2杯目 モスコミュール
とある金曜日、時刻は19時――
オープンしたばかりの店内に勿論客の姿はなく、いつも通り暇そうにしている2人の姿があった。
そこへハドソンが扉を開けてやってきた。
ハドソンとは勿論ニックネームで、本名は『|葉戸尊《はどみこと》』(69歳)、未亡人でこのビル『|葉戸《はど》メゾン』の大家なのである。
「いきなりどうしたのだハドソン夫人。今月の家賃ならば少し待ってくれと昨日言っただろう」
「社長、また家賃滞納ですか? これじゃいつ追い出されても文句言えませんよ?」
と、呆れた様子の氷見子。
「そんな事じゃなくてね。お前たち『ホームズ』を見なかったかい? ここ数日、いつもこの時間になると姿が見えなくなって、ふらっと戻ってきたと思ってもご飯も食べてくれないんだよ」
ホームズとは、このビルの5階に住むハドソンの飼い猫である。(猫種はバーマン)
「それは心配ですね。病気とかじゃないといいけど……」
氷見子がそう答えると教助も続く。
「私は見ていないな。いつも通りさとみのところじゃないのか?」
「今3階も寄ってきたんだけどね、さとみもホームズも居なかったよ」
「あぁ見えてさとみは真面目だから、今頃はとっくに出勤している筈だが……」
「社長、何かある度にさとみのこと褒めますよね。私のことは全然褒めてくれないくせに!」
氷見子が悔しそうにする。
このさとみとは、本名『|玉谷《たまや》さとみ』同ビル3階にあるガールズバー『にゃんにゃん倶楽部』でNo.1の通称『さとみん』のことである。
氷見子とは小学校時代の同級生だが、相性が悪く犬猿の仲なのだ。
「このビル内でホームズに懐かれているのは、私とさとみだけだからな」
教助が得意げに言う。
「ちょっと待ちな! なんで飼い主のわたしが入っていないんだい?」
「現に今逃げられているではないか」
「とにかく、見つけたら教えておくれよ」
そう言い残してハドソンは5階の自宅へと戻っていった。すると、その後すぐにドレス姿のさとみが現れた。
「教助〜! 会いにきたよ〜!」
「げっ。ちょっとさとみ! うちはあんたの店と違ってもうオープンしてるんだから、お客さんじゃないなら帰って!」
「うるさいわね。お客なんていないんだから少しくらいいいじゃない」
「それで今日はどうしたんだ?」
教助がさとみに尋ねる。
「隣のコンビニに行ってきたついでに教助の顔を見にきたの〜!」
「ほぅ……」
「はいはい、あざといあざとい」
渋い表情でそう吐き捨てる氷見子。
「あんたさっきからうるっさいわね! あたしと教助の時間を邪魔しないで!」
「何か飲んでいくか?」
「そうしたいけど、お店の準備があるからもう行かなくちゃ……。でもせっかくだし1枚だけ一緒に写真撮ろ?」
そう言ってスマホをインカメにしてピースをするさとみ。
「きゃあ、今日の教助も素敵ぃ……」
「はいはい、撮ったならさっさと戻る」
氷見子に背中を押され入口まで戻されるさとみ。
「教助まったねー! 良かったらお店にも来てねー!」
さとみがまるで嵐のように去っていくと、店内にはまた静寂が訪れる。
来客は0のまま時間だけが過ぎていき20時を回った頃、待望の来客かと思われた人影は――刑事の高山だった。
「金曜だっていうのになんてしみったれた店内だよ」
「馬鹿にしに来たのなら帰れ」
「悪いが今日はまだ勤務中でね。ついさっき19時頃、通りを挟んだ向かいの歩道で引ったくりがあったんだが、何か目撃していないか?」
「生憎、その時間窓の方は見ていなかったな」
「そうか……」
「目撃証言がとれていないのか?」
「いや、その逆なんだ」
「どういうことだ?」
「目撃者はおり、容疑者も明らかになっている」
「ん? では何故今私たちに聞き込みをしているのだ?」
「実は容疑者を連れてきたんだ」
誠がそう言うと扉が開き、鳶職人のような作業着姿でガタイが良く、頭にタオルを巻いてマスクとサングラスをした男が入ってきた。
「こいつの名前は『|四反田康生《したんだこうせい》』(26歳独身)で職業は鳶職人。昔はとにかく手の付けられない悪党だったが、最近は悪事からキッパリ足を洗って更生していたんだ」
「それは非常に残念だが、目撃者も居て容疑者がここにいるのならば事件は解決ではないか」
「いや待ってください、誠兄貴のご友人! オレは本当に何もやってないんです!人違いなんです!」
そう言ってマスクとサングラスをとると、その男は意外とつぶらな瞳をしており、彼の言動はとても低姿勢だった。
「この通り、こう言ってる。こいつには確かに前科がある。だが今のこいつが嘘をつく人間だとは、僕には思えないんだ」
「なるほど……。だから彼が無実である証拠を探していたと言う訳か」
そして高山は事件の全容を話し出した。
「きっかけは110番通報だった。19時丁度にその電話はかかってきた。電話をかけてきた男はこのビルの横にある喫煙所でタバコを吸っており、その向かいの歩道で作業着姿でマスクとサングラスをした男が、女性を突き飛ばし鞄を引ったくって逃走したと言う。そして電話を続けながら犯人を尾行していくと、四反田の部屋へ入っていく姿を見たというものだった」
「聞いたところ不自然なところは無いように思えるな。四反田君はその時間何をしていたんだ?」
「オレは見たいテレビ番組があるので毎週金曜の19時には必ず家でテレビを見ています」
「アリバイはなしか……今日の過ごし方は?」
「朝8時から17時まで仕事をして、それから18時頃までパチンコを打ってました。そしてその後に弁当屋さんで晩飯を買って、18時半には家に着いてました」
「その途中で誰かと話をしたかな?」
「店員さんの他には弁当を買った後の帰り道に遠距離恋愛中の彼女と電話をして、今日のテレビ番組が楽しみだという話をしました」
「移動はすべて徒歩で?」
「はい。今は現場が近所なので」
「弁当屋にも確認をとったよ。その時間で間違いなかった」
と、誠が補足する。
「パチンコ店から自宅までの距離は?」
「事件現場を中心に全て500m圏内だ。徒歩でもそんなにかからない」
「ではここらの地理をおさらいしておこうか。地図上ではこのビルは繁華街の最も右端に位置している。ビルの向かって右側には大きな川が道路と交差するように流れ、そこには橋がかかっている。その橋を越えると住宅街があり、そこに四反田君のアパートがある」
メモ帳に大まかな地図を書きながら続ける教助。
「そしてビルから向かって左側に進んでいくと商店街や繁華街の中心部が位置している。パチンコ店と弁当屋はこの左側にあるということだな。事件現場はこのビルの通りを挟んで真向かいに位置していて、そこを中心に全てが500m圏内に収まっている」
教助はメモに描いたビルの横に丸印をつけて、タバコのマークを器用に記す。
「通報者はこのビルの向かってすぐ右側にある喫煙所で煙草を吸っていたところ、現場を目撃した。このビルの喫煙所には仕切りはなく、私の腰ほどの高さの大きな灰皿が一台設置されているのみで見通しも良い」
「こうやって見ても不思議な点はないように思えますね。目撃証言も的確だし見間違いって線も薄そうです」
この氷見子の発言に四反田が嘆く。
「そりゃねぇぜ嬢ちゃん! オレは本当に家でテレビを見てただけなんだ!」
「まぁ、確かに気になる点がある」
「それは!?」
教助の呟きに対して誠が期待を込めて尋ねる。
「今から引ったくりをやろうという人間が、あえて目立つ作業着姿のまま犯行に臨むだろうか? そんなものは極端に頭の悪い人間の犯行か、衝動的で突発的な犯行に限られると思わんか?」
「極端に頭が悪いのは否定できないっす……」
四反田が下を向く。
「まぁ恐らく後者なのだろうな……」
「教助! お前もこいつを疑うのか?」
「勿論疑っているとも。君は昔どんな犯罪を犯したんだ?」
「傷害に暴行、恐喝とかもろもろです……」
「では君を恨んでいる人間は沢山いるという訳だ」
そう声をかけてから教助はしばし目を瞑る。
「どうにかこの状況を覆す方法はないか? このままじゃこいつは現行犯逮捕だ」
「あるとも」
教助がサラッと答える。
「そうか……そんな上手い話は……って本当か?」
「まぁ焦るな、ここはバーだ。まずは乾杯といこうじゃないか」
すると銅製のマグカップに入ったカクテルが提供される。
「今日は『モスコミュール』。ウォッカにジンジャーエール、そしてライムを合わせたスッキリとした飲み口だが、後からズッシリとアルコールも感じられるカクテルだ」
四反田はグラスに口をつけ感極まる。
「オレ、こんなにオシャレなお酒は初めてです」
それに続き、職務中だというのに勧められるがまま酒を口にする誠。
「本当だ。この可愛い見た目とは裏腹にしっかりとした重みも兼ね備えている」
「社長! 私も! 私も!」
氷見子が飛び跳ねながら手を挙げる。
「もちろん給料から引いておく」
「そんなぁ……」
悲しがる氷見子だが、目の前の誘惑には勝てない。
教助は誠に、ここへ被害者と目撃者の両名を呼ぶように指示した。
――そして夜9時30分全ての役者が揃った。
「役者は揃ったようだな。ではまずこちらのカクテルを。
アルコールが苦手な人にはノンアルコールも用意してある」
氷見子は皆にモスコミュールを配った。
「今回の事件の鍵は、ここにいる容疑者と目撃者の証言が違うという事は、どちらかが嘘をついているという事」
「そう言うのなら被害者の女性に直接聞いてみればいいじゃないか!」
そう声を上げたのは今回の事件の通報者てある『|根倉次郎《ねくらじろう》』(24歳)フリーター。
教助は根倉の提案に応える。
「確かにそれが早い。被害者の『|引田《ひきた》』さん、あなたを襲った犯人はこの中にいるだろうか?」
引田は恐る恐る四反田を指差した。
「ほら見たことか! この事件はこれで解決だ!」
根倉がそう囃し立てると、教助が人差し指を左右に振る。
「いいや、これではフェアではない。高山、用意できたか?」
「あぁ」
誠は紙袋から作業服を取り出した。
「根倉君、これを君の服の上から着て、もう一度並んで貰えるかな?」
2人は同じ格好になり、マスクとサングラスをかけた。すると服の上から作業着を着た為、根倉の身体つきも四反田と同等の大きさに見えるようになっていた。
「引田さん、あなたを襲ったのはどちらかな?」
「わ、分かりません」
「鞄を引ったくられた被害者にとって、それはまさに一瞬の出来事。なかなか衣服以外の特徴にまで頭が回らない。こうして四反田君は真犯人に嵌められてしまったんだ」
「僕が嘘をついてるって言いたいのか?」
「では、君はこのビルの喫煙所でタバコを何本くらい吸っていたのだろうか?」
「に、2本くらい」
「では時間にすると約10分。その間そこには君の他に誰かいたかな?」
「僕1人だったよ」
「そうか……入ってきなさい」
するとさっきのドレス姿にさらに猫耳をつけたさとみが登場した。
「ご主人様、お呼びですかにゃん?」
その一瞬、場が凍りついた。
「こ、この子が一体なんなんだ?」
「見覚えがない? それはおかしい。このさとみは今日の午後7時頃、あなたのいた喫煙所で猫に餌をやっていた筈なんだ」
「えっ? 教助、なんで知ってるの?」
さとみが驚いて素に戻ってしまった。
「君が今日この店に寄った時、コンビニ帰りの筈なのに君の手にはスマホしかなかった。君が着ているようなドレスにポケットなんてないだろうし、コンビニで買ったのは猫の餌だったのではないか? 今時はスマホ1つで買い物なんて当たり前だ。そして見つからないようにビルの中ではなく、喫煙所の灰皿の陰でホームズに餌をやった。君が餌をやっていた際にこの男性はそこにいたかな?」
「ううん。あそこには誰もいなかったよ」
「で、でたらめだ! その子が来たのは、僕が犯人を追いかけていった後だったかもしれないじゃないか!」
「さとみのことだから、餌をあげている時の写真を撮っているのではないか?」
「なんでもお見通しだね」
そう言ってさとみはスマホの写真データを見せる。データを確認すると、そのホームズの写真は18時55分〜19時5分の間に数枚撮られていた。
「これで少なくとも彼女が犯行時間に喫煙所に居た証拠は見つかった訳だが、まだ君はそこに居たと言うかな?」
「で、でも僕が犯人だという証拠は何一つない筈だ」
「ここからは私の想像だが、君は過去、四反田から何かしらの被害を受けているのではないか? けれどなんらかの事情で警察にそれを言えなかった。今日パチンコ店で四反田を偶然見つけた君は思わず跡をつけた。すると弁当を買って彼女と幸せそうに電話をする姿を見て逆上した君は、復讐する方法はないか考えた」
教助は地図を書いたメモ帳を指でなぞりながら続ける。
「そこで商店街で急ぎ作業服を買って四反田に変装した君は、四反田が確実に家から出ないであろう19時を狙って犯行を行い、自ら110番をしたのではないか? 今、警察が君の脱ぎ捨てたであろう作業着と奪った鞄を近隣のコンビニのゴミ箱などから捜索している最中だ」
すると、警官が報告にくる。
「高山警部! 近隣のコンビニのゴミ箱から作業服と鞄が発見されました!」
「これが見つかってしまえば、もう言い逃れは出来ないな」
根倉は膝を落として語り出した。
「こいつは……10年前、学生時代に僕の兄さんを虐めていた。それが原因で兄さんは……未だに部屋から一歩も出られないでいる。兄さんの人生をめちゃくちゃにしたこいつが、幸せになっているのが、悔しくて許せなかった」
「根倉……」
怖い顔になった四反田が、まさに一触即発といった雰囲気で根倉に近づく。
誠が間に入ろうとしたその時。
「すみませんでしたぁー! あなたのお兄さんにも必ず直接お詫びにいきます。本当にごめんなさい!」
と、四反田は土下座しながら根倉に謝った。
「くそぉ。なんでお前だけ、前に進んでるんだ……」
根倉が涙を流しながら悔しがる。
後日、事件の報告に高山がやってきた。
「その後、四反田は根倉のお兄さんに謝罪にいったようだ。そして和解し一緒に鳶職人として働く事になったそうだ」
「それは良かったではないか。10年越しの仲直りと言ったところか」
「そういえばモスコミュールのカクテル言葉はなんだったんだ?」
高山が気になっていたことを尋ねる。
「モスコミュールのカクテル言葉は、『喧嘩をしたら、その日のうちに仲直り』だ。人から恨みをかうと、いつ自分に返ってくるか分からないものだな」