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10話 手綱



砂漠の星空の下──



砂漠の夜は冷たくも美しく、月明かりが砂粒を銀色に染めて広がっていた。その静寂を裂くように、砂海に浮かぶように建つ人間の町、アル・サハーリクが明るく輝く。ここは欲望と富、陰謀が渦巻く混沌の都市。昼は灼熱の太陽の下で白く輝くこの町も、夜になると星々に照らされ、どこか神秘的な気配を帯びる。

町の一角、スーク(市場)の喧騒から離れた高台に、一際目を引く屋敷が建っていた。屋根は金色に輝き、数え切れないほどのランプが壁を飾っている。その豪奢な屋敷の三階、見晴らしの良い部屋の窓からは、今宵も灯りが漏れていた。


「グズがッ!」


部屋の奥から怒声が響く。そこにはフードを目深く被った男が床に倒れ込み、鼻血を垂らしてうずくまっていた。その前に立つのは、白装束を着た威圧的な体躯を誇る太った色黒の男。彼の拳が振り下ろされた衝撃で、近くの壺が割れる音が重なる。


「あの奴隷商め……雑種のオスが珍しいと言うから買ったが、魔力は弱い、種馬にもならん。とんだゴミクズを掴ませおって!」


部屋は豪奢そのものだった。黄金の燭台や宝石を散りばめた剣、壁に飾られた見事な装飾の盾や斧。そのすべてが無造作に放り出され、持ち主の横暴さを物語っている。そして、部屋の隅にはみすぼらしい布をまとい、首輪と手枷を嵌められた一人の少女が怯えていた。

そのとき、分厚い扉がノックされる音がした。


「アイマンです。例の品をお持ちしました。」
「よし、入れ。」

「失礼いたします。」


そう告げて入ってきたのは、ターバンを巻き、右目にモノクルを装着した細身の男。彼の手には鈍い金色に輝く大きなカギが握られている。 先程の殴られたフードの男はまだ顔を伏せたまま床にうずくまっていた。


「ほぅ...それが?」


太った男は椅子にどっしりと腰を下ろし、興味深げに目を細める。アイマンは大きなテーブルにそっとカギを置いた。その持ち手には赤い宝石が埋め込まれ、まるで血のような鈍い光を放っている。

太った男は引き出しから特製のモノクルを取り出し、それを通してカギを眺めた。特殊なレンズを通すと、カギは青白い光を発し、幻のように輝いた。


「おお……これぞ霊気(エーテル)の輝き! 本物だ!」
「お喜びいただけて何よりです。」


アイマンが優雅に頭を下げる。


「ククク...この調子で、霊気の鎖で封印された禁書も探し出せ。金に糸目はつけんぞ。」
「承知しました。必ずやお望みの品をお届けいたします。」


アイマンが静かに退室すると、太った男は一頻りカギを眺めた後、興味を失ったようにそれをテーブルに放り出した。そして視線を隅で震える猫耳の少女に向ける。


「今日は久しぶりの上物だ。楽しませてもらうぞ。来い!」


太った男は少女の首輪を強く引き、少女が苦しげに咳き込む。その様子に興奮した彼は息を荒げながら身体を引き寄せた。


「クズはてめぇだ!」


突然、部屋の静けさを裂く怒声が響いた。先ほどまで倒れていたフードの男が飛び起き、テーブルのカギを掴むと窓へと駆け出す。


「──おい! 貴様!」


木製の格子窓が散る音とともに、男は屋敷の外へ飛び降りた。下には干し草の山があったが、その衝撃でフードが取れ、丸い頭の上に猫耳が現れる。


「クソ!ワシのカギを?!」

狼狽する男の後ろで少女が床に落ちた銀色の曲刀を拾う。
怒りに震える太った男が窓に駆け寄った瞬間、背後で銀色の光が閃いた。


「ぐあっ...!」


太った男の胸から剣が飛び出してくる。

銀色の曲刀が鮮血を滴らせながら、月明かりに照らされた──




□◇





秋の爽やかな風が優しく吹き抜ける中、木漏れ日が踊る道を二台の馬車が連なり、なだらかな上り坂を登っていく。


「フンフフフン♪ フンフンフーン♪」


前方の馬車の御者台で、ブロンド色の髪を揺らしながら鼻歌を歌う猫耳の少女ルネ。手綱を握らず足をぶらぶらさせているその姿は、どこか無邪気で楽しげだ。


「手網を握らずに進んでいく馬車もいいね♪」


──まるで人間の16〜17歳くらいに見えるけど、実際はどうなんだろう? いや、そもそも彼女は人間なのだが。

ルネの隣に座る私は、声には出さずそんなことを考えていた。ルネの無邪気な姿を見ていると、母親代わりだったキャンディ博士の言葉を思い出す。


「女性の年齢は絶対に聞かないこと。」


博士の教えを守り、ルネの年齢を尋ねる愚行は回避している私だが、彼女の無邪気さには心が和む。


「優秀な弟子にはアメを与えるべきだと思う」
「しょうがないなぁ、特別だよ。」


ルネが笑顔を見せ、雛鳥を真似て口を開ける私に、蜂蜜の飴玉をぽんと放り込んでくれる。この三日間、馬車の操り方を教わりながら、なぜか“弟子入り”という形になったのは謎だけど、悪くない関係だと思う。

ふと、森の奥に人影が見えた。


「あれ? 森の中に人がいる。」


私の言葉に、ルネも視線を森へ向ける。


「ああ、あれは『魔抜け』よ。」
「マヌケ?」


初めて聞く単語に、つい間抜けた響きだと反応してしまう。


「北の山を越えたところに魔族の国があるの。『魔抜け』はそこから来た人たちだと言われてるけど...あんなふうに生気を失ってぼーっとしてるだけよ。」
「お腹は空かないのかな...?」

「彼らは食べなくても生きていけるの。ほら、青白い肌に長い耳が特徴でしょ? 魔族って、そういうものなのよ。」

──そういえば私も食べなくても生きられるけど、いつ話そうかな

「アンタ、本当に食べることばっかりね! いつか師匠みたいになっちゃうわよ?」


前方の馬車からルネの師匠リオンが大声で答える。


「聞こえてるぞ〜。」


クマのような大柄な狼人種であるリオンが、朗々と笑い声をあげる。










やがて馬車は山の中腹にある広場へ到着した。中央には石を組んだ簡素なかまどがあり、リオンが馬車を止めながら声を上げる。


「少し早いが、今日はここで休むぞ!」


私も馬車をかまどのそばに止め、荷物を降ろす。

「ウタ! 近くの沢で水を汲んできてくれ。」
「はーい。」

「私はかまどの準備をするね。今日は鶏肉だよ〜。」
「やった!」

私は念のため、短弓と矢、腰に手斧を装備し、木製のバケツを持って沢へ向かう。

ところが、途中で森の中で魔抜けに出くわした。


「うわ……これは少し驚くなぁ。」


目の前に立つのは、青白い肌に長い耳を持つ背の高い男。瞳は充血し、涙の跡が黒く固まっている。動く気配もなく、足元にはなぜか灰が積もっていた。

──まるでゾンビだ、とても話しかけられる雰囲気じゃない。

彼に背を向け、足早に沢で水を汲んで野営地に戻る。


「ただいま。」
「おかえり、早かったね。」


ルネが切り株に座り、器用に矢を削っている。私が持ち帰ったバケツをリオンに渡し、残りをかまどのそばに置く。


「途中で魔抜けを見たよ。」
「足元に灰があった?」

「うん。あれ、なに?」


少し離れたところでリオンが馬に水をあげてるのが見える。


「たまに騎士が魔抜けを駆除してるの。駆除されると灰になるけど、また別の魔抜けが同じ場所に現れるのよ。」

「どうして?」

「さあね、理由は分からない。でもあれ、腐っても魔族だから下手に触らない方がいいわよ。」

「強いの?」


私の問いかけに、ルネは少し考えるように目を細めた後、淡々と答えた。


「魔力より強力な霊気を扱えるし、使い魔やゴーレムを操るからね。戦ったら厄介よ。」

──そんな危険な存在が、ぼんやり突っ立ってるなんて……。しかも倒してもまた次が現れるって、一体どういうことなんだ?

「ルネって、いろいろ詳しいよね。」


思わず感心して言うと、ルネは一瞬驚いた顔をした後、慌てて手を振った。


「えっ?! そんなことないよ、師匠に比べたら全然...」


ルネは顔を少し伏せ、肩の力を抜いたように足を伸ばして左右にブラブラと揺らし始めた。その動きがどこかリズミカルで、見ているこちらまで気持ちが和らぐ。


「明日...町に着いたらいろいろ話すよ。大したことじゃないけど。」


伏せたままの顔から漏れる小さな声。その声がどこか照れくさそうで、ウタは自然と微笑んだ。


「うん、わかった。」


そう答えたものの、腹の虫が鳴りそうな予感に気づき、ふと思わず言葉がこぼれる。


「お腹すいてきたかも。」
「ふふっ、じゃあそろそろ作るかぁ〜。」


ルネは立ち上がり、小さな体で軽やかにかまどの方へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、ウタはふと気づく。

──この仕草も、動きも、やっぱり可愛い。どうしてこんなに目が離せないんだろう?

そんな自分の感情に少し戸惑いながらも、ウタは目線を離さずルネを追い続けた。












日が暮れると、ルネはかまどで夕食の準備を始めた。
ルネの近くに歩み寄ると、彼女は真っ黒なフライパンを火で温めているところだった。その真剣な横顔を見て、私は邪魔しないように両手を後ろに組み、そっと様子を伺う。


「今日は何を作るの?」


少し間を置いて、ルネがちらりとこちらを見て答える。


「んと……山羊バターの香草鶏肉焼き、かな。」
「美味しそう。」


思わず感嘆の声が漏れる。ルネの料理の腕前は見事なものだった。初めて彼女の料理を食べた日、私は「その腕を使わないなんてもったいない」と熱心に説得したことを思い出す。ルネは野営中に料理をするのは非常識だと渋ったが、師匠のリオンが「優秀な弓手がいるんだから心配無用だ」と背中を押してくれたおかげで、こうして今日もご馳走にありつける。


温めたフライパンを火から外し、ルネは山羊のバターを薄く塗り広げた。ふわりと香りが立つ。下拵えを済ませた鶏肉を皮目を下にして敷き詰めると、フライパンを再び火に戻した。皮が焼ける心地よい音とともに、香ばしい匂いが辺りに漂い始める。

鶏肉の皮がこんがりと焼けると、ルネはそれを一旦お皿に移す。カリカリになった皮だけでも美味しそうで、思わず手を伸ばしたくなる。


「まだ食べちゃだめよ。」


見透かされていたようで、私は慌てて手を引っ込めた。


「はい……。」


フライパンには新たにバターが投入され、金色の液体がじわじわと広がる。その中に根菜が加わり、鶏肉とはまた違った甘く香ばしい匂いが漂ってきた。

──確かに、こんな匂いを森中に撒き散らせば狼だって寄ってくるだろうな。

もしもの事態に備え、私は弓と矢を手元に置きつつ、周囲の警戒を怠らない。ルネの料理の手際を鑑賞しつつも、センサー類を起動して周辺の音や動きを確認している。


野菜に火が通ると、鶏肉を再びフライパンに戻す。今度は皮を上にして香草をたっぷりと振りかけ、蓋をして蒸し焼きにする。鶏肉から染み出た旨味がバターや野菜と絡み合い、芳醇な香りが食欲をさらに煽る。


「今日はまた、美味そうな匂いだな。」


近くにいたリオンが満足そうに鼻を鳴らしながら近寄ってくる。その巨体と無骨な姿はクマのようで、普段は干し肉やパンで済ませるのが野営の常だと言う彼女も、この料理の匂いには抗えないようだ。


「毎回こんなことしてたら、普通の食事には戻れなくなるわよ。」


ルネがくすくすと笑う。


「さあ、できたよ。」


蓋を開けた瞬間、バターと香草、焼けた鶏肉と野菜が織りなす香りが一気に広がる。その芳醇な香りは、確実に空腹を極限まで刺激していた。

──この匂い、もう抗えない。絶対に美味しい。

「よし、食べるぞ。」


リオンが嬉しそうに声を上げると、ルネが器用に盛り付けを始める。その手際を見ながら、私は今日も彼女の料理に感謝しつつ、頬が緩むのを止められなかった。



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