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2.


        *



 アスファルトは無数の人間が行き交い、スーツ姿の男、スマートフォンを片手に急ぐ若い女、駅へ急ぐ学生――それぞれが無関心な振りをして、自分の世界に没頭している。そして、誰かの痕跡を誰かが消し続ける。
 雑踏で人間が一人増えたり減ったりしたところで、誰の気にも留まらない。
 
 集団の無関心は便利で、誰にとっても都合がいい。
 
 それでも確実に、距離を離しても食らいついてくる存在がいる。気配を巧妙に隠しながら、ずっと ()けてきている。

 
 和食料理店を出てから感じる違和感。だが姿は確認できない。
 繁華街の細まった路地をジグザクに進みながら、身を隠しやすそうな雑居ビルを探した。
 栄えているビルと寂れているビルが隣り合っているのを見ると、商売とは立地だけの話ではないのだと思う。

 寂れている方のビルに入り込み、廊下に散乱しているゴミを踏みながら、非常口のドアへ進む。
 ドアノブを回した瞬間、ビルの入り口に一瞬、人影が見えた。もう追いつかれたのだと察し、舌打ちが漏れた。

 非常階段を二段飛ばしで上り始めると、背後にカンカンと甲高い音が聞こえてきた。ヒールの高い靴の音。
 ヒールの足音は最初、一段飛ばしだった。だんだん疲れてきたのか、一段ずつ上る音に変わっていく。

 上へ進むと、おのずと逃げ場がなくなる。無策でここまできているとしたら、さすがに浅はかすぎるだろう。
 
 もうすぐ屋上に着く。
 屋上に繋がるドアには、セキュリティー会社のシールが貼られ、南京錠がかかっていた。
 このドアの手前で足を止め、階段のステップに腰かける。

 ヒールの足音が、少しずつ大きくなってきている。
 最初に比べ、音が近づく速度は遅くなっているが。
 足音は、もうすぐ踊り場に着く。

 音の方向を睨みつけて待ち構えていると、 這々(ほうほう)(てい)で、長い黒髪の人間が踊り場に現れた。
 
 息を切らして、気配を殺すのもままならない様子だ。
 自分が腰掛ける階段の真下の踊り場で、両膝に手をついている。

 そして、自分が思うにはゆっくりと、当の本人からすれば急いでだろうが、頭を上げた。

 一年と少し前に見た姿とさほど変わらない、その佇まい。

 長い黒髪と血色の悪い肌、夜の闇より暗い色の瞳。不健康そうな白い肌。

 アジア人の若い女――フチノベ ミチル。


 和食料理屋を出てから、ずっと感じていた尾行の影。
 
 結局こうなったか、と溜め息も出る。

 目が合ったとわかると、フチノベ ミチルはにっこり笑って見せた。
「お久しぶりです」
 そして一年ほど前と同様、英語で話しかけてきた。
 
「日本に来てくれたんですね」
 顎にまで汗が垂れて落ちてきても構わず、顔をしっかりこちらに向けて、一挙手一投足を見逃さないようにしている。
 これは警戒というより、情報を掬い取ろうと必死な眼差しか。

 居心地の悪い視線に苛立ちながら、胸ポケットから煙草の箱を出す。
 
「別れ際に、あんな発言をされたら気になるだろうが」
 煙草に火をつけ、吸い込んでから日本語でつぶやいた。
 
「日本語の勉強、したんですか?」
 こちらが日本語を喋ったのを聞いて、フチノベ ミチルは目を見開いて、驚きを隠さない。
 
「もともと喋れる」
「おん? あの時も?」
 フチノベ ミチルは気の抜けるような声を漏らす。
「そういうのは早く言ってくださいよね、そしたらもっとスムースに」
「うるせぇ」
 ぶつくさ言われているのも面倒なので、適当にあしらうしかなかった。
 
「お前はなぜ、俺の名前を知っていた」
 語気を強くするつもりはなかったのだが、この言い方は質問ではなく詰問だった。
 フチノベ ミチルはスッと真顔になると、小さく息を吸い込んだ。そして口元を笑う形に歪める。作り笑いするための所作だ。
 
「とりあえず、今は再会を喜びましょう」
「俺が、好き好んで日本に来たと思うな。あの日の出来事について、お前は何を知っている」
 冷静に尋ねたつもりだったが、言葉の端々に苛立ちが乗って、強めの口調になっているのは自分でもわかった。
 フチノベ ミチルは作り笑いを浮かべたまま、何も答えない。額の汗が鼻先へ滑り落ちていくのが見える。

「どこで俺たちの名を知った」
 フチノベ ミチルは答えない。思わず、目の前へ行って掴みかかってやろうと思った。
 こちらが足を踏み出そうとした瞬間、力強い眼差しをした黒い瞳が、こちらを見る。そこで足が止まる。
 
「私はもう、リエハラシアへは行けないと思います。要注意人物としてマークされているでしょうから。私の手で大統領へ復讐することは……叶わないとわかっている」
 感情を込めない、平坦な声音。フチノベ ミチルの表情はとても穏やかなのに、漂わせる空気はあまりにも重たかった。口を開くなと言わんばかりの圧力すら感じる。
 
「だから、 日本(ここ)からでもできる方法を一緒に考えて、できたら実行を手伝ってほしいんです」
「質問に答えろ。それと、お前を手伝う気はない」
 こちらの問いには一切答えようとしない女の頑固さに、煙草のフィルターを噛んだ。この女に、会話のペースを巻き取られている。

「じゃあ、あの時の話の続きをしましょう」
 フチノベ ミチルは、少し困ったような顔をした。それもまた、演技臭い。

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