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1.


 自分のスマートフォンが突然震える。自分は常日頃、サイレントモードにしている。
 画面を見ると、見慣れた電話番号が表示されていた。連絡先にいちいち登録していないので、電話番号だけで相手を判別している。

 この番号は、 (リーシャロ)だ。
 さっき別れたばかりなのに、もう連絡が来たので、良くない知らせでも伝えようとしているのでは、と不安がよぎる。
 
 この男とは付き合いが長い。
 歳は五歳ほど歳上だが、特殊部隊へ配属になったのは、同じタイミングだった。

 狐の戦闘能力は、実際大したことがない。その代わり、情報収集の能力に長けていた。
 あの端正な顔立ちを生かして、相手の懐へ入り込み、必要な情報を根こそぎ掻っ攫っていく。
 特殊部隊の中では、諜報担当兼リーダーとして、見事に仕切っていた。――そういう男。

 
『ちょっと面白いことがわかったから、連絡してみたんだー』
 スマートフォンを耳に当てるなり、明らかに何か含みがある狐の声が聞こえてきた。

「何だ」
『さっきも思い出話したけど、クソ教官のこと』
 なぜ今そんな話をしてくるのだ、と舌打ちが出た。
 スマートフォンの向こう側はこちらの状況など露知らず、テンション高く話を続ける。フチノベ ミチルは少し怪訝そうにこちらを見ている。
 
『あのクソ教官、リエハラシアから逃げた後、どこに行ったと思うー?』
 少し興奮気味の狐の声。
 クソ教官の話を、なぜ今聞かなければならないのか、と口を開こうとした瞬間、
「誰と話してるんですか?」
 フチノベ ミチルが尋ねてくる。

 瞬きもせずにこちらを見つめる、真っ黒い瞳。その視線には、獲物を睨む蛇のような、じっとりとした不快感がある。自分へ向けられたその視線に、舌打ちが出る。
 
『あれ? ミシェルともう合流したの? 早ーい』
 名前をもじってミシェルなどと呼ぶのは、この男のいつもの軽薄なノリだ。微かに聞こえただろう日本語の会話の端々から、そこにいるのが誰か、見当をつけたようだ。
 
「後でかけ直す」
 今この話をするタイミングではないと判断して、電話を切ろうとした。
 
『クソ教官が逃げた先は日本だったんだよ。肝心なのはここからでね』
 こちらは電話を切ろうとしているのに、狐は早口で捲し立ててくる。
 フチノベ ミチルの手が、おもむろにこちらへ伸びてきた。思わず首を横に振り、身を引いた。
 
「その人が、リーシャロでしょう?」
 電話の相手が誰か、見当をつけたのはこの女もだった。「 (リーシャロ)」の発音がネイティブのように聞こえて、一瞬戸惑う。
 自然すぎて気に留めていなかったが、この女が自分や狐の名を呼ぶ時の発音は、片言ではない。
 
『おやおや、取り込み中?』
 含み笑いで、自分とフチノベ ミチルとのやりとりを盗み聞きしている男は、楽しそうだ。
 この状況を楽しんでいるのは、狐以外いない。自分とフチノベ ミチルの間は、相当殺伐とした空気が漂っている。
 
『だーいじょーぶ、下手なことは言わないって約束するから、代わってよ』
 電話の声が漏れ聞こえても平気なように、狐はさっきから日本語で話している。
 おそらくだが、この男は、フチノベ ミチルを新しい情報源として使うチャンスだと思っている。

「そのまま話せ」
 音声の入出力をスピーカーに変えて、スマートフォンを自分とフチノベ ミチルの間に突き出す。決して渡しはしない。
 
『ミチルって呼びづらいから、ミシェルって呼ぶね』
 たしかに、リエハラシアの人間には、「ミチル」の発音は難しい。だが、そんなことはどうでもいい。
 
「急にワケわからない名前で呼んできた。何この人、気持ち悪い」
 スマートフォンの画面を指差して、フチノベ ミチルは露骨に顔を顰めていた。
 
「こいつ、仕事はできるんだ。こいつの気持ち悪いノリは、慣れるしかない」
『二人して気持ち悪いの連呼はひどくない?』
 電話口の声は笑いを嚙み殺している。
 笑い声は数秒続いたが、狐は仕切り直すように咳払いをする。
『サハラ シュウヤ。この場にいる全員、よーく知ってる名前だよね』
 懐かしい名前だった。自分と狐が蛇笏のように嫌っているクソ教官。
 
「おい待て……この女もサハラの関係者か?」
 この場にいる全員がよく知っている、と言われ、フチノベ ミチルの方を見る。特に動じる様子もなく、澄まし顔をしているだけだった。
 
『ミシェル、何も知らない梟に教えてあげてよ』
 何も知らない梟、と上から目線で言ってくる狐の態度が、やたら横柄に感じる。
 気づけばスマートフォンの画面を睨みつけていた。

「サハラ シュウヤは……私の育ての父です」
 画面を睨んでいる自分に対し、悟りでも開いたような落ち着いた様子で、フチノベミチルは答えた。
 
「あのクソ教官が……お前の育て親だと?」
 フチノベ ミチルの言葉は、言語として伝えたい意味はわかる。だが、脳内で処理するには情報が多すぎる。
 そういうのは、一度に出していい量でない。
 
 これが事実なら、あの夜、フチノベ ミチルの母親が大統領府に招かれていたのは、サハラが関係している。そうとしか思えない。
 
『ほら、あのクソ教官、生まれも育ちもリエハラシアだったけど、両親は日本人だから』
 狐が補足で説明を入れてくる。故郷の、士官学校で特殊任務に当たらせるメンバーを選抜していた教官、それがサハラという男だった。通称・クソ教官。
 たしかにサハラは、故郷では珍しいアジア人だった。日本語を教わったのも、サハラからだ。
 
『ね? 面白い話になってきたと思わない? ミシェルの存在が、一気にキナ臭くなった』
 狐はとてもはしゃいで、ゲラゲラと笑いだしている。狐の大袈裟な笑い方が、呆れて出てくるものなのか、本気で面白がっているのか、自分には読み取れない。狐の笑い声がだんだん、冷笑に思えてきてしまう。
 
 キナ臭い、と言われたフチノベ ミチルは、気まずそうに苦笑いしていた。だが、この場で苦笑いできるほどの余裕を持っているのが、不気味でしかない。

「まだ隠していることがあるなら、早く言え」
 気づけば母国語で怒鳴っていた。その剣幕に、フチノベ ミチルがビクッと肩を揺らした。
 さんざん笑っていた狐は、さらに笑う。怒鳴ったことが、笑いの追い打ちをかけたようだった。
 
『だーかーらー、それはミシェルに聞いた方が早いって言ってるでしょ?』
 呼吸困難になりそうなほどの勢いで笑っている狐の声は、耳障りでしかない。この笑いの裏には、何かを隠しているとしか思えない。
 
 この軽薄な男は、こんな大事な情報を握りながら、自分には今の今まで伝えてこなかった。だが、それ以上に、あのサハラがフチノベ ミチルの育ての父だという事実。その事実に、頭の中の整理がつかない。
 
「一度、あなたに会ってみたいな」
 スマートフォンの画面をじっと見つめているフチノベ ミチルは、電話の向こうの相手へ言う。
 
『いいね。明日にでも会おうか』
「今からでもいいのに」
『ごめんね。今、実はデート中だから、今日は無理! また連絡するよ』
 そう言って、狐は電話を切ってしまう。
 女を待たせている、というのはとってつけた言い訳のような気がした。
 フチノベ ミチルと自分が接触しているタイミングだろうと踏んで、わざわざ連絡してきたのではないか。
 
「女癖が悪い、っていうのは本当だった」
 フチノベ ミチルは鼻で笑う。
 
「お前……サハラが、クソ教官と呼ばれている理由はわかっているか?」
 当時のことを知る軍の人間は、サハラを口汚く罵り、嫌悪する。
 その理由をこの女は知っているだろうか。
 
「サハラは十五年前……士官学校の教官という立場でありながら、国外へ逃げ出した。それは知っているのか?」
 自分の言葉に、フチノベ ミチルは黙って頷いている。血色の悪い無表情な顔が、こちらを見ている。
 
「その時、国家最高機密である新兵器の開発データを……丸ごと持ち出したことも?」
 フチノベ ミチルの沈黙は、肯定だ。
 真っ直ぐこちらを見つめる眼は、揺らがない。
 だが、拳をぎゅっと握り締めるのを見て、この女なりに感情を隠そうと、必死なのだと悟った。
 

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