「春日井先生、おはようございまーす」
「はい、おはよう。ネクタイはちゃんと締めて。君はボタンを留めて」
「出た、こずえちゃんのファッションチェック」
朝、職場である学校の廊下で、すれ違いざまに挨拶を交わす。二人連れの男子生徒の服装を、伊達であるメガネを光らせながら注意したら、そのうちの一人が茶化すように笑う。
挨拶のついでに、生徒の制服の乱れがないのかをチェックをしてしまうのは、僕の日課、と言うよりクセとか性分とかによる部分が大きい。
「僕は君たちの友達ではないのだから、“こずえちゃん”と呼ばれる関係性にはない。気を付けるように」
僕の注意に二人の生徒は肩をすくめ、形ばかりの返事をして去っていく。
しかしその去り際に、「ホント、かわいげねーよな、こずえちゃんって」と聞こえよがしに呟く声が聞こえる。
真面目で、カタくて、融通が利かない。梢という儚そうな名前と、子どものように見える見た目に似合わない僕の言動に対する評価は、おおむねこんな感じだ。
愛想よくとか、上手な嘘だとか、そういう何かを取り繕うようなものや、無駄に着飾るようなものが僕は苦手だし、僕自身には似合わないと思っている。そんなことをしたって、僕が生徒のためを思って指導をしている考えを覆すつもりはない。
だけど、世の中そういう風には捉えてくれるわけではないようだ。
「もう少し生徒に歩み寄ったらどうです? 例えば、メガネを外してやわらかい雰囲気にするとか。春日井先生なら、お若いからすぐに生徒にも人気が出ますよ」
副校長からたびたび言われるお節介な言葉がこういう時頭をよぎり、僕は溜め息をついてしまう。
去年学校が生徒とその保護者に、学校アンケートという、授業のわかりやすさや教職員に対応に対するアンケートを取った際、「春日井先生が怖い」とか、「音楽の授業が苦痛」とか書かれていたらしい。
真面目に、僕なりにわかりやすく音楽に親しみが持てるように、と工夫して授業をしてきていたつもりだったし、身だしなみの注意はこの先、生徒たちの印象が良くなればと思ってやっていることなのに、怖いだとか苦痛だとか言われるなんて思ってもいなかった。
「べつに、生徒たちが嫌いで厳しく指導をしているわけじゃないのに……僕は、良かれと思って……」
音楽室のすぐ隣にある音楽準備室で、次の授業の準備をしながら、僕はふとそんなことを呟いてしまう。
教師は生徒を良い方向へ導くのが仕事なのだから、迎合するのは良くない気がする。
でも――僕は音楽準備室の窓からグランドの方へ眼を向けると、生徒と楽し気にバレーボールに興じている体育教師の姿を見やり、溜め息をつく。
自分は教師だから、正しいことを生徒たちに……と教師になろうと思った時からずっと考えてはいるものの、現にその生徒たちから怖がられたり授業が苦痛と言われたりしてしまうのでは意味がないかもしれない。
でも、手本となる大人が、そうコロコロと生徒の顔色を窺って態度を変えていいものだろうか? とも思う。
(こんなだから、頭が固くて近寄りがたいって言われて……寄ってきたと思ったら昨夜みたいなヘンな奴しかいないんだろうか……)
僕だって、誰かに愛されたり誰かを愛したりすれば、仕事で生徒に敬遠される程怖い雰囲気をまとわなくなるんじゃ、なんて考えるのは甘いだろうか。
――何より、またあんなヘンなやつに絡まれるかもしれないと思うと、誰かを本当に好きになっていいのか、好かれるのかわからないし、怖くもある。
そう考えている内に始業のチャイムが鳴り、僕は我に返って授業モードに切り替わる。
何はともあれ、僕がすることは生徒に正しいものを教えること、導くことなのだから。そう考えながら、僕は教科書や資料を抱えて準備室を後にした。
僕の担当は音楽なので、唄ったり観賞したり、時々楽器演奏したり、音楽史も講義したりする。
「――と、いうことから、このストラヴィンスキーのバレエ『春の祭典』は、音楽界にとっての大事件のなり――」
音楽史は音楽鑑賞の際、作品の奥行きを知るカギとなるので熱を入れる。だけど、ほとんどの生徒にとってどうでもいい内容なのか、熱心に聴いている様子は皆無だ。
「こずえちゃんの授業ダルいんだよねぇ、長いし」
「ホントそれ。唄ってる時はさぁ、こずえちゃんの聞いてればいいだけだもんねぇ」
「今日、鑑賞あんのかなぁ」
歌唱の授業でない時は、基本的に鑑賞が主になる。僕がピアノを演奏する時もあれば、オーケストラ演奏の音源を聴くこともある。
だがそれはほとんどの生徒にとって、居眠りや内職といった授業外の時間にあてていいものと捉えられがちだ。現に今も、三人ほど舟をこいでいる姿が見えるし、聞こえよがしに話し声も聞こえる。
お喋りされるのはもとより、折角の素晴らしい演奏を子守歌にしてしまうのは惜しいので、僕はたいていこう言って生徒たちの目を覚まし、注意を引くようにしている。
「いまからモーツアルトの『フィガロの結婚』を聴くけれど、授業の終わりに感想を提出してもらうから、しっかり聴いておくように」
「先生、それって授業態度点に入るんすか?」
一人の生徒が挙手をして質問してきたことに、当然だと言う代わりに僕がうなずくと、教室一帯から悲鳴のような声が上がった。嘘だろ、とか、鬼じゃん、とか。
こういうことをするから、生徒からあまり慕われていないのはわかっている。だからと言ってすり寄るような真似をしてまで慕われたくはない。そんなことをする大人は、下心を見透かされ、嫌われるよりもあからさまにバカにされてしまう。生徒は僕ら大人が思うよりもずっと、狡猾なほど観察眼が鋭いのだから。
兎に角、音楽聴きながら昼寝していても、点がもらえるような甘い美味しい話が世の中にあるわけがないことを、いまから授業を通して教えておかないとな……と思いながら教材のCDをデッキに掛けようとした時、教室の前方入り口の引き戸が勢い良く開いた。
「わー、めっちゃ遅刻した!」
そう言いながらバタバタと一人のひょろりと背の高い生徒が入ってくる。僕よりはるかに高い背は、180センチ程はあるだろうか。ぼさぼさの髪をかき上げながらこちらを見てきたその顔に、僕は持っていたCDを取りこぼしてしまうほど驚いた。
「おはよーございまーす。|浅間遥《あさまはるか》、ただいま登校しましたー」
そう言いながら涼しげな眼もとで僕を見下ろすようにして大きな口の端をあげて笑った顔に、見覚えがあったからだ。それも、つい昨日……昨夜見た記憶がある。
しかしその話をいまここでするわけにはいかない。何せ僕は教師で、彼は、僕の教え子なのだから。
驚きと衝撃のあまり硬直している僕の姿に彼は微笑みを向け、挨拶の一礼をしながら僕だけに聞こえる声で囁いた。
「――昨夜はどーも、先生」
その余裕ぶった様子に、昨夜僕のことをガキと呼んで説教じみたことをしようとした場面が蘇り、思い出した恥ずかしさと腹立たしさで、耳の端まで赤くなっていくのがわかる。
それでも僕は教師として平静を装い、できる限り澄ました顔をして彼に着席を促す。
「大遅刻だ、浅間君。2点減点する」
僕の言葉に浅間は大袈裟に肩を落として席に向かう姿を、他の生徒たちがくすくす笑いながら見守り、そして横からからかいの声をかけている。浅間はそれに応じながらも、僕には密やかに薄い笑いを浮かべているのがわかる。なにせ彼は2点の減点どころではない、僕の秘密を握っているのだから。
(……生徒に、あんなところであんな姿を見られていたなんて、まさか思うわけがないじゃないか!!)
手にしている教材のCDを床にたたきつけたいほど苛立ってはいたが、それ以上に気持ちは動揺していたらしく、モーツアルトをかけるつもりがレディーガガをかけてしまい、教室がやや騒然とする。
「え、こずえちゃん今日はなんか機嫌いいの? ガガとか珍しい」
「モーツアルトよりこっちの方が感想いくらでも書けるよね」
生徒たちは僕の動揺の理由なんて知るわけもないから、好き勝手なことを言いながら珍しく眠りもせず曲を聴いている。クラシックとは程遠いポップミュージックの鑑賞会となってしまった授業風景の中で、浅間だけが机に頬杖をついて何か言いたげに僕の方を見ていた。
僕はそれに気付いていないように目を反らしながら教材の資料をめくり、読みふけっているふりをする。浅間から反らした頬に彼からの視線を感じる。探るような、覗き込むような執拗ささえ感じる眼差しに、これ以上心を乱されないためにも、僕は顔をあげるわけにはいかなかった。
どうにかその授業を終える頃にはぐったりと僕は気疲れしていて、教室を出ていく生徒たちに挨拶を返す気力もないままに準備室に引き上げていく。
その背中にもあの視線が向けられていたのは知っていたけれど、やはり振り向く気にはなれなかった。
「浅間、遥……どこまで彼は僕のことを、いつから認識していたんだろう?」
準備室の事務机に座り大きく溜め息をつきながら考える。昨夜の段階では気付いていなかったようだけれど、今さっきは僕だと認識していた感じだった。だからこそあんなことを言ってきたのだろうけれど。
しかし、昨夜はもう終電もあるかないかの深夜とも言える時間帯。仮にバイトで遅くなったのだとしても、褒められる時間帯ではないし、ましてやラブホ街だ。未成年である彼が平然とうろついていい所ではない。
「……よし、確かめてみよう。話はそれからだ」
彼が僕をいつからどこまで認識していて、昨夜のことをどうするつもりなのかを確かめる必要がまずある。そして、それを口外させないために撮る対処も考えないといけない。彼は、どういう手に出てくるのだろう。
「あのチャラそうな感じから言って、金をせびってきそうだな……」
ちらりとよぎる考えに、気丈に保っていた気力がしぼみそうになる。
いや、それこそ彼と話をしてみない事にはわからないかもしれない。チャラいやつなりに、昨夜ぼくを助けてくれた時のような気概のようなものがある……と、信じたい。
そんなことをひとりあれこれ考えている内に、次の授業が始まるチャイムが鳴り、僕は慌てて音楽室へと向かった。