第110話 『法律家』の策謀
実働部隊、隊長室。
相変わらずの四十六歳バツイチには見えない若すぎる『駄目人間』、嵯峨惟基特務大佐が、隊長室でぼんやりと風俗情報誌を読んでいた。同じく、やけに迫力のある八歳女児にしか見えない『中佐殿』、クバルカ・ラン中佐は黙って立っていた。
「おい、ちっちゃいの。俺はいつ、神前を立派な『陸上選手』にしてくれって言った?あんなに走らせたら……そのうち潰れちゃうぞ」
嵯峨は相変わらずぼんやりと紙面の裸の女性のグラビアを見ながらそう言った。
「ずっと走ってりゃ、この前みたいにうちから出て行こうなんてつまんねえこと考えられねーだろ?それにうちに居つくように逃げ道を潰せって、アイツが来る前にアタシにそう言ったな?隊長は」
まるで自分の誠へのしごきを『褒めてくれ』と言わんばかりの大きな態度でランはそう言い放つ。
「逆効果だよ……疲れた果てに精神を病んで首でも吊られたら気持ち悪いでしょ?神前の逃げ道を潰す方はな、俺が各方面にねじ込んで『法的』な方法で色々やっといたから」
嵯峨はさらりと恐ろしいことを言った。そして、手元の小さなバッジをランに見えるように差し出した。それは東和共和国では『弁護士バッジ』と呼ばれるものだった。それの意味するところは、嵯峨がこの国の『弁護士資格』を持っていて、法律関係のスペシャリストであることを意味していた。
「だからさあ、『中佐殿』。お前さんは神前を『普通に教育』してやればいいの。『特殊な教育』は要らないの。うちはただでさえ『特殊な馬鹿』の集団だと思われてるんだから……これ以上俺に手間をかけさせんなよ……本当に神前の野郎は精神はともかく体力的に潰れるぞ?このままじゃ」
相変わらず嵯峨はランとは目を合わせずに、雑誌を読んでいる。
「大丈夫だ、神前はタフだからな。あのくらいのしごきは屁でもねえ!それに社会人の駅伝選手は毎日もっと走ってんぞ。それに比べたら手ぬるいくらいだ」
反省の色の全く見えないランを嵯峨が見つめる。そこには落胆の色が見えた。
「それはその人達が『駅伝選手』として社会人チームを持ってる会社に入ったからでしょ?それがお仕事なんだからそっちはそっちでいいの。今の世の中、無茶苦茶走らせるのは『しごき』って言って労働基準監督署なんかがパワハラ認定してくるの。二十世紀末の『体育会系社会』には似たようなのあったのは事実だけどさ。違うでしょ、普通」
ランは完全に無視を決め込んだかのように視線を嵯峨の緊張感の感じさせない瞳に向ける。
「ランよ。確かに、いつでもどこでも生き物の歴史には『そんな組織』ばっかりなのは事実だけど、ちょっと違うじゃん。生きていれば『そういう組織』に入らない方が難しいなんて、普通の人は知らなくていいの。社会を知らない『おめでたい人』と、見て見ぬ振りができる『残酷な賢い人』も、世の中『そういう組織』ばっかりなのは、察してるよ」
嵯峨は『法律家』らしく、あいまいな断定回避ワードを駆使してそう言った。そして大きくため息をつき、別の『下世話な大人の情報誌』に手を伸ばす。
「神前もさー。馬鹿だよな。少しかなめが良いこと言ったらコロッと辞めるのやめるって……あそこで逃げてりゃ辛い思いをしなくて済んだのに。まあ、俺には奴に残ってくれた方が都合がいいのは事実だけど」
タバコを缶コーヒーのロング缶に置いた嵯峨は、ランの存在を無視したようにスルメを口に運ぶ。
「隊長は嬉しいんだろ?本当は。これで隊長の『敵』との戦いの手駒が一つ増えた。良いことじゃねーか」
ランはそう言ってニヤリと笑った。