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 ――十四年前。
 ユーラシア大陸、ヨーロッパとロシア・中国の狭間にある小国・リエハラシア。
 その国境沿いには、有刺鉄線とコンクリートの厚い壁が、隣国との境目を隔てていた。
 リエハラシアは隣国クルネキシアと二世紀ほどの期間、戦争状態になっている。特にこの四十年近くは、極度の緊張状態だった。

 それは、冬が長く厳しいリエハラシアでも、特に寒さが堪える夜の出来事だった。

 国境は、分厚いコンクリートの壁で塞がれている。この壁は両国を分断するものであり、時には攻撃を受ける盾でもあった。
 
 この壁の足元には、警備兵が等間隔に配置されている。
 寒さに震える警備兵の一人に、そっと近づく人影があった。
 
 警備兵はその人影を確認すると、姿勢を正し、敬礼する。呼吸するたびに、警備兵の顔の周りに真っ白な息が立ちのぼる。

 警備兵の目の前にいるのは、コートに身を包んだ中年のアジア人の男だった。
 この警備兵は、数年前に一週間ほど、この男から訓練を受けたので、顔と名前を覚えていた。
 この人物は、士官学校教官であり、隊員育成を担当している。階級は大佐だ。
 
 珍しい私服姿で現れた教官の男は、警備兵へにっこりと笑いかける。
 訓練中はこんな風に笑顔を見せられたことがなかったので、警備兵は戸惑う。
 教官の男の笑顔は作り笑顔で、目の奥は怜悧な光を感じる。それが、警備兵に心地悪く感じたほどだ。

「ちょっとここ、通してもらってもいい?」
 教官の男は、警備兵の真後ろにある壁を指差して、とても気安い口調で言う。
 教官の男は、手荷物を持っていない。あまりに身軽な佇まいに、隣国への亡命疑いをかけていいのか、悩んでしまう。
 
「あのっ、これからどちらへ?」
 壁に手をつこうとしていた教官の男の隣で、制止はしないものの、警備兵は聞き取りをする。

「ちょっと偵察にね」
 教官の男は、劣化や銃弾の痕によってできた壁面の溝に今度は足をかけ、登ろうとしている。
 
「でも、あのっ」
 狼狽える警備兵を置き去りに、教官の男は有刺鉄線を邪魔そうに潜っている。
 
「俺は、ちょっと新しい景色を見てくるよ」
 教官の男は、困り果てた顔で地面から見上げてくる警備兵にウィンクした。
 厳格な、と言えば聞こえがいいが、もはや虐待のような厳しさで指導していた教官の男が、ウィンクしてくるなど、想像していなかった。
 
 警備兵には、目の前で何が起きているのか理解できない。

 そうこうしているうちに、教官の男は、ふわっと身軽に、国境の壁の向こう側へ飛び降りてしまった。
 この壁の向こうは敵国。壁は分厚いコンクリート。もう教官の男の姿は見えない。
 これ以上、警備兵は追いかけられない。
 
 軍上層部の指示で内密に動いているのなら、こちらまで情報が降りてこないのが当たり前だ。こういうことも、きっとあるのだろう。――そう考えるしかなかった。

 警備兵は溜め息を吐く。白い息が煙のように広がった。

 しかし翌朝、警備兵は、宿舎に戻ってから、教官の男が無断で国を脱け出したという一報を聞かされる。
 教官の男は着の身着のまま、軍の内部情報を持ち出して、この国を出ていったのだという。

 その話を聞きながら、警備兵は、教官の男が壁を越える前に言っていた言葉を思い出す。
 
 『新しい景色を見てくるよ』

 随分と気楽な言葉を残して、教官の男は故郷を捨てていってしまった。



 
 







 
 

 
 ――十四年後。
 
 かつて、リエハラシア軍の士官学校教官だった男が、乗り越えていった壁を、今度はリエハラシア側へ入るために乗り越える人影があった。
 
 警備兵は、あの頃と同じ配置だったが、士気はだいぶ下がっている。近くにいる警備兵同士で、軽口を叩いて盛り上がっているところだった。
 
 気配を消して、音もなく、壁から降り立ったその人物を見た者はいない。

 警備兵の目を盗んで侵入した、その人物は、急いで物陰に隠れて周囲を見回した。

 その人物の髪は、夜の闇より暗い黒だった。瞳は黒曜石のように黒い、若いアジア人の女だった。
 
 国境際は、この数年、何度も襲撃を受けているため、大きな瓦礫がそこら中に転がっている。
 その有様を見て、女は溜め息をついたのか、白い息が煙のように漏れた。

 周りの埃っぽい空気は、瓦礫のせいだろう。
 不意に、空がちかっと光る。ここではない遠くを目標にした砲撃の光だ。
 
 警備兵の会話以外、周囲から物音はしなかった。
 女は、周りの風景に目を伏せ、唇を噛む。
 それからゆっくりと、空を仰いだ。冷え込みの強い夜は、星がよく見える。
 黒い瞳に、星が映る。夜空に光が横切る。それはミサイルの軌跡だった。
 眉間に皺を寄せながら、女はその軌跡を目で追った。
 
 視線を元に戻した女は、腕につけているスマートウォッチで時刻を確認する。二月十四日、午前四時四十八分。
 
 女は国境の壁に背を向けると、市街地がある方向へ足を踏み出した。音を立てずに、気配を殺して。
 握った拳に、自然と力が入る。
 
 女は睨むような目をして、寒空の下を歩き続けた。

 
 女には目指す場所があった。
 今日の十八時までに、誰にも見つからずにリエハラシア大統領府へ辿り着かねばならなかったのだ。

 
 ――十四年の時を超えた因縁を、終わらせるために。

 

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