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12曲目『血とくれなゐ』

 百瀬ヤスシ。一つ年下の可愛い男の子。

 顔が可愛くて、背が高くて、足も速い。学年が違うから、今までは遠目に眺めているだけだった。けれどある日、そんな百瀬くんが『放課後・休日音楽教室』に見学に来た。チャンスだと思った。私は彼に、ドラムを教えた。彼は天才だった。

 始めて一分で8ビートを叩き、

 二分でフィルインできるようになり、

 五分で16ビートを覚えたバケモノ。

 絶対リズム感を持っていて、どれだけ長時間叩いても、1bpmのズレも生まない、リズムキープ力の権化。

 五分。五分だ。彼はたったの五分で、私が長年積み上げてきたドラムの腕を追い抜いてしまった。私は彼のことが、たまらなく欲しくなった。

 よほどドラムが気に入ったのか。その日から、彼は毎日のように『放課後・休日音楽教室』に来るようになった。早々に私の腕を追い抜いてしまったにもかかわらず、彼は私のことを、

『灯センセ、灯センセ』

 と慕ってくれた。私のことを、多少は異性として気に入ってくれたからなのか。もしくは、私がギターとベースも弾けて、逆に彼がコードのFも満足に弾けないくらいギターが下手くそだったからかもしれない。人間って、自分が逆立ちしてもできないことを平然とやってのける人のことを、手放しに尊敬してしまうものだ。もっとも私に言わせれば、『絶対リズム感』なんていうリアルチートスキルを持っている百瀬くん――やっちゃんの方が、よほど尊敬に値する人物だと思うけど。

 やっちゃんとのセッションを重ねるうちに、私はすっかりやっちゃんのことが好きになってしまって、もう、何が何でも彼女にしてもらうしかない、と意気込んでいた。

『さぁ、明日こそは勇気を出して告白するぞ』

 と決心したその夜、幼馴染で親友の海野アオからSOSの電話が架かってきた。

『また、手首切っちゃった』

 泣きながら語るアオの声は弱々しくて、今にもこの世界から消えてしまいそうに思われた。

 アオはいわゆる団地友達、公園友達だ。毒親の所為でいつもビクビク、オドオドしているアオを、私が引っ張るという構図が、幼稚園の頃には既にできあがっていた。あんなにも可愛くて良い子なアオが、おかしな親の所為で不幸になるなんて間違ってる――。子供特有の強い正義感に突き動かされ、私はアオの問題を何とかするべく立ち上がることにした。

 何はともあれ、必要なのは気分転換だ。リスカは良くない。何だか非道徳的な感じがするし、フツーに痛いだろうし、傷からばい菌でも入ったら大変だ。まずはリスカを止めさせる。そのためにも、リスカ以外に気分を解放できる手段を、アオに与えなくては。

「ねぇ、アオ。明日、音楽教室に来てみない?」



 翌日の放課後、手首に包帯を巻いて青い顔をしたアオが、音楽室に現れた。

「セッションしようよ。アオ、ピアノ弾けたでしょ?」

「か、簡単なコード回しくらいなら」

「ほら、この子はドラムのやっちゃん」アオの手を引き、やっちゃんに引き合わせた。

 その瞬間、

『まずい』

 と思った。二人とも、雷に打たれたみたいな顔をして、見つめ合っていたからだ。

 その後、アオは見事に回復した。

 当然だろう、素敵な彼氏ができたのだから。



   ♪   ♪   ♪



「みじめなのは私でした」くれなゐが、カラフルな絆創膏を撫でる。「ひどいですよ、やっちゃん。キミは私の名前を憶えていなかった。あれだけ丁寧にドラムを教えてあげた私のことを、あっさりと忘れてしまった。スティックの選び方は覚えてたのに、ね」



 あの綺麗な先輩女子、なんて名前だったっけ?

 焚き木、

 薪、

 松明、

 明かり……あれ?



「…………」俺は、言葉もない。くれなゐの言うとおりだからだ。

 俺はアオ先輩――『赤ちゃん』に一目惚れをして、あっという間に『灯先生』から『赤ちゃん』に乗り換えてしまった。いくら十年前のこととはいえ、『灯先生』の名前すら憶えていなかった。くれなゐになじられても仕方がない。俺は薄情者だ。

「けれど一目惚れってそういうものですよね。好きな人のこと以外、何も見えなくなる。私にとっては、キミがそうだった」

「何で俺なんかを――」こんな、モヤシ野郎なんかを。

「『なんか』じゃない!」くれなゐが叫ぶ。「あの頃のキミは、背が高く、足が速くて、器用で何でもできて、ドラムの腕もすぐに私を追い抜いてしまった。自信満々で輝いてた。カッコ良かった。もちろん、今のやっちゃんもカッコ良いですけどね」

 ……そうだったかもしれない。だけど、中学の始めで身長が止まり、周りに追い抜かれるようになってからは、うつむきがちになってしまった。

「でも」俺はくれなゐの手首を見る。「この前のデートのとき。もし俺が、くれなゐの手首を見たいと言ったらどうするつもりだったの?」

『見てみますか?』

『みっ、見ないよ』

「ふふ」くれなゐが悲しげに微笑む。「やっちゃんなら、そんなことは言わないでしょう? アナタがどんな人なのか、分かってますから。ずっとずっとずーっと見てきたんですから」

「そう、か……でも二人はどうして、こんなことを? 入れ替わるような真似なんて」

 そう。それもまた、大きな疑問だった。アオ先輩は、俺の元カノ『赤ちゃん』だった。家庭のことで悩んでいて、その悩みをリストカットにぶつけて、学校で『地雷女』と呼ばれてイジメられていた。俺はそんな彼女を何とかしたくて、全財産をはたいて地雷系の衣装を贈った。

『似合ってる。地雷系バンドだ。ロックだ!』

 だから、地雷系の格好をしているのは、本来はアオ先輩の方であるはずなのだ。なのに、四月に出逢った頃から地雷系の格好をしているのはくれなゐの方だった。くれなゐは『赤ちゃん』というあだ名で呼ばれ、俺の元カノを騙った。明らかに、故意に、俺に勘違いさせようとしていた。二人を取り違えさせようとしていた。

「なぜってそりゃあ」くれなゐが俺の手に触れる。「私は、やっちゃんと付き合うのが夢でしたから。アオにキミを譲ってからも、ずっとずっと好きだった。忘れられなかった」

「でも、じゃあ何でアオ先輩はそれを了承して、協力まで――」

 俺は、赤ちゃんと付き合っていた頃の記憶が曖昧だ。別れることになったきっかけも、よく覚えていない。何だか、ひどく悲しいことがあったような、おぼろげな記憶しかない。あまりにも悲しい何かがあって、当時の記憶を封じてしまったような。

 以前、くれなゐが『引っ越すことになったから』と言っていたが、ということは、引っ越したのはアオ先輩の方だったのか? それとも、俺が何かしてしまったのだろうか。赤ちゃんを傷付けるような何かをしてしまって、アオ先輩はそれが許せなくて、本心では俺の顔なんて見たくもなくて、けれどドラムの腕だけは必要で。だからこんな芝居を?

 ……いや、おかしい。やっぱりおかしいんだ。アオ先輩とは、やっぱり通じ合えていたような気がするんだ。俺にだけ見せてくれた笑顔の数々が、すべて演技だったとは思えないんだ。

「入れ替わりを提案したのは」アオ先輩が言う。「ボクの方なんだ。理由は三つ。一つ目は、やっちゃんに、ボクの正体を知られるわけにはいかなかったから。ボクには、『赤ちゃん』としてキミの前に現れる資格がないから。キミを好きになる資格が、ないから」

「資格……」夏ライブの前日にも、それは聞いた。「それってどういう――」

「ごめん、それは後で話すね。理由の二つ目は、くれなゐに対する贖罪。十年前、くれなゐはボクにキミを譲ってくれた。お陰でボクは、持ち直した。すっかり元気になれた。でも逆に、くれなゐは塞ぎがちになってしまった。愛する人を別の女に奪われたからね。だから、今度はボクが、我慢する番だと思った。くれなゐのために身を引く番だと思った。理由の三つ目は、くれなゐへの報酬」

「ほ、報酬……?」対価、代金、リターン。唐突に低俗な単語が出てきて、俺は混乱する。

「ボクには、くれなゐの力が必要だった。くれなゐのギタースキルと、そして何より」アオ先輩がスマホを取り出し、『青と緑のハザマで』の動画を再生した。少女が歌うキービジュアルとともに、音楽が流れ出す。「『ラヰトレッド』のイラストが」

「へ?」また、話が飛んだような気がした。

『ラヰトレッド』氏は『青子緑子』最初期の投稿動画からずっとイラストを提供し続けているイラストレーターだ。ボカロ曲動画にはキービジュアルイラストが必須だ。どれだけ曲が良くても、動画は動『画』である以上、優れたイラスト・動画とセットでなければあまり伸びない。逆に、視た者の心を鷲掴みにするようなキービジュアルがあれば、動画は一気に伸びる。

「今後も最高の演奏とイラストを提供してもらうことの報酬として、ボクはキミをくれなゐに差し出した」

「あっ」



 ラヰトレッド――灯くれなゐ!



 疑問に思いながらもスルーしてきた小さないろいろが、繋がった。

『くれなゐ、看板頼める?』

『たったの三十分で⁉ 無茶振りが過ぎませんか、アオ』

『モヤシちゃんも喜んでくれるよ』

『腕が鳴りますね!』

 あの日、アイコンタクトを怖がる俺を路上ライブに連れ出してくれたアオ先輩が、掲げた看板に付いていたイラスト。『青子緑子』限界オタクであるはずの俺が、見たことのなかったイラスト。見たことがなかったのは当然だ。あれは、あの日描き下ろされたものだったからだ。

『このイラスト、私が描いたんですよ』

『え、うまっ』

 そして、『放課後・休日音楽教室』に掲げられていたイラスト。非常に見覚えがあると思った画風。見覚えがあるのは当然だ。俺は毎日のように『青子緑子』の動画を眺めているから。

 今やアオ先輩は、国内有数のボカロP。『青子緑子』は、『イラストレーター・ラヰトレッド』と組んでこその『青子緑子』なんだ。そんなラヰトレッドの存在は、アオ先輩にとって何よりも重い。それこそ、十年前の元カノなんかよりもずっと。

「ひどい女でしょう、コイツ?」くれなゐがアオ先輩を侮蔑した目で見る。本心なのだろうか? いや、俺の目には、くれなゐがあえて悪役を演じているように見える。「私が断腸の思いで与えたものをあっさり捨てて、今は別の夢に邁進してるんです。有名になって、今度はお金儲けしようとしてるんです」

 ……確かに、くれなゐの言うとおりだ。話を聞いた限り、アオ先輩はなかなかの人でなしだ。今の話をまとめると、こうなる。 

『アオ先輩とくれなゐは入れ替わっていた。百瀬ヤスシを、イラストと演奏の対価としてくれなゐに差し出すために。アオ先輩は百瀬ヤスシを取引材料として使った』

 これがアオ先輩の、三つ目の『隠し事』。だけど、本当にこれで全部なのか? こんなつまらない真相が、この物語の――四月三日に始まり、今日に至るまでの、まるまる六ヶ月間に及んだ俺たちの日々の結末なのか?

「これで、全部なの?」俺はアオ先輩に語りかける。「赤ちゃん、俺の――僕の元・恋人」

 まだ、疑問が残っているのだ。そうだ、『資格』の話だ。アオ先輩はさっき、俺の問に対して『それは後で話す』と言った。まだ、話には続きがあるのだ。

『青子緑子』が生まれた経緯。

 赤ちゃんが俺と別れた経緯。

 アオ先輩には俺を好きになる『資格』がない、という話。

「そうだね」アオ先輩が目を閉じる。「語ろうか。歌おうか。ボクの、最後の回顧録を」

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