初日③ ターゲットをロックオン
「今日はね、お母さんが肉じゃが作ってくれたんだ。出来立てほやほやだから、まだ温かいよ」
「あ、ありがとう、妃奈子ちゃん。いつもごめんね」
その日の夕方、山田家には一人の少女が訪れていた。
クリクリの大きな瞳のその少女は、その年齢の少女にしては小柄な子であった。
肩まで伸びた黒い髪を、高いところで一つに結い上げたこの少女こそが、水城妃奈子。
太郎の片想い中の相手であり、タロのターゲットでもある。
彼女、妃奈子は手に持っていた紙袋を太郎に手渡すと、大きな瞳を柔らかく緩めてニッコリと微笑んだ。
「ううん、いいの。太郎君の家、今大変でしょ? それに太郎君のお母さんにも頼まれたから。太郎君をよろしくって」
「そんなの気にしなくって良いよ。お父さんとお母さんが勝手に出掛けて行っただけなんだから。それなのに、妃奈子ちゃん家に迷惑なんて掛けられないよ」
「迷惑なんかじゃないってば。だって困った時はお互い様でしょ? だから気にしないで!」
ニコリと花のような笑顔を見せる少女に、太郎はほんのりと頬を赤く染めた。
「それじゃあね、太郎君。また明日、学校でね」
「う、うん、また明日!」
「うん、おやすみなさい」
「お、おやすみっ!」
バイバイと手を振りながら去って行く妃奈子を見送ると、太郎は静かに玄関の扉を閉めた。
(はあ、やっぱり可愛いなあ……)
目尻をヘニャンと下げただらしない表情のまま、太郎は紙袋の中を覗き込む。
入っているのは、肉じゃがが詰められているだろうタッパ。
まだほんのりと温かいそれは、妃奈子が自分のために持って来てくれた物。
(妃奈子ちゃんが、わざわざ僕のために……)
そう思うだけで幸せな気持ちになれるのは、どうしてだろうか。
しかし、フニャフニャと緩む口元を、太郎が押さえた時であった。
「ほほほほーう、なるほど、なるほど。あれがヒナコちゃんですか」
「っっ!!?」
突然後ろから聞こえて来たその声に、太郎はビクッと肩を震わせた。
「わ、び、びっくりした……っ」
思わず肉じゃがを落とすところだったよ、と呟きながら振り向けば、物陰に隠れながらこちらの様子を窺っているタロの姿があった。
「いやいやいやいや。中々可愛い子ではないか。キミも隅には置けんな。まあ、どちらかと言えばボクは、可愛いよりもグラマラスな年上美人の方がタイプですけど」
「キミの趣味は聞いていないよ」
彼の口ぶりからするに、どうやらタロは、今程のタロと妃奈子のやり取りを最初から見ていたらしい。
片手にペロペロキャンディを握りながら、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべているタロに、太郎は小さな溜め息を吐いた。
「で、どんな子なんだね? ドコがお気に入りなんだい?」
「ど、ドコって、それは……っ」
「もったいぶらずに教えたまえ! ボクはキミ達の恋のキューピットなのだから!」
「キューピットって……」
キューピットと言うか、何と言うか。ただ単に進級試験の追試をしているだけじゃないか。
もの言いたげな眼差しで訴える太郎であったが、そんな眼差しなどタロに通用するハズもない。そればかりか、言わなければこの場から解放してもくれないだろう。
諦めたようにしてもう一度溜め息を吐くと、太郎は仕方がないと言わんばかりに、ガシガシと頭を掻いた。
「妃奈子ちゃんと僕は、幼馴染なんだ」
「おさ……ななじみ?」
聞き返して来たタロの言葉に頷くと、太郎は今度は照れ臭そうに頬を掻いた。
「物心付いた時からずっと一緒でさ、見ての通り、家も近いんだよね。それに彼女、すっごく優しくって、思いやりのあるとても良い子なんだ。今日だって、両親が留守にしている僕のためにわざわざ肉じゃがを持って来てくれたし……。勉強とかスポーツとかが特に秀でていると言うわけじゃないんだけどさ。でも好きなんだよね、彼女の柔らかい雰囲気が暖かくって落ち着くって言うか……。あ、あはははっ、何かもう、上げて行ったらキリがないねっ!」
照れ臭そうに頬を染め、もじもじしながら好きな子の話をする太郎の姿は、傍から見たら初々しくて微笑ましいモノだろう。
「……え、って、タロ?」
しかし、タロの反応は違った。
生暖かい目で見守るどころか、冷めたような軽蔑の眼差しで、じっと太郎を見上げていたのだ。
「あ、ごめん、引いた? ちょっと、気持ち悪かったよね、ごめんねっ!」
デレデレした表情を見せ付けられて、不快な思いをさせてしまっただろうか。
元はと言えば、「妃奈子の事を話せ」と言ったタロが一番悪いのだが、何だか申し訳なく思った太郎は、慌てて謝罪の言葉を口にした。
「……はん」
するとタロは、あろう事か突然鼻で笑いやがった。
「キミも幼馴染マニアか。幼馴染であれば、それが例えどんなに醜悪女であろうとも好きになると言う傾向の男ですか。何だ、何だ、みんなして、幼馴染幼馴染ってさ。周りを見れば、もっと良い女なんて星の数程いると言うのに。視野が狭いったらありゃしない。この、井の中の蛙野郎が!」
「キミは、僕の話の冒頭しか聞いてなかったんだね」
せっかく彼女の良さを色々と教えてやったと言うのに。
それなのにタロは、冒頭の『幼馴染』と言う単語しか聞いていなかったらしい。
さっきの申し訳ない気持ちや謝罪の言葉を返せ、と思いながら、太郎はギロリとタロを睨み付けた。
「言わせてもらうけどね、僕は別に妃奈子ちゃんが幼馴染だから好きってわけじゃないんだからね! 例え幼馴染じゃなくとも、妃奈子ちゃんだったら去年出会ったばかりだろうが、明日出会う事になろうが、担任教師になろうが、どんな出会い方にしたって好きになる自信があるんだからね!」
「はーい、はいはいはいはい、聞きませーん。幼馴染マニアはみんなそう言うんでーす。ふん、男のクセにグダグダと言い訳かましやがって。幼馴染だから好きですって、潔く認めろよ」
「だからそうじゃないって言っているだろ? だいたいキミは、幼馴染なら良いって言うけどさ、いくら幼馴染だからって、僕は姉ちゃんの事は……」
しかし、太郎が更なる言い訳を繰り出そうとした時だった。
嵐でも来たのかと思うくらいの大きな音を立てて、玄関の扉が物凄い勢いでぶち開けられたのは。
「やっほー、太郎ちゃん元気ぃ? ちゃんと生きてるぅ!?」
「っ!?」
次いで響き渡った大声に振り向けば、そこにいたのは一人の少女。
キリリとした大きな釣り目に、腰にまで伸びた艶やかな黒髪。
男子である太郎よりも高い身長に、抜群のスタイルと言う、まるで女優のような容姿をした美少女中の美少女は、家の中に押し入ると、呆気に取られている太郎にニッコリと微笑み掛けた。
「あら、ちゃんと生きているみたいじゃない! お姉ちゃん、心配してたのよ。太郎ちゃんが一人で泣いているんじゃないかって。だから今日から一週間、お姉ちゃんが遊びに来てあげるからね。ゲームもいっぱい持って来たから、今日は夜通し神経衰弱を……うん?」
ふと、ぶつかり合う瞳と瞳。
美少女の凛とした瞳に映るのは、クリクリ真ん丸の黒目と、二頭身の小さなデフォルメ少年。
そしてダボダボの学ランと、手に握っているペロペロキャンディ。
「かっ、か、かわいいっ!」
「グギャーッ! グギョゴギョッ!?」
次の瞬間、美少女は黄色い声を上げながら、彼を力の限り抱き締めた。
そしてそれと同時に響き渡ったのは、少年の悲鳴と何かが軋む音……たぶん骨だな、うん。
「ちょっと、太郎ちゃん、何コレ、何この子!? めちゃくちゃ可愛いんですけど! 何、弟!? 隠し子!? 拾ったの!?」
「姉ちゃん、ステイ! とにかく放して! 落ち着いて! このままだと僕ん家殺人現場になっちゃうからッ!」
ツッコミどころは多々あるが、それは後にする事にして。
ブクブクと泡を吹いているタロを美少女から引き離すのに、太郎はそこそこの時間を要した。