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9.夫は関係ありません。

 アラン皇太子は私をじっと見つめて、そのまま何も言わない。

「殿下? アレクサンドラ皇帝陛下とのお約束は何時からですか?」
「ああ、すまない。そういえば、そなたも朝食はまだなんじゃないのか? 良かったら一緒に食事をして、それから母上のところに行こう」

 思わず胸を押さえた。
 はっきり言って、胸が詰まってしまっていて食事が喉を通る気がしない。
 今朝、ミゲルに言われた言葉が何度も頭の中でこだまする。

「そなた、まさか、またカスケード侯爵に乱暴なことをされたんじゃ」

 私を心底心配する紫色の瞳は本当に美しく澄んでいる。
 私が額を切った時でさえ、ミゲルは私の心配をカケラもしてくれなかった。
 今は額の傷跡も綺麗に消えている。

「乱暴などされてません。ただ、傷物で地味な私が侯爵夫人になれた事に感謝しろと言われただけです⋯⋯」
 なぜだかアラン皇太子の前では弱音を吐いてしまう。

 夫であるミゲルの評判を落とすような事は言うべきではないとずっと思っていた。
 でも、私は彼とは離婚して他人になる予定だ。
 今はただ、目の前の私を心配してくれる男に私の気持ちに寄り添って欲しい。
 
「カスケード侯爵閣下は見る目のない愚か者だな。このような宝石のような女性を手にして大切にしないなんて。僕はそなたが悲しんでいるのを見るのは悔しい」

 殿下はそういうと、そっと火傷の痕があった腕を撫でてきた。
 そういえば、長い間、私が気にしていた腕の火傷の痕も今は消えている。

「私、悲しんでいるように見えますか? 私は怒っているのです。自分自身に! あのような男との結婚をしてしまった自分の愚かさに⋯⋯」
「ふふっ怒っていたのか、それは失礼した。では食事に行こうか」

 アラン皇太子はなぜだか楽しそうに笑い、私をエスコートしてダイニングルームに招いてくれた。

 皇家の方だけが使えるだろうダイニングルームには、アレクサンドラ皇帝と子供の時のアラン皇太子が並んでいる肖像画が並んでいた。

 私がそれを眺めいると、彼が席を引いて私に座るように促す。

「肖像画が気になるのか?」
「はい。アラン皇太子殿下が成人を迎える時、きっとアレクサンドラ皇帝陛下はこの肖像画を観にくるのだろうと思います」

 肖像画のアラン皇太子は10歳くらいだ。
(ちょうど私がミゲルと結婚した頃か⋯⋯)

「子供の時の姿を見られるのは恥ずかしい。もう見ないでくれ。それに、この画家、僕を幼く描きすぎだ。僕はもっとこの年頃にはしっかりしていた」
 アラン皇太子が席に座った私の後ろに回り目隠しをしてくる。

 肖像画のアレクサンドラ皇帝は私の10年前の記憶より若めに描かれていた。

 他国から友好関係の為だけに嫁いできた年上の花嫁⋯⋯先の皇帝、皇后、第1皇妃より5歳以上歳上で、行き遅れの王女を差し出してきたと当時から言われていた。
 家族の肖像画だというのに、この肖像画に先皇陛下は描かれていない。
 アレクサンドラ・リオダールは味方のいない皇宮で息子を守る為、戦ってきた女だ。
 結果、彼の息子のアラン・リオダールは皇位を継ぐし、今は彼女自身が皇帝だ。

「その瞬間を見たままおさめられる機械があれば良いですね。虫眼鏡や顕微鏡のようなレンズを使って作れるかと思いますが⋯⋯」

 前世で存在したカメラを想像しながら言った私に、目隠しをやめてくれたアラン皇太子は私の顔を覗き込みながら楽しそうに笑った。

「そなたは発明家だな。話していてとても愉快だ。そのような機械があれば、そなたはどのような映像を残したいのだ?」

 発明家とは、私がクリーム石鹸を得意げに持ってきたことを言っているのだろうか⋯⋯なんだか、気恥ずかしい⋯⋯。私はもう良い大人なのに、子供が工作を褒められているような感じだ。

「ミゲル・カスケード侯爵閣下と愛人の不貞行為の瞬間でしょうか」

 口をついて出たのは不貞行為の証拠写真⋯⋯前世ではそれを武器に離婚できても、この世界では夫の不貞で離婚はできない。

 客観的に見てミゲルの品行方正な評判を少し落とすだけで、私がその程度の行為にも目を瞑れない許容の少ない女だと笑われるだけだ。

「僕は、今、この瞬間のそなたを残したい。昨日、図書館にいた時も、夜の街にいた時のそなたも全然違う顔をしていた。だから、全て残しておきたい」

「アラン皇太子殿下の瞼の裏に残れれば十分ですわ」

 私の言葉に照れたような顔をしたアラン皇太子は、私の向かいの席にゆっくりと座った。
 私たちの間に不思議な空気が流れた時に、グラスに黄緑色のマスカットのジュースが注がれた。
 爽やかなフルーツの香りが鼻をくすぐる。

 その時、突然扉が開きリオダール帝国の最高位にいる女性が入ってきた。

 「アラン! 女性と食事を2人でとっていると聞き、飛んで来たぞ」
 「母上、ノックもなく入ってこないでください」

 ふいっと冷たい言葉を吐いているアラン皇太子だが、親子関係は良好に見える。
(年頃の男の子だから、母親に照れがあるのね⋯⋯)

「アレクサンドラ皇帝陛下に、マレンマ・カスケードがお目にかかります」
 私は咄嗟に立ち上がり、アレクサンドラ皇帝に礼をした。

 真っ赤な礼服を着て長い黒髪を纏めている彼女は、流石帝国の皇帝というだけあり威圧感があった。

「余も仲間に入れてくれないか? 実はアランはここ最近一緒に食事もしてくれないのだ」
「アレクサンドラ皇帝陛下とお食事をご一緒できるなんて光栄です」

「カスケード侯爵夫人。そういえば、私に話があるのだったな。アランから受けとって帝国法の問題点についてそなたが纏めた書類には目を通した。リオダール帝国は見ての通り男社会だ。そなたの望みを叶えるなら、いっそ他国に移住した方が早いと思うぞ」

「恐縮ながらお言葉を返させて頂きます。私はまだリオダール帝国に望みはあると思います。現皇帝であるアレクサンドラ・リオダールは女性です。そのような現状で女性の権利を主張する法案に異議を唱える勇気のある貴族はなかなかいないと思います」

 アレクサンドラ皇帝が皇位についているのは半年だ。
 その短い間に法案を可決するのは難しいだろう。
 それでも今までよりは提案に耳を傾けざる得ない状況があるはずだ。

「アレクサンドラ・リオダール⋯⋯うむ、私の名前だな。リオダール帝国に嫁ぎ、この名前になって随分時が経つのに慣れないのだ。笑ってしまうよな。それにしても、かの有名なカスケード侯爵のご夫人なだけはある。私を前にしても物怖じしないとは⋯⋯」

 皇帝である彼女に対して、身の程をわきまえない物言いをしている自覚はある。でも、私の中には根底に彼女に対する尊敬がある。
(きっと、私の気持ちは伝わるはずだわ)

「母上、カスケード侯爵夫人ではなく、彼女の名前で呼んでください。カスケード侯爵の妻であることだけが、彼女の全てではありません」

「それもそうだな。余もマレンマ・カスケード自身と話をしているつもりだ。では、アランは彼女をなんと呼んでいるのだ?」

「カスケード侯爵夫人です⋯⋯」

 私は笑ってしまうのは無礼だとわかっていたので、必死に笑いを堪えた。
(ダメだ、肩が震えてしまうわ⋯⋯)
 
「では、余はそなたをマレンマと呼ぼう! マレンマ、笑っても良いぞ。アランは少し天然なところがあるのだ。アランもカスケード侯爵夫人ではなくマレンマと呼びたそうだな。マレンマ、構わないか?」

「ふっ、は、はい。構いません」

「そうだ、マレンマ、良かったらアランの閨の指南役を頼めないか? そなたは適役な気がするのだが」

「は、母上、朝からふしだらな事を言わないでください。それに、そのような提案はマレンマに失礼です」

 アレクサンドラ皇帝の冗談をいちいち間に受けて、あたふたしているアラン皇太子が可愛らしい。

「アレクサンドラ皇帝陛下、お仕事を頂けるのであれば私を行政部で働かせては頂けませんでしょうか」

 私の言葉に明らかに2人が驚いた顔をした。

 行政部で行政官になれば、このリオダール帝国を変え安くなる。
 もしかしたら、貴族会議にも出席できるかもしれないと考えたのだ。

「そなたの作成した書類。確かに大貴族のカスケード侯爵家を切り盛りしてきただけあって良く纏まっていた。行政部でも十分活躍できると思う。しかし、カスケード侯爵はそなたの希望を知っているのか?」

 彼女の疑問はごもっともだ。

 裕福な高位貴族の夫人が皇宮で仕事が欲しいと言っているのが不思議なのだろう。

「夫は関係ありません。私はカスケード侯爵閣下と離婚することを考えています」

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