第1話 大好きな旦那様
ここは乙女ゲーム本編を終えて
ヒロインのアイリス、悪役令嬢のベアトリーチェ、モブ令嬢に転生した私も幸せな未来を勝ち取って、思い人と結婚。毎日が華やいで充実していた。
あの日までは──。
魔法学院を卒業して三年イコール嫁いだ年数。
王都から離れた辺境地で私と旦那様は悠々自適な生活を送る──はずだった。
(旦那様の仕事柄、王都や隣国に行ったりと忙しいのはしょうがないわよね)
しかし今日は待ちに待った旦那様が屋敷に帰ってくる日だ。
最近は忙しくて領地に戻っていなかったので、遅い時間だけど一言挨拶をしたかった。慌てて静止しようとした老齢の執事を振り払って彼の部屋に急いで向かう。
(旦那様が帰ってきたのなら妻である私が『お帰りなさい』と言って、旅の疲れを癒やして差し上げたい!)
大好きな旦那様に会えると思い私は浮かれていた。浮かれすぎていたのだ。
旦那様の部屋に辿り着き、ノックをしようとした瞬間、部屋の中から声がしたのだ。
『愛する奥様に気付かれるかもしれないわよ』
『アレは気付かないさ。付き合ってから、ずっと気付いていないのだから』
(え──?)
聞き間違いだと思い、ノックなしに部屋のドアを開けると──ソファには今まさに旦那様が真っ赤なドレスを着た女性に覆い被さっていた。
覆い被さろうとしているイケメンは蒼黒の長い髪、黒檀の瞳に整った顔立ち、間違いなく旦那様だ。
「────っ!」
衝撃が全身を駆け巡る。
この数年積み上げてきた旦那様との絆が木っ端微塵になり、頭が真っ白になった。
なんて空気の読めない妻だろう。
殻を破るような──亀裂音が耳に残る。
ずっと帰りが遅かったのも会いたいと思っていたのも自分だけだったと気づき、足元がガラガラと音を立てて崩れ去った。
浮遊感を覚えた後、私の意識はブラックアウトした。
***
嫁いで三年。
最初は
旦那様は口数こそ多くなかったけれど、眼差しや気遣いが増えて夫婦らしくなってきたと思う。
私の旦那様、ベルナルド・ラッセル・マルクヴェイは、公爵家を継いでおり私より二つ上の方だ。魔法学院で出会ったのがキッカケと家族に話しているが、実は彼のことは前世から知っている。
乙女ゲームの中でルートによって悪役あるいはシナリオの途中で死亡する重要キャラだった。終始
ツンドラだけど人間の血が通っていない冷血漢とは異なり、どちらかと言うと『悪即殺』なだけで、弱い者イジメはしないし、権力を私利私欲なことには使わない。優しさが見えにくいだけの残念(?)というか損をしてしまう人だ。
ゲーム画面でプレイしていた時もそうだが、この世界で見てきてやっぱりツンドラの言動は健在だったこともあり、そんな彼が大好きになった。自分から積極的に声をかけて、あしらわれつつも一年かけてずっと彼にアタックしたのだ。
親友の
日数で言えば三百六十日目の告白。ダメ元でも想いを伝えた結果、交際を認めてくれた。
それから二年後、私が卒業した段階で結婚。
結婚したときは本当に嬉しくて、幸せで。
だから結婚式の夜、急遽仕事が入って出て行ってしまった時も。
一緒にお茶する時間が付き合っていた頃から減ってきても。
年単位で隣国の視察に出て家を空けるとバツが悪そうに話した際も。
「行ってらっしゃいませ。……お帰りをお待ちしていますわ」
そうできるだけ明るく答えた。
大丈夫、ベルナルド様はマメな方だ。「手紙を寄越す」と気遣って下さった。
大丈夫、「今度、埋め合わせをしよう」とも言ってくださった。
大丈夫、結婚しても笑顔は見せてくれなかったが、それでも沢山のキスをしてくれたから。
耐えられる。
大丈夫。
大丈夫。
片思いで彼の背中を追いかけていた時よりも関係はずっと親密で──私は彼の妻なのだから。
妻として屋敷をしっかり管理すれば、帰ってきたときに旦那様も喜んでくれる。
褒めてくれるかもしれないし、私の時間を作ってくれるかもしれない。
だから執事のジェフと侍女長のハンナ、屋敷のみんなに支えてもらってこなしてきた。
今度旦那様が帰ってきたら屋敷でのんびりと過ごせるようにしておきたい。
そして誰よりも最初に「お帰りなさい」と言おうと決めていたのだ。
なのに──。
卵の殻が破れるような亀裂音が聞こえてくる。
もし殻が破けたら何が生まれるのだろう。
ただこの卵は、あるいは種は芽生えさせてはいけないのではない。
そう、なんとなく思った。でも、もう自分では止められないだろう。
意識が浮かび上がる感覚に「ああ、全部夢なのね」とぼんやりしつつも安堵した。