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21話 凍てつく波動



ストーンヘイルを発って八日目──



今日にも首都アルデンフォードに到着すると聞き、ルネは上機嫌だった。もう昼下がりなので見えてきてもおかしくは無い。


「やっと馬車の板切れ生活から解放されるのね!」
「いい宿、あるかな?」


「聞いてくる!」と言葉を残すや否や、ルネは馬車台を蹴り出し、高々と馬を飛び越えたかと思えば、前方を行くグリアナの馬車へ軽々と飛び移った。その身軽さたるや、まるで風に乗る羽根のようだ。


「ほんと、機嫌いいなあ……」


ルネの陽気さに半ば呆れながら、ウタは深く息を吐いた。冬特有の冷気が白い息となり、空気に溶けていく。


「真冬になったら、銀世界が広がるんだろうな」


ウタは独りごちる。つい数日前までは、ルネがシャイラを口説こうとしているのではないかと疑い、険悪な空気が漂っていた。しかし、グリアナと狩りや革のなめし方を学ぶうちに、弓の手解きを頼まれるようになった。手取り足取り教えるたびに、彼女の機嫌はみるみる良くなったのだ。


「スキンシップがカギかもしれないな……」


そんなことを考えていると、ルネが前方の馬車から顔を出し、大声で叫んだ。


「見えたよ!首都アルデンフォード!」


彼女が指差す先には、濃い灰色の塔が空高くそびえている。その姿は、まるで牙が天を裂こうとしているかのようだった。


「随分高い塔だな……なんだか、見られている気がする」


塔の最上部から鋭い視線を感じた気がしたが、ウタは3キロも離れているこの距離を考え、自分の気のせいだと片付けた。とはいえ、胸中のわだかまりは完全には消えない。

その時、馬車の台座が大きく揺れた。いつの間にかルネが戻ってきたのだ。


「ただいま!」
「ルネ、気配なさすぎじゃない?」


軽口を叩きながらも、ルネは得意満面の表情を浮かべていた。


「いい宿を教えてくれるってさ!」
「それは良かった。……ん?その金貨は?」


ルネの手には拳ほどの大きさの金貨が握られていた。熊の顔が彫られており、どことなく愛嬌のあるデザインだ。


「これは聖騎士の信頼の証だって!このクマ、かわいいでしょ!」

──何ともいえないほのかなモヤモヤ感が胸をよぎる。


「…ねえ、あの塔って何なの?」


話題を切り替えるウタ。


「あれ?あれは『星狼の塔』だよ。一番上には玉座の間があるんだって」

「星狼……最上階に誰かいるの?なんか、視線を感じる」


ルネは塔を見上げて一瞬きょとんとしたあと、目を細めて微笑んだ。


「最上階にはテオがよく居るよ。見られてるんじゃない?」


どこか楽しげな調子で話すルネの言葉に、ウタは思わず笑みを漏らした。


「じゃあ、手でも振ってみる?」
「ダメダメ、気分屋だから降りてきちゃうかも」


軽口を叩き合う二人。だが、ウタの瞳は既に塔の最上部に焦点を合わせていた。拡大された視界の中、赤い髪をなびかせた女性がこちらを見つめている


──そう思った瞬間、彼女の瞳がただの「目」ではないと気づく。

それは、生き物の目というよりも、まるで 深淵への穴 だった。










馬車は軽快なリズムで石畳を進む。しばらく行くと、黒みを帯びた堂々たる城壁が目の前に姿を現した。その高さは十メートル近くにも及び、悠然とした威容が目を引く。ウタの口から自然と感嘆の声が漏れる。


「これ、全部溶岩石かなぁ……すごい……」
「壁が好きなの?」


隣のルネが軽く眉を上げる。ストーンヘイルでも彼女の壁への執着を目の当たりにしているだけに、「またか」と言いたげな顔だ。


「だって、これ全部手積みでしょ?職人技だよ。あっ、隙間にコンクリート……もしかして、ローマン・コンクリート?」

「はいはい、夢中になるのはいいけど、身分証を出す準備をしてね。もう門に着くわよ。」


ウタが壁に心を奪われている間にも、馬車は次々と門をくぐり抜けていく。彼女はふと思いつき、ルネに尋ねた。


「関税とかないの?」
「共和国にはそんなのないわ。門はほとんど素通りよ。」


ルネはそう言うと、馬車台の上に身を投げ出し、ウタの膝を枕代わりにする。


「治安とか大丈夫なのかな?」


ウタが少し心配そうに呟くと、ルネは軽く笑った。


「共和国で一番多い犯罪は食い逃げよ。平和そのものじゃない。」


城門を潜り、白く輝く石畳が美しい大通りを少し進んだところで、馬車が止まる。二人を出迎えるように、グリアナとシャイラが歩み寄ってきた。グリアナは落ち着いた声で言う。


「次を右に曲がって少し進めば、『白熊亭』という宿がある。おすすめだ。私の金貨を見せればサービスしてくれるはずだ。」

「川魚の塩焼きが美味しいよー!絶対食べてみて!」


シャイラが快活な笑顔を浮かべながら、ウタの手をぎゅっと握る。その笑顔に釣られ、ウタも思わず頷いた。


「じゃあ、今晩食べてみるね。」


グリアナが軽く手を振ると、シャイラを連れて馬車に戻る。その途中、シャイラは身を乗り出し、大きく手を振りながら言った。


「二日後にまた会おうねー!」


ウタも笑顔で応え、手を振り返す。彼女の隣でルネが小さく鼻を鳴らした。


「ふーん、シャイラと随分仲良さそうね。」
「ふ、普通だよ!」

「ふーん、そう……まあ、部屋に着いたら覚悟しておいてね。」


ルネが不敵な笑みを浮かべる。その迫力に、ウタは視線を逸らすしかなかった。

ほどなくして、クマが魚を咥えた絵が彫られた『白熊亭』の看板が、夕陽を受けて輝いて見えた。


馬車小屋に馬車を踏み入れようとした瞬間、明るい声がかけられた。


「お客さん!お客さん!私がやります!」


顔を上げると、白い耳が特徴的な色黒の女の子がぴょんぴょん飛び跳ねながら笑顔を浮かべている。


「え、いいの?じゃあお願いするわ」
「もちろんです!宿泊料金に含まれてますから!」


彼女は受け取ろうとしたお金を慌てて両手で振って断る。その仕草に少し驚きつつも、礼を言って馬車を任せることにした。


「ありがとう。じゃあお願いね」
「ごゆっくり〜!」


背後から聞こえるその元気な声を耳にしながら、ウタはルネと共に宿の方へ向かう。ふと振り返ると、馬車小屋の台の上で彼女は相変わらず跳ね回っている。


「元気な子だね」
「サービスが良いのは嬉しいけど…宿代、高かったりしてね」


ウタは苦笑いしながら、金色の縁取りが施された黒いドアへと手を伸ばした。しかし、ドアはウタが触れるよりも早く静かに開く。

驚いて足を止めると、上品な服を着た垂れ耳の女性が微笑みながら立っていた。彼女は軽く首を傾げ、優雅な声で迎えの言葉を告げる。


「いらっしゃいませ、『白熊亭』へようこそ。」


一歩足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは豪華なシャンデリアだった。無数の宝石が光を受けて煌めき、その輝きが広間全体を照らしている。


「…すごい。あのシャンデリア、全部本物の宝石?」


ルネが小さく呆れたように呟く。


「本物よ。魔石で光らせてるの」

「魔石?」
「魔力を込めた石よ。ああいうふうに光るだけじゃなくて、いろんな用途があるわ」


彼女は右奥を指差しながら続けた。


「あそこにある大きな柱時計、見える?あれも魔石で動いてるの。時計のこと、知ってるわよね?」

「えっと…時間を表示する機械、だよね」
「そう。さ、受付に行きましょう。お金、足りなかったらどうしようかしらね?」


言葉とは裏腹に、ルネの足取りは軽い。その笑顔にウタもつられて思わず笑みをこぼす。


「こんな高級な宿に案内されるなんて…グリアナめ」


ウタは心の中でグリアナの誇らしげな顔を思い浮かべつつ、楽しそうに受付へ向かうルネの後を追った。


「いらっしゃいませ。『白熊亭』へようこそ。本日からお泊まりでよろしいでしょうか?」


受付の女性が優雅に一礼しながら声をかけてくる。その動作に年季を感じさせつつも、彼女の大きな尖った耳が印象的だ。ルネは懐から熊の絵が彫られた金のグリアナコインを取り出し、彼女に差し出した。


「ええ、そうよ。このコイン、何か分かる?」


受付は少しも動じず、白い手袋をした両手をゆっくり差し出す。


「少し確認させていただけますか?」
「どうぞ」


コインを受け取ると、彼女は丁寧に表と裏を入念に見比べる。しばらくして満足した様子で、コインをルネに返した。


「ありがとうございます。それではお部屋にご案内いたします。」


彼女が手元のハンドベルを軽やかに鳴らすと、奥からふたりの女性が現れる。ひとりは兎耳に紺色の髪、もうひとりは猫耳に黒髪の少女だ。どちらもルネより背が低く、揃いの黒いフォーマルな服を着ているが、ショートパンツから付け根から顔を出す太ももが目を引く。しかも、ふたりとも首輪をしている。それを見た瞬間、ルネの目が鋭く光り始める。


「荷物はこちらでお持ちします。」
「あ、ありがとう…」


ふたりの女性が自然な動作で荷物を預かると、ルネとウタはその後をついていく。歩きながら、ウタはついベルガールたちの脚に目をやってしまい、すかさずルネに窘められた。


「ジロジロ見ないの」
「ご、ごめん!」


少し進むと、兎耳の子がスライド式の格子ドアを開けて立ち止まる。


「こちらへお乗りください。」
「え、昇降機?!」


ルネは目を丸くして驚いているが、ウタと猫耳の子はスムーズに中へ乗り込む。


「昇降機なんて普通じゃない?」


ウタが軽く言うが、ルネはなおも呆れ顔だ。


「石造りの壁には感動するくせに…」


昇降機が静かに動き出すと、ウタは前に立つ猫耳の子にふと目を奪われる。彼女が髪を優雅にかき上げ、露わになったうなじが妙に艶めかしい。さらに、潤んだ金色の瞳がふいにこちらを向き、目が合った瞬間ウタの顔は真っ赤になった。


「あ、あのさ…昇降機に乗ると重く感じるのは重力じゃなくて慣性力だよ…」
「どうしたの、急に?」

「気を紛らわせたくて…」


ルネが思わず小さく吹き出す。


「よく頑張ったわね。」
「ど、どうも…」


ウタが照れた顔をするうちに、昇降機は減速を始めた。


「到着しました。お降りくださいませ。」


ドアが開き、ウタが先に降りようとするが、同時に猫耳の子も動き、軽くぶつかってしまう。勢いで彼女を壁際に押し付ける形になり、鼻にかかった甘い声が耳に届いた。


「あ、ごめんなさい...」
「あ、大丈夫?」

「はい...」


猫耳の子は小さく体を縮め、上目遣いでウタを見上げる。その潤んだ瞳と震える声が妙に心をくすぐり、ウタは思わず彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られる。しかし、その瞬間、背後から聞こえた冷たい舌打ちの音が空気を一変させた。


「チッ。」


まるで空気を凍てつかせる魔法だ。


「お、降ります!」


慌ててウタは言葉を詰まらせながら昇降機を降りた。その場の空気に耐えきれず、心の中で二度と同じ失態を犯すまいと誓うのだった。

部屋へ向かう途中、ウタはどこか不安げに思った。
この後、ルネに何をされるのか…考えるだけで背筋が凍るのだった──



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