降臨すると、その衝撃だけで大陸が一つ吹き飛んでしまうので、代理を立てる必要があること。

「そんな恐ろしいお方には見えませんが。可愛らしいお嬢さんではありませんか」

「まぁ、お上手。こう見えて、伊能さんの何万倍も生きているんですのよ? それと、この空間には神気を抑える結界が張られていますから」

 オルディナの代理になるためには、一定の神格が必要になること。『神階』持ちの伊能は代理としてうってつけの人材であること。
 伊能には特別な仕事はないこと。ただ、ユグドラに降り立って、自由気ままに数十年生きさえすればよいこと。

「何もしなくてもよい、と?」

「はい。アナタはいわば、私の神気をユグドラに供給するための蛇口なのです。あ、水道が一般的になったのは明治時代に入ってからでしたっけ?」

「なんとなく分かりますから、大丈夫ですじゃ」

「本当、助かります。それで、ユグドラへ送るにあたり、アナタに一つ、生前の特技やご興味にちなんだ『異能』を授けます」

「異能?」

「超能力、魔法のようなものですね」

「特技、興味ですか。不肖・伊能三郎右衛門(さぶろうえもん)忠敬の特技と言えばもちろん――」

「はい。今、浮かび上がってきました。それは――」

 女神オルディナの手の平に、温かな光の玉が生み出される。

「「測量!」」

 二人の声が重なる。二人で微笑み合って、

「ですじゃ」「ですね」

 光が伊能の胸の中へ吸い込まれる。伊能は強大な力を感じる。
 それから小一時間ほど、伊能は女神オルディナと話をした。ユグドラの地理、歴史、文化、一般常識。伊能がユグドラで不自由をしないようにと、オルディナが伊能の頭へ次々と情報を詰め込んでいく。

「アナタが降り立つのはミズガル帝国という国です。いわゆる『転生特典』というやつで、ミズガル語は最初から伊能さんの頭の中にインプットされています。異能には『性格系』、『職業系』、『シングル』という三つの系統があって――」

「なるほどですじゃ」

「アナタのユニーク異能【測量】には、付帯能力として『測量した範囲を地図としてウィンドウ表示できる』という機能があります。これは『ウィンドウ・オープン』と詠唱すれば表示され――」

「なるほど、なるほど」

「あら、ごめんなさい。私ったら。令和生まれの転生者相手ならともかく、江戸時代生まれの伊能さんに『ユニーク異能』だの『ウィンドウ・オープン』だのと言っても、困ってしまわれますわよね」

「ふぉっふぉっふぉっ、大丈夫ですじゃ。なんとなくでニュアーンセ(ニュアンス)をつかむのは得意なのですじゃ。最先端の天文学を学ぼうとすると、どうしても海外の書籍に手を伸ばす必要がありましたから」

 そもそも伊能は、五十歳で天文方に弟子入りして天文学を学びはじめ、天文学および地理学の権威となり、死後神として奉られてしまったほどの、学習力の権化である。
 女神曰く、『異能』には火を生み出したり空を飛んだり、といった超常の力を発揮するものがあるということだが、五十歳から新たな分野を学びはじめ、その分野の頂点に立ってしまった伊能の人外めいた学習力・学習意欲こそ、『異能』と呼んで差し支えない。

「あらやだ、もうこんな時間」

 女神オルディナがそう言った。途端、伊能は強烈な眠気に襲われる。

「お別れの時間です」女神が微笑む。「私の愛する世界・ユグドラで、アナタは自由に生きてください。アナタの成したいことを成してください。私はそれを、応援していますよ」

(ワシの、成したいこと、か)まどろみの中で、伊能は思う。

『アナタはもう十分に頑張ったのだから』

 思い出されるのは、先立たれた妻・ミチの、最期の言葉だ。

『アナタは生きて、アナタの成したいことを成してください』

 成したいこと、それは測量だ。蝦夷南部、伊豆、東北、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州。ほぼ日本全土を測量し尽くしたといって差し支えない伊能の道のりだが、未だ測量できていない地域も多かった。
 例えば蝦夷北部。信頼の置ける同志に代理で測量してもらったものの、自分の足で歩き、この目で確かめられなかったというわだかまりが残る。
 例えば九州の種子島、屋久島のさらに南に位置する琉球。
 例えば対馬の先にある朝鮮半島。半島のその先には、広大な明の大陸が横たわる。明の北にあるのはさらに広大な露西亜。西へ行けば印度と、コーカサス、さらにその西には欧羅巴、そこから南へ行けば阿弗利加だ。阿弗利加からさらに西、広大な海を隔てた無効には亜米利加大陸がある。
 世界は、広い。あまりにも広大だ。だというのに、自分の命はあまりにも短かすぎた。

(測量したい)

 今や完全に眠りの世界に落ち、あの世とこの世の狭間を漂う伊能は、寝たきりとなった暗く苦しい晩年を思い出す。肺炎で倒れ、自らの足で立ち上がることもままならなくなった晩年、『測量したい』という思いは痛々しいほどに、狂おしいほどに先鋭化した。

(測量したい測量したい測量したい)

 怨嗟のような願い。自らの足で立って、歩き、思うまま測量したい。

『アナタはもう十分に頑張ったのだから。アナタは生きて、アナタの成したいことを成してください』

 亡き妻の言葉が最初の原動力となったのは確かだ。だが妻の意思を全うするつもりが、いつしか測量の旅が楽しくて楽しくてたまらなくなり、辛く厳しい旅程、時に立ち塞がる数々の困難、つらくしんどい、それでもやはり楽しい測量の旅が、人生最高の楽しみになっていた。

(測量したい測量したい測量したい。測量、したい――ッ!!)

 こうして、異世界・ユグドラの最大国家・ミズガル帝国の片隅に、測量に取り憑かれた一人の怪物が降り立った。





     『 T S 伊 能 バ ト ル 』
  ~非戦闘スキル【測量】しか持たない伊能忠敬が、
   異能力者だらけの異世界で最強となった理由~

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